閑話・とある婚約者のひとりごと(2)


「エウフェーミアさん……!」


 トラクの声に足を止める。

 追いかけてきてくれた彼は、その場にしゃがみ込んだエウフェーミアの横に膝を折って、丁寧な仕草でハンカチを差し出した。


「寮に戻るなら、涙を拭いてからにしたらどうかな」

「……ありがとう」

「いや。ごめんね、正直なところ意外だったんだ。どちらかというと俺は、ニコラがきみに過保護なんだと思ってたんだけど……」


 上品なセピア色のハンカチで目元の滴を拭う。

 そのまま返すのも忍びなく、手の中にぎゅっと握っていると、トラクはふと口元をやわらげた。


「エウフェーミアさんも、ニコラのことがだいすきなんだね」

「……そう。そうなの」


「うん」とうなずくトラクの声はまろやかで、言葉少なにも、エウフェーミアの弱音の続きを促してくれていた。



「ニコが心配性なんじゃない。卑怯なわたしがそうさせただけ」



 ニコラとエウフェーミアは許婚だ。

 だけど初めて出逢ったあの日、彼はこう言った。──ここで断ったとしても次の話を持ってこられるだろうし、子どものうちは婚約者ってことでいいか。エウに好きな男ができたり、俺に好きな女ができたり、お互いどうしても性格が合わなかったりしたら、その時点で解消しよう。



 疫病神の自分が誰かに恋することはないだろう。

 それはつまり相手を危険にさらすことになるから。



 だから二人の婚約が解消されるとしたらニコラに好きな女の子ができたときで、バルバディアに入学して様々な人との出会いを持った今、遠いいつかの話ではないような気がしていた。


「いやぁ、ニコラ自身もけっこう楽しんで過保護やってる感じはあったけどね」

「……そう見える?」

「ああ。少なくとも、本当に大切に思う相手でなければ、身を挺して庇ったりしないんじゃないかな」


 その言葉が薬草学の一件を指しているのは明らかだ。

 エウフェーミアは顎を引いてうなずくと、ほっとしたように息を吐いたトラクを見上げる。


「とにかくさ、ニコラが貴女のことを大切にしているのは本当のことだと思うんだ。だからまた落ち着いたら、一緒にあいつを問い詰めてやろう。できればダンスパーティーの夜までに」

「……うん」


 星降祭のダンスパーティーまではあと十日。

 結局色々とばたばたしてしまって、ニコラから正式にパートナーとしての申し出があったわけではないけれど、きっと一緒に行くことになるだろう。婚約者という関係はそういうものだ。


 隣を歩くならせめて、顔も合わせない今の状況はなんとかしなければ。



     ◇  ◇  ◇



 ──そう決意したはいいものの、エウフェーミアはニコラと会話する機会を悉く逃していた。


 今度はこちらが避けられる番だったのだ。

 ニコラは食事の時間を徹底的にずらし、授業が始まる直前に着席して、終われば即座に席を立つ。これでは会話どころか顔を見ることもままならない。


 リディアとアデルに向ける視線は以前よりいっそう冷たくなった。

 リディア派とニコラ派、或いは一般庶民組と貴族組、というふうに派閥ができることに関して「勝手にやらせておけ」という態度だったのが一変し、貴族の少年たちと連れ立って歩くことも増えた。ニコラ自身が何か仕掛けることはなかったが、明らかに派閥同士の対立が溝を深めている。


 これにはさすがにロロフィリカも不安げな顔をした。


「どうしちゃったんだろうねぇ、ニコラってば」


 女子寮の談話室でお茶とお菓子を広げ、膝の上に使い魔の猫をごろごろさせながら眉根を寄せているところだ。

 クラメル家と長く契約しているという灰色の猫は、ロロフィリカの指に顎を擽られて気持ちよさそうに目を細めた。名前はないらしい。ロロフィリカが単に『ねこ』と呼ぶので、エウフェーミアもねこちゃんと呼んでいる。


