第8話 星降る夜の騒乱(4)
シズルが足元で剣呑に唸った。
「──サー・バティスト、あの小童生きておったか。ゴラーナめ止めを刺せなんだな」
「これは、これは、〈蒼き炎〉……久しい顔もあったものですね。今度はそのにんげんについているのですか」
シズルは背中の毛を逆立たせると「気安く呼ぶな。冥界の下衆が」と吐き捨てた。神さまだから顔も広いんだろうけど、ゴラーナ大賢者や魔王軍とも面識があるとは。
悪魔は額の辺りを押さえて不愉快そうに頭を振っている。アデルの反撃が効いていた。
杖を構えたトラクと二人並び立つ。
こんな状況だが、脳裡には薬草学フィールドワークのあの瞬間が蘇っていた。
「……空間転移魔法は?」
「二人が限界だしこの状況じゃ失敗すると思うよ」
「じゃ目下、あの二人を戦闘不能にして逃げ遂せるしかないってことか」
「或いは助けがくるまで持ち堪えるか……」
青いドレスに杖を構えたロロフィリカは、髪飾りを揺らしながら嫣然と口角を釣り上げる。
「いくらニコラたちが優秀でも、いくらエウフェーミアが魔力の化け物でも、魔法使いのタマゴが何人束になったってサーに敵うわけないよ。諦めて、心平らかに潔く、死んで!」
ロロフィリカの青い魔力を伴う雷が空中の魔素を伝って襲い来る。俺は杖を振って、対魔法防御の障壁を立ち上げた。代わりにトラクが樹木魔法を揮う。洗心の石舞台の白い床を割って地中から木の根が躍り出ると、ロロフィリカは火炎魔法で退けた。
「ロロフィリカ、最初から嘘だったのか、何もかも……!」
「当たり前じゃん! 最初に出逢ったあの日から、ニコラたちに本当を話したことなんて一度もないよ。あたしはリディアとアデルを殺してエウフェーミアを生贄にするために、通いたくもないバルバディアなんかに入学して、退屈な授業毎日受けて、クソみたいな微温湯生活を送っていたの。それも今日で終わりだと思うと清々するわ!!」
魔法の応酬の最中、ロロフィリカが背後に庇っていた悪魔の姿が再び、消えた。
前列に俺とトラク、後列にリディアとアデルとエウが並んでいた俺たちの間に割り込むと、悪魔はまず後ろからトラクを片手で薙ぎ払った。寸でのところで使い魔が間に入る。一瞬だけ姿を見せたのは小さな木の妖精だったが、トラクの体が壁際に強く叩きつけられた瞬間、霧散した。
次に魔力の塊を俺にぶつけた。シズルが割り込み蒼い炎で相殺する。咄嗟のところで悪魔の魔力が威力に勝った。魔法障壁は鏡のイメージにすると魔法を反射する、いつも頭の片隅にあったルウの言葉通り、トラクがやられた瞬間展開を切り替えた対魔法防御の障壁が、悪魔の攻撃を跳ね返した。
それでも反射の力が僅かに負けて、俺はシズル諸共よろめいた。
自分の魔力の塊を直に浴びた悪魔の漆黒の双眸が醜く歪む。吹けば飛ぶような人間のガキに、大したダメージではないとはいえ、二度も三度も反撃を喰らったのが許し難いのだ。
「──猪口才な……!」
悪魔が再び掌に魔力を集めた。
反射、いける。そう思って構えようとしたが同じ手は通用しなかった。俺の反応より先に動いた悪魔に蹴り飛ばされた。
白石の床に叩きつけられ、頭が揺れる。体のどこかでべきゃっと懐かしい音がした。あれは骨が折れる音だ。右腕を下にして床に転がった俺の腹辺りに、シズルが力なく横たわっている。
「いってぇ……」
指、動く。手首、腕、脚も平気そうだ。ずきずきと尋常じゃない痛みが脈打っているのは、肋骨だ。息はできるから肺は無事だが、おい、骨折なんて死に際以来十五年ぶりだぞ。
