後ろを向いた少年

寺野マモル

後ろを向いた少年

 前方に、少年が立っている。

 朝の8時10分。家から最寄り駅に向かう途中で、道路の端に寄りそうにして立っている。

 身長は120センチくらいだろうか、僕の腰くらいだ。顔の幼さからおそらく小学校低学年くらいだろう。この道は近所の小学校の通学路として指定されているから珍しいわけじゃないが、少年はこの朝の通学時間にランドセルも背負っていない。なんなら制服ですらなく、ボーダーのTシャツと丈が短いチノパンを履いた私服である。

 服装に関しては、最近の小学生は私服かつ手ぶらでも登校できるのか、くらいに考えていた。それよりも気になったのは少年の表情だ。

 少年は僕の進行方向とは逆、つまり後ろを向いているのだが、その顔にはおよそ表情と言えるようなものは読み取れなかった。無表情と一言で片づけるのにも抵抗を覚えるくらいに、表情が死んでいた。精巧な日本人形と言われても信じるかもしれない。

 少年は、僕と目を合わせることなく、そのさらに後ろを見つめていた。振り向いてすれ違った視線の先を追えば、そこには少年の友達や家族がいたのかもしれないが、僕はそうしなかった。そのまま少年の横を通り、いつも通り駅に向かって足を運んだ。

 興味がなかった、と言えば嘘になる。だが僕はもう、振り向くことはやめたのだ。文字通り前向きに生きていくと決めた。

 あの日、父さんを交通事故で亡くした日から。



 父さんのことは、好きでも嫌いでもなかった。

 当時小学生だった僕は、父さんと話をした覚えがなかった。たまにご飯の席が一緒になったり、家の中ですれ違ったり、深夜にリビングでテレビを見ていたおじさんを、父親と呼ぶらしいというくらいの感覚だった。高校生になった今ではもう、父さんがどんな顔をしていたかも思い出せない。覚えているのは、髪に白髪が少し混じっていて、四角い縁なしの眼鏡をかけていたことくらいだ。

 母さんが、家での唯一の話し相手だった。もしかしたら向こうもそう思っていたのかもしれない、母さんが父さんと話している姿もあまり見なかった。ただ、僕がベッドにいる時間に、二人が大きな声で話し合っている音だけは、何度か聞いたことはあった。

 そんな父さんと母さんと、当時小学生だった僕の三人で、車で公園に行ったことがある。車は父さんが運転して、僕は一緒に後ろの席に座った母さんと話していた。何の話をしていたかは覚えていない。

 僕は公園でリフティングの練習をしていた。通っていたサッカークラブで、リフティングを十回するというテストがあったからだ。あまり運動神経の良くない僕は、うまくサッカーボールを操ることができなかった。

 あれは僕が初めてリフティングが十回できそうなときだった。

九回までいって、ラスト一回というときに思い切って膝で打ち上げようとしたときに、膝の先にボールが当たって、遠くまで飛んでしまった。緩やかな傾斜のある芝生だったこともあり、ボールはどんどん遠くまで転がっていった。僕は走って追いかけたが追いつけず、ついにボールは公園を抜け出し一車線の道路に飛び出た。ボールは車に轢かれることなく、律儀に横断歩道の上を渡り、その先の電柱に当たって止まっていた。信号が青色に点滅していたので、急いで横断歩道を渡ってボールを捕まえた。

 サッカークラブで借りたボールだったので、無くさないで良かったと胸を撫でおろしたときだった。

 僕の目の前にいる人が「あっ」という声を出した。その人は僕の後ろを見ていたので、誘導されるように僕も振り向いた。

 そこには父さんがいた。横断歩道の上で。なにかにつまずいたのか、バランスを崩したような体勢だった。

 信号は赤色だった。

 父さんと目が合った。父さんの目は大きく見開かれていた。父さんの口も、初めて見たくらいに大きく開かれていた。

 父さんが話しかけてくるとは珍しいなんて呑気なことを考えていたのも束の間、耳障りなブレーキ音が聞こえると同時に、父さんの体は横に大きく吹き飛ばされた。

 即死だった。

 葬式のとき、母さんは目を赤くしていた。好きでも嫌いでもない父さんだったけど、僕もなんだか悲しい気持ちになった。

 あの時父さんは、なんて言おうとしていたのだろう。どうして父さんは、あんなに驚いていたのだろう。

 父さんの死は間違いなく悲劇だったが、夜中に父さんと母さんが言い争うことは、無くなった。



 あれ以来、僕は後ろを振り向くことが怖くなった。

 きっと父さんは、ボールを公園の外まで追いかけた僕を心配して、走って追いかけてきてくれたんだろう。あのあと、その後ろに付いて来ていた母さんが、「あんたのせいじゃないよ」と言いながら強く抱きしめてくれたことはよく覚えている。

 それでも僕は思うのだ。あのとき後ろを振り向かなければ、父さんが死ぬことはなかったんじゃないかって。僕が後ろを振り向いたという行為が、呪いのように父さんに死を招いたんじゃないかって。

 僕はもともと迷信などに影響を受けやすい。母さんに夜中に口笛を吹くと泥棒が来ると言われてから無意識に口笛を吹く癖はなくなったし、友達に横断歩道の黒い部分を踏むと不幸になると言われてから白い部分だけを意識的に歩くようになった。

 迷信を心から信じているわけじゃない。それでも万が一のリスクを考えると、やらない方がいいと思うだけだ。

 だから僕は、後ろを振り向かない。



 翌日も、少年は立っていた。

 同じ場所で、同じ服装で、同じ無表情で。相変わらず僕と目は合わす気はないようで、僕の後ろに視線を投げていた。

 昨日と同じく、そこまで興味は持たなかった。この子、今日もここにいるんだな、くらいの気持ち。だから、また少年の横を抜けて歩き去るつもりだった。

 しかし、今回は思わず足を止めることになった。

 少年の横を通り過ぎようとした瞬間に、耳をつんざくようなブレーキ音が聞こえた。車のブレーキ音に違いがあるかなんてわからない。だけどその音は、父さんの死に際を連想させるには十分だった。

 ブレーキ音は、遠くではなく、