第2話 青の咆哮
――20時。
仕事帰りにふらっと寄れるこの水族館は
桜色のネクタイを一日分のため息とともに緩めると、慣れた足取りで青い空間へ進んでいく。
ここは余計な音が無い。
あるのはただ青と、淡々と続く、小さな絶望。
捕らわれて、もう大海原を漂うことができない絶望か。
囚われていることすら知らずに生を終えていくことへの絶望か。
思わず声が喉を伝っていた。乾いた心に未だ歌がくすぶっていたからだ。
彼のためだけの音楽。
時を戻せるなら、なんてダサいから考えたくもないけれど、学生時代の呑気に一心不乱な自分に言ってやりたい。
「いいか、音楽なんてやるなよ。自分を苦しめるだけだ」
羨望、嫉妬、自己嫌悪をこのまま一生背負っていくのかと思うと笑えて来た。
なのに音楽を捨てた今も、口遊むのは歌で、それに救われているなんて。
自分を必要としているものは何なのか、一体この世にあるのか。――ある、と前提して生きてもいいのかさえ分からない。
今日から丁度一年前、偶々耳に入ってきた「彼女」の歌が、耳について離れない。
画面を通した、顔も年齢も分からないその人の音楽は名波にはない音を、言葉を持っていて、多数に必要とされていた。
そのとき自分の音楽は、自分のためにしかないことを悟った。
歌手になりたかったわけじゃない。
ただ歌を歌いたかった。いつも歌を歌うためだけに歌っていた。
辞めてしまう方が、中途半端に縋りついているよりも楽だ。
針につつかれたように音に反応する指は無視しても案外平気。
それでも今は夢を捨てたような哀れな顔して、
それが生きていくってことなんだろう?――と自分に言い聞かせて、大人になった振りをしている。
厚いガラスの向こう側に漂う七色に光る烏賊は、空を飛ぶ、なにか現実離れしたもののようで、普段それらを食べていることなんか感じさせないほど完成した宝石が生を持っているようだった。
メディアに編集された「生きざま」を見る度思い知らされる。
きっと人生でわき目も降らずに打ち込めることがある人は稀で、大抵の人は、本当は何が好きか、何になら努力の辛さも忘れて熱中できるのか、分からないんじゃないだろうか。そしてそのまま、死んでいくんじゃないだろうか。
何匹か群れの方向に逆らって泳いでいるイワシの大群。
この中では天敵に襲われないことも知らずに、必死になって(いるのかどうかは分からないが)、銀色の腹が乱反射する。
承認欲求の奴が今日も邪魔をする。
『畜生、だれか必要としてくれよ』
叫びたい心が水に溶ける。
自分に何もないことなど分かっている。人の役に立ちたい、とかそんな高尚な人間でもない。
相反する感情は、
『――誰も僕を見ないでくれ』。
自分を許すことができないのに、ここに居ていい、と言って欲しいのだ。我ながら女々しいと思う。
なにもかも水槽に吐露してしまったように、結露したアクリルガラスから顔を遠ざける。
名波の「今日」はこれで終わった。はずだった。
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