次に悪魔が振り払おうとしたのは小賢しい魔術使いのアデルだ。もともと殺す気だったイルザークの弟子。魔力の炎で生きたまま焼き尽くそうと放った炎はしかし、アデルの胸元から散った火花に阻まれた。
黒い火花。
悪魔はアデルの頸を掴んだ。その腕にも黒い火花が纏わりつく。もう片方の手でアデルの胸元を暴くと、そこには黒い衛石の首飾りがあった。
黒亀の甲羅に生える石を薄く研磨し、魔力を籠めて衛石とする。持ち主に加わる危害の魔力が強ければ強いほど拒絶の力の増す高度なまじないだ。悪魔の強い魔力でアデルを殺すことはできない。
「イルザーク──あの忌々しい裏切り者が……!」
「アデル!!」
悪魔は腕を一振りしてアデルを放り投げた。脚を大きく後ろに引き絞り、勢いよくアデルの腹部を蹴り飛ばす。
エウを抱えて逃げようとするリディアを冷眼に見下ろすと、悪魔はくたびれたように息を吐いた。
いっそ鷹揚にすら思える仕草でリディアの頬を張る。
彼女の右手を足の下に踏み躙ると、くたりと倒れ込んだエウの体を無駄に恭しく抱き上げ、小さな子どもか人形でも抱えるように片腕に載せてみせた。
「全く、鬱陶しい羽虫がつぎつぎと……。陛下にお目覚め戴いてからイルザークの弟子の二匹をじきじきに裂いて戴くがよいかと思っていたのに。あまり煩わしく指輪まで発動しようというのなら、この右手だけ先に切り落としてもいいのですよ、ひとのこ」
しずかな絶望が背筋を這い上がってくる。
一瞬で制圧された。形勢は全て覆った。
これは無理だ。
八百年の長きに渡って魔法教会を震撼させてきた魔王の懐刀、その上から三番目──第一配下は魔王を怒らせて追放されているのだから、実質サー・バティストはナンバーツーだ。
二十七年ほどサバを読んだだけの魔法使いのタマゴ一年目では、どう足掻いても倒せない。もちろん身分詐欺をしていようが、〈精霊の眼〉持ちの学年首席だろうが、指輪持ちの主人公だろうが、同じ。
──ここまで手も足も出ねえ相手、どうしろってんだよ。
一周回って腹が立ってきて拳を握りしめると、ロロフィリカが俺の傍にかつかつと歩いてきた。
ひらりと揺れる華やかな青いドレスが忌々しい。
「ニコラってば、本当にエウフェーミアのことが好きね。こんなとこまで来ちゃうなんて」
「ロロフィリカ……!」
「もうちょっとくらい気まずく感じて、あたしたちのこと捜さずにいれば、死ななくて済んだのにさ」
バチ、と火花が散る。
最初から嘘。全部。プリンスの実物が見られて嬉しいと笑ったあの出逢いも、家族構成も、同じ寮ねと喜んでいた笑顔も、この一年間過ごした何もかも、全て。
エウフェーミアを騙していた。
魔王復活の生贄にするために。
「ロロフィリカ、殺しておきなさい」
「サー、いいの?」
「せめてこの子羊と一緒に贄にしてあげようかとおもったけれど。手負いの獣はかえって危ない。私はこの子の魔石を取り出すから、そのあいだにやっておしまいなさい」
ごちゃごちゃ何か言っている。ロロフィリカが杖を手に、こっちを向く。悪魔はエウの胸元に指先をあてた。
「このていどの魔力であれば、指輪の炎を使うまでもなく匣を破壊できるでしょう。封印魔法もしょせんは魔法ですから。もとの魔法をはるかに凌駕する魔力であれば、細かい解印もひつようありません。ああ、とてもよい贄だ。まるで陛下の糧となるために生まれてきたかのようです」
なんでだ。
なんでエウばっかこんな目に遭うんだ。あいつが何したっていうんだ。ただ人よりちょっと魔力が多かっただけだ。
動けよ体。このポンコツ野郎。大事なときに!!
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