第23話 夕飯


 コンコン、と。壁を軽く小突こづく音で、蛍は我に返った。

 反射的に肩を飛び上がらせて、弾かれように振り向く。

 作業部屋の入り口には、苦笑を浮かべたハリが立っていた。


「そろそろおしまいにしときな。晩ご飯の準備ができたよ」

「え……? も、もう?」


 そういえば、今何時だ。

 そう思って立ち上がろうとして、蛍は座卓に着いた手にまるで力が入らないことに気が付いた。たくした体重を支えてもらえず、ずるずると座布団の上にへたりこんでしまう。


「お、あ、わ……あ、あれ?」


 足がしびれたのかと思ったが、どうやら少し違うらしい。しびれはまったくない。だが足も、腕同様にまるで力が入らない。


 ハリがあきれたようなため息をついて、腕を組んだ。


「いや、声をかけなかったあたしが悪いけど、石琴弾きっぱなしで何時間も集中していられるなんてねぇ。若い子はすごいね」

「あの。今、何時?」

「七時だよ。あんたが休憩を終えてこの部屋に戻ったのが四時ごろだから、三時間、飲まず食わずぶっ通し、どうやらその様子だとちょっと一息つくこともなく、ずーっとやってたんだろう」

「三時間……そんなにたってたんだ……。全然気が付かなかった」


 体感としては、ほんの三十分か、せいぜい一時間くらいの気持ちだったのに。

 改めて、今度は慎重に床に手をつき、なんとか体を引き起こす。やっとの思いで立ち上がったとたんに、足元がふらついた。


「そうみたいだね。こっちの作業を終わらせて、晩ご飯の支度も終わって、それなのにあんた部屋から出てきやしないんだから。びっくりしたよ」

「うん……ごめん」

「こちらこそ。もっと気を付けておいてあげればよかったね。眩暈めまいとかはしないかい?」

「とりあえず……」


 答えたとたんに、響き渡るような腹の音が鳴った。自分の腹の音だと気付くのに、蛍は数秒かかった。

 こんなひどい音は初めて聞いた。


 ハリが明るい笑い声を投げてくる。


「そりゃお腹もすくよ。石琴を弾くのは、ものすごく集中力がいるし、体力も使う。三時間もやってりゃ、へとへとだ。とっととご飯食べちゃいな。じゃないと倒れるよ」


 蛍は素直にうなずき、うながすように歩き出すハリを追って食卓へと向かった。

 空腹で倒れたことは幸いなことに今まで経験がないが、このままだと本当に数分のうちに初体験を迎えることになりそうだった。

 それくらい、体の中がからっぽだ。


 食卓にはカレーライスとサラダが並んでいた。ちょうど藍が全員分のスプーンを並べ終わったところだ。

 気遣うような目でこちらを見て、藍がうかがうように小首をかしげる。大丈夫かと問うている仕草に見えた。


「あ……だ、大丈夫です。腹減ってるだけで……」


 絞り出すように蛍が答えると、ほっとしたのか藍は目を細める。それからどうぞと、蛍の席を手で示した。

 ここ数日ですっかり定位置と化したハリの隣の席には、他の皿とは明らかに盛り付けの量が違う、大盛りのカレーライスが置かれている。

 小ぶりなサイズに切られたジャガイモやニンジン、玉ネギと一緒に、ひき肉を煮込んだカレーだ。大皿に盛られたサラダはゆで卵を細かく刻んでマヨネーズとあえた、タマゴサンドの中身のようなものをたっぷりの生野菜が取り囲んでいる。

 甘くも感じるスパイシーな香りが容赦なく蛍の脳を刺激する。再び腹がぐるぐると唸り声のような音をあげた。

 この尋常でない空腹感の前に、カレーの香りはとんでもない誘引ゆういん効果を発揮した。吸い寄せられるように蛍は席につくと、すぐさまスプーンを握り締めた。


「い、いただきます」


 言い終るのと同時に、こんもりすくったカレーライスを口に突っ込んでいた。


「あっ、つ!」

「あ……」

「気を付けなさい。あとまだたくさんあるから、食べたいだけ食べな」


 驚いた藍の吐息のあとに、ハリの愉快そうな声が続いた。

 ふたりに返事することもできずに、蛍はまさにがっつくという言葉が示す通りの勢いでカレーを食べる。石炭でもくべるような動作だった。

 食べて、食べて、食べて。あっという間に一皿目を食べ切って。そこでようやく、まともな思考回路が戻ってきた。


「はー……」


 コップに注がれた牛乳を一気に飲み干して、深く息を吐き出す。

 笑いながら藍が、空になった皿を取った。おかわりは、と仕草が問う。

 いやそれくらいは自分で、と言う蛍を制して、藍はどこか楽しそうに二皿目のカレーを盛り付けるべく席を立った。


「で、調子はどう? やれそうかい?」


 まだ半分も食べていないハリが、手元でルゥと米を混ぜながら聞いてくる。


 なにが、と聞き返しそうになって、なにがもなにもないと蛍は気付いた。

 ブレスレットのことに決まっている。


「ああ、うん。……ちょっとだけ、音が出たよ」


 答えて、ようやく実感がやってきた。


 あのあと。心を入れ替える、と言うと大袈裟だけれど、気持ちを切り替えることができたあと。しばらくは四苦八苦が続くだけだったが、あるとき不意に音が返ってきたのだ。

 蛍が鳴らした音と同じくらい、言葉にはできない奇妙な音だがはっきりと、存在を主張するように一音。確かにあのブレスレットの中から、音が返ってきた。


 まだ石の中は黒ずんだもやのようなものがあって、預かったときから見た目はなにも変化していない。

 だが鳴ったという事実が蛍をひそやかに興奮させた。

 それまでもずっと夢中だったけれど、そこからさきはもっと夢中に、蛍は石琴を聞かせ続けて。

 ハリに止められるまでの間に、ブレスレットは三つ、音を返してくれた。


「そうかい。そりゃすごい。始めて間もないってのに、ちゃんと音を返してくれるなんてね。中に込められてる気持ちはきっと、素直な想いなんだろう」

「うん。そうかも」


 蛍は自然とほおゆるむのを感じた。

 ハリの言う通りだと思うのだ。ひとつ返ってくるまでに時間はかかるものの、返してくれた音はどれもはっきりした印象の、真っ直ぐな音だった。

 ポーンとトーンとコーンの中間。そんなぱきっとした音が、始めだけ強く、すぐに弱く響いて、消える。

 どこか小気味いい音質は、持ち主の気質を思わせた。


「あ。ありがとうございます」


 また大盛に盛られたカレー皿が目の前に置かれる。

 藍へ向き直り蛍がお礼を言うと、藍はにっこりと笑みを浮かべて頷いた。そんな顔をされると、少し恥ずかしい。わんぱくな食欲を微笑ましく眺められているような心地だ。というかきっとそう思われていることだろう。


 二皿目は、もう少し味わって食べよう。そう己に言い聞かせて、大きくカレーをすくい頬張った。

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