「エウフェーミアまだけんかしてるの? 長くない?」


「けんかっていうか……、今度はニコに避けられているみたいで」


「そういうことか。なーんかピリピリしちゃって近づきにくいしね。あたしどっちかっていうとリディア派だから、嫌われちゃったのかな」


「嫌うなんて。……以前はあまり、派閥とか関心がなかったみたいなんだけど。何か、わたしたちには解らない事件があったのかも」


 その『何か』さえ解らないなんて、相談もしてもらえないなんて。

 これで婚約者を名乗っているのが烏滸がましいと、最近は思うようになってきた。


 どんどん視線が下がっていくエウフェーミアを、ロロフィリカが「もーっ」と抱き寄せる。


「エウフェーミアは優しすぎ! もっと怒っていいんだよ、ニコラまじふざけんなー! って」


 優しくなんかない。

 いつだって臆病で、卑怯で、わがままな疫病神だ。


 ニコラとの関係もロロフィリカとの友情も失いたくなくて、どちらに対してもはっきり言葉にできずにいる。



(ねえロロフィリカ、ニコラが好きなの?)



(……ねえ、ニコラ。わたしのことどう思ってるの)



 バルバディアで初めてできた友人の腕のなかで独り言つ。

 そっと瞼を伏せたエウフェーミアの耳に、ルームメイトのミーナの声が届いた。


「エウフェーミア。ニコラが呼んでるよ」

「…………」


 ロロフィリカと顔を見合わせる。

 城下町でニコラにきらいと言い放ってから暫く、こうして彼のほうから声をかけてくるのは初めてのことだった。


「仲直りの申し出かもよ?……行っておいで」


 エウフェーミアにしかわからないほど僅かに、その柳眉を下げた彼女は肩を押してくれた。

 胸がつきつきする。

 ニコラを誰にも渡したくないのに、ロロフィリカに悲しい思いをさせたくない。……なんて汚い感情だろう。

 汚泥に足を掴まれて身動きが取れなくなっていくようだった。


「すぐそこ。娯楽室で待ってるって」

「ありがとう。ミーナ」


 女子寮の談話室を出て、男女共用の娯楽室へつながる扉を開ける。

 撞球台やダーツを備えた娯楽室では、上級生たちが息抜きを楽しんでいた。エウフェーミアたち一回生は、なんとなく遠慮してしまうためあまりここには来ない。


 ニコラは扉のすぐ脇に立っていた。


「ニ、コ……」


 驚いて思わず上ずった声を上げたエウフェーミアに、ちらりと酷薄な一瞥をくれる。

 天海と同じ色をした、すきとおる眸。色々な世界を映してはきらきらと輝いていた双眸が、エウフェーミアの姿を冷たく反射する。


「星降祭、薄紫のワンピースで出席するだろ」


 有無を言わさぬ声音だった。

 バルバディア入学が決まったあと、二人一緒にパーティー用の装いを揃いで仕立てたことがある。エウフェーミアの眸の色に合わせたパフスリーブの膝丈ドレス、それに似合うよう生地を選んだニコラのスリーピース。


「……、はい」

「ならいい。当日は着替えたら一階の談話室に」

「はい」


 それ以外の答えは求められていなかった。

 一方的なやりとりを終えると、ニコラはすぐにきびすを返す。娯楽室を出て行く後ろ姿は、知らない誰かのようだった。


「……ちょっとエウフェーミア、あなた大丈夫?」


 一連のやりとりをたまたま目にして、顔を歪めたのは三回生の女子生徒たちだ。王都に住む中流階級の家柄という共通点もあり、入学後からよく面倒を見てくれている。

 最近のエウフェーミアたちの関係を心配してくれてもいた。


「ここのとこのニコラ、なんだかよくない態度ね。入学当初はいい感じだったのに」


「そりゃ確かに、魔力のない子が二人もいるって判ったときはあたしたちも驚いたけどさあ。あんなにあからさまにいびらなくてもいいのにね」


「婚約者があんなふうじゃ、あなたまでよくない印象を持たれちゃうわ。あたしたちの可愛いエウフェーミアが!」


 三者三様にエウフェーミアをもみくちゃにしたお姉さま方は、複雑そうな様子で声を潜める。


「ほら、ダリア寮のロシェット。あいつも婚約解消になってたし……」

「素行を聞いて堪えかねた先方から解消を申し入れたのよね? 彼もひどかったものねぇ」


 制服のスカートを握りしめる。

 皺になろうが構わなかった。



 エウフェーミアの好きだったニコラは、あんな冷たい眸をするような人ではなかった。


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