第9話 予定外の世界で生きてゆく
ぱたぱたと足音が遠ざかっていく。
目蓋を押し上げるのにも苦労しながら、そっと意識を引き上げると、揺れるカーテンを見つめる兄貴の横顔が目に入った。
「……エウフェーミア……?」
エウだった、ような気がした。
医務室のベッドに寝かされている俺の右手が、布団の外に出ている。つい先程まで誰かが握ってくれていたような形で固まった掌には、微かにエウの魔力の残滓が残っていた。
兄貴は俺の声に気づいて視線を落とす。
「会いたくないそうだよ」
「……そ、ですか」
曲がりなりにも、ギルバートの弟を十五年やってる。
普段穏やかでニコニコほわっとしている美形のこの兄が、滅多に怒らないことを知っている。それゆえに怒ったら非常に怖いことも。
俺を見下ろすその碧眼は、今までにないほど冷たい色をしていた。
「ニコラ。きみは確かに昔から、僕や父上の知らないところでやんちゃな連中とつるみ、バレない程度のやんちゃをして港町を走り回ったりしていたようだが」
知ってるしバレてんじゃねーか。
なんでだ、どこから情報が洩れた。ナタリアか。シリウスか。
「自ら進んで女の子を傷つけるような見下げた野郎ではないと、信じていたんだよ」
「…………」
「そのへんの砂利と変わらないって?──こんなちっぽけな魔石、だって?」
兄貴は黙りこくる俺の胸倉を掴み上げた。
「どの口がそんなことを言えた。母上の遺した魔石を今でも大切に持っている僕たちが。手に触れられる形のまま魔石を置いておきたい気持ちを解るはずのおまえが──どの面を下げてそんなひどいことを言ったんだ。嘘でも言ってはいけないことくらい解るだろう!?」
ロウ家の太陽は、亡き母だった。
ふわふわのブロンドにくすんだ蒼の双眸。魔法はそう上手なほうではなかったが、穏やかで、いつも笑顔で、ちょっとおっちょこちょいで、たまに悪戯っ子。仏頂面の親父殿は母の前ではガキっぽかったし、兄貴は母にべったりだった。
ナタリアたち使用人みんなにも優しくて、ロウ家は母を中心に、みんなひっくるめて家族だった。
母が亡くなったあの日から、一度も俺の前で涙を見せなかった兄の眦に涙が浮かぶ。
「……兄上ならば、知っていたのでは? 僕がいずれ、あなたたちを裏切ることを」
兄貴は呼吸を止めた。
それが答えだった。
やがて深く息を吸って、浅く長く吐き出す。一度目を伏せると、そのあとは真っ直ぐに俺を見つめた。
いつも完璧な兄貴が見せた若者らしい動揺が新鮮だった。
「シリウスに聞いたのか」
「シリウスは何も……ただ『悪巧みするときはオレも混ぜろ』とだけ。父上からの伝言とやらを聞いて色々考えた結果、自分が疑われていたのだなと気づきました。兄上も、僕があの日〈暁降ちの丘〉に魔王軍を引き入れたとお思いですか」
「思っていないよ。思っていない、誰も……」
「兄上も僕が、匣を隠し持っているとお思いですか。魔王を復活させて自分も従軍して、いずれ、兄上たちに杖を向けると?」
「ニコラ!!」
悲鳴にも似た声に押し黙る。兄貴は俺の胸元から手を放して両手を掴んだ。
「そうならないことだけを願ってきたんだ。──初めて母上の未来視の話を聞かされた十歳の誕生日の夜からずっと!!」
十歳。
弟がいつか魔王軍に与すること。恐らく自分は魔王軍と敵対する勢力にいて、敵となった弟と出会うこと。杖を向け合い、自分が弟に石化魔法をかけ、命を奪うこと。めでたいはずの誕生日にそんな未来を聞かされて、けれど俺には悟らせることなく心の準備をし続けてきた兄貴に、心底同情する。
どいつもこいつも苦労人だ。この物語にまつわるやつら、みんな。
俺は兄貴の頭を抱き寄せて、ぽんぽんと撫でた。兄貴だって完璧超人だけどまだ十八歳なんだよなぁ。ここにくるまでいっぱい悩んでいただろうに、俺はなーんも気づかずボケボケ笑って毎日過ごしてきた。
「すみません。色々、苦労をかけます。でも俺の目的は一つだけです。エウフェーミアが幸せに笑える未来がほしい」
「……信じていいのか」
「ぜひとも。そのため兄上には、今しばらくエウフェーミアの周辺の警戒をひとつよろしくお願いします」
兄貴は呆れたように笑った。
手の甲で目の端を拭って、まったく、と肩を竦める。
「やんちゃな弟をもつと苦労する」
まだまだ言いたいことはあったろうに、兄貴は全て飲み込んで医務室を出て行った。
俺が目覚めたらイルザーク先生と校医の先生を呼ぶ手筈となっているらしい。けっこう派手なドンパチになっちまったし、こりゃまた罰則かな。
「それにしても『ニコラ』のメンタルまじですげーな……」
こんな具合にリディアとバチバチやり合いながら魔王軍に寝返って?
