第2話 ハリ



 インターホンを押してしばらく。てっきりインターホンから声が聞こえてくると思っていた蛍は、視界の外で引き戸が開く音を聞いて慌てて顔を上げた。


 門扉の向こう、祖母の家の玄関が開き、そこからひとりの女性が顔を覗かせていた。

 祖母ではない。蛍の知らない女性だ。

 ほっそりとした華奢な体つきに、決して顔色がいいとは言えない白い肌。つっかけたサンダルはぺったんこの底をしていて、高いヒールの靴を履いているわけではないが、頭の位置はそこそこ高かった。

 歳は蛍より、いくつか上だろう。

 おそらく学生ではない。馴染みのある特有の『ぬるさ』のようなものを、彼女からは感じなかった。


 見知らぬ女性は、蛍を見ると丁寧に会釈をした。長い髪を後頭部でまとめている、青色の髪飾りが一瞬見えた。

 つられて蛍も浅く頭を下げる。

 どうぞ、という言葉の代わりに、女性はゆったりと手を差し出して蛍を家の中へと促した。

 入っていい、ということだろうか。

 確証に足らないあやふやな感覚に戸惑いながらも、蛍は門扉を開けて女性の招きに応じた。


 玄関をくぐれば、そこは覚えのある祖母の家に間違いなかった。

 対応した人こそ違うが、靴箱の脇に下がっている靴べらも、立てかけられたほうきも、傘立てに刺さった花柄の傘も、前に来たときに見たものと同じだ。


 なんとなく、ほっとする。

 ほっとしてから、なにを安心などする必要があるのかとわずかに憮然ぶぜんとした。

 ここは蛍の祖母の家だ。幼いころから何度も来た家だ。緊張する必要などなければ、安堵する必要だってないはずなのに。


 対応に出てきた女性が先に上がり、スリッパを出してくれる。

 慣れた手つきだった。

 ヘルパーだろうか。


「あ、どうも」


 それだけ言って、蛍はスリッパに足を突っ込む。


 そこでようやく、やっと口が利けたことに気付いた。

 いくら驚いたとはいえ、初対面の女性相手に挨拶ひとつできなかったとは。ちょっと情けない気持ちになった。


 女性はにこり、という音がよく似合う笑みを浮かべて、静かに家の奥へ引っ込む。

 その背を追うようにして、蛍も後に続いた。祖母の家で唯一テレビの置いてある、居間へと入る。

 そのとたんに、朗らかな声が飛んできた。


「おやまぁ、ちょっと見ないうちに大人っぽくなったじゃないか」


 案内してくれた女性の静けさを一息に打ち破る、よく通る声は祖母のものだ。顔を見なくたってわかる。なんとなく。


 思わず蛍はこれ以上できないほど表情を緩めていた。知らぬ女性相手に、知らず知らずのうちに張っていた気持ちが一気に緩んだせいだろう。

 今のソファの上でティーカップを持っていた祖母に駆け寄り、目線を合わせるように腰を屈める。


「ばあちゃん。なんだよ、元気そうじゃん」


 相変わらず背筋はしゃんと伸びていて、栗色に染めた短い髪はふんわりセットされている。薄化粧に、目立たぬ色の口紅。裾の長いシャツのようなデザインの黒いワンピースはカジュアルにキマっている。


「元気だよ、そりゃ。腰打って動けなくなっただけなんだから。なにも病気したわけじゃないよ」


「それはそうかもしれないけど。老人って、一回怪我すると弱るって言うからさ」


「おや、失礼な子だね。誰が老人だって? ……まあ、六十越えりゃ老人か。やだねぇ、老人なんて響き。せめて老婦人と言ってほしいね」


 そう言って蛍の祖母、みなとハリは、優雅な扇子でもそこにあるかのようにしなやかに手をひらつかせた。

 そのまま、見えぬ扇子でソファの隣を軽く叩く。


「さあほら、いつまでも突っ立ってないで、座んなさい。ちょうどお茶飲んでたところだから、お前もあいさんに淹れていただくといいよ。彼女の紅茶は美味しいんだから。コーヒーもいいけどね。今日は紅茶。アールグレイだよ」


「紅茶の名前なんて俺、わかんないよ」


「わかんなくてもいいんだよ。こういうのはまず気分からだ。藍さん、手間かけるけどもう一杯お茶いただいていい? この子にもあんたの紅茶飲ませてやりたくてさ」


 蛍の頭を飛び越えて、祖母、ハリは居間の隣にある台所へと声をかける。

 その声と視線を辿って、蛍も台所を見やった。

 そこにはさっきの女性が立っていた。やはり丁寧に会釈を返すと、彼女はすでに用意してあったカップへ紅茶を注ぐ。


 その様を横目に、蛍はさすがにこれ以上聞かずにおれずに祖母へ問う。


「あの。あの人、ヘルパーさん?」


「ありゃ、知らなかったっけ? 藍さんだよ。ヘルパーじゃなくて、あたしの仕事の手伝いをしてくれてるんだ。助手ってやつ」


「助手……?」


 といっても、お茶を淹れたりしているし、やはりお手伝いさん的な側面が強いように見える。だとしたら自分は必要ないのではないだろうか。

 自分より、藍という名らしい彼女のほうがよほどこの家ににも、祖母の世話にも慣れている気がするのだけれど。


「あくまで彼女は仕事の助手だよ。お茶を淹れたりするのは、彼女の本来の仕事じゃない。彼女がいい人だから、手伝ってくれてるだけ。彼女には彼女の仕事があるし、それに見ての通りか弱い女性だろう。力仕事なんかはとてもお願いできないよ。あたしを支えて歩くのも大変なんだから」


 だから、お前が来てくれて助かるよ。


 ハリはいつの間にか蛍を真っ直ぐ見据えていて、にんまりと笑ってそう言った。


 蛍はどきり、とする。

 ほらこういうところだ、と思う。

 まるでこっちの心が読めるみたいなことを言う。それだけ、蛍がわかりやすすぎるだけなのかもしれないけれど。


 藍がやってきて、蛍の前に紅茶を置いた。

 いい香りだ。なんの匂いなのかはわからなかったけれど、これがきっとアールグレイの匂いなんだろう。


「い、いただきます」


 どうぞ。そう言う代わりに、藍は小さく頭を下げて、立ち上がると台所へと戻った。ハリの言う『彼女の仕事』がそこにあるのだろうか。

 蛍にはやはり、ヘルパーの動き特別がつかない。

 カップにそっと口をつける。紅茶は熱かったけど、理屈のわからない優雅なおいしさに驚いた。


「おいしいだろう」


 自慢げにハリが笑う。


「おいしいです」


 蛍が答えると、そうだろうそうだろうと満足そうに言って自分もまたカップを傾けた。


「そういえばさ」


 もう少し冷ましたい。紅茶の水面すいめんに息を吹きかけてから、蛍は口を開いた。

 さっき聞こうと思って、一回気を逃したから。今聞こう。


「ばあちゃん、仕事ってなにやってんの?」


 若いころは宝石店の販売員だったと聞いたことがある。

 でも今は違うはずだ。そして若いころからずっと、それとは別に特殊な仕事をしているという話も、聞いたことはあった。

 その詳細はなにも知らない。


 藍という女性が手伝っている『仕事』というのは、こっちの特殊な仕事のほうだろう。


 ほんの小さな興味からの質問だった。


 けれどハリはまるでその質問を待っていたかのように、たっぷりもったいぶってから答えた。


調石師ちょうせきしだよ」


 その声はとても優しくどこか甘く、アールグレイにも似た香りがするようだった。

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