兄貴やルウや親父殿と全面対決するって解ってて内通者をその手で殺して?
最後には兄貴の手で石化魔法をかけられるって……?
ニコラ不憫すぎ。
主人公として大変な苦労があるだろうリディアたちも不憫だと思っちゃいたけど、報われないニコラが本当に可哀想。あいつがニコラに幸せになってほしいって言った気持ちすごくよくわかる。
ニコラ、同情できねぇ悪役坊ちゃんとか思っててごめん、おまえのメンタルすごいよ、おまえよく頑張ったよ。
「……だけど、悪いけど、変えるぞ」
俺もエウフェーミアも生きて、魔王を斃す未来をつくろう。
腹を括ってしまえばなんとも気分は爽快だった。ずっと視界にかかっていた靄が晴れたような気さえする。
「大体が予定通りでリディアの覚醒が早いってことは、基本スタンスはこのままでいいな。あとは匣の在処と内通者の特定か……」
「なにブツブツ呟いてんの」
シャッとカーテンを引いて顔を見せたのはトラクだった。
一応聞かれてまずいことは呟いていないはずだが、ちょっと気まずい。
兄貴に胸倉を掴まれた直後にトラクまで怒っていたら嫌だなと思っていたが、こっちはむしろ呆れのほうが強いみたいだった。事情を知っている同盟者、という存在の有難みを感じる。
「なんであんな無茶したんだ。リディアの怒りを煽って指輪を発動させるなんて……。彼女自身に魔力がないから一時的なもので収まったけど、下手したら死んでたよ。お兄さんに石にされるより、エウフェーミアさんを救うより先に、うっかり死んじゃいましたじゃ笑えないんだけど?」
「いや……、俺もあそこまで手痛いしっぺ返しを食らうとは思ってなくてだな……」
ただ指輪の発動条件を確かめてみたかっただけなのだ。
魔力というものは血液と同じように体内を循環している。ただし意図的に可視化しない限りは目に見えず形もない。エウフェーミアが昔そうだったのだが、制御できない魔力は感情の振れ幅に呼応して力を増すものだ。
魔力のないリディアを持ち主と定めた〈太古の炎の悪魔〉。
ならばリディアの感情が劇的に振り切れれば、指輪は勝手に動き出すのではないか。結果は概ね予想通りだった。
立てていた仮説をトラクに話すと、「やりたかったことはわかったけどやり方が陰湿」とバッサリ切り捨てられた。仰る通りで。
リディアにもっと切羽詰まってもらいたいという企みもあったのだが、あまりにも手口が悪い自覚があるので黙っておいた。
「エウフェーミアさんが泣いてたよ」
「…………」
「あの炎に根こそぎ魔力を喰われて昏倒したきみの手を握って、魔力を一時的に分け与えながらずっと。ニコはそんな酷いこと言わない、ちょっと意地悪だけど優しくて温かい人だった、何かの間違いだ、って」
エウの魔力の残滓の残る右手を見下ろす。
そんなにも信じてもらえるほどのことを、俺はエウにしてきただろうか。
「守りたいはずの彼女を泣かせてまで、確かめないといけないことだったの?」
「ああ、そうだ。……だから、いいんだ」
ニコラが善いやつになってしまったら物語が破綻する。
リディアとアデルは入学してからずっとニコラにいびられて、その反発心から強くなるのだ。意味のない登場人物はいない。意味のない死が物語に存在しないように。
ニコラは悪役じゃないと『意味』がないんだ。
それが天海のくじらに与えられた託宣でもある。
「これでリディアも理解しただろう。ぼけっとしていないで、早急に指輪をコントロールする必要があると」
「……きみって本当、変な人だなぁ」
現状がほぼ物語通りだというのならば、『意味』を最大限に利用してやりながら、断固として未来を変える。
必要なのはあとほんのちょっとの覚悟だ。
変わってゆく予定外の世界で──魔王を斃すまで戦い続けるという、その覚悟だけ。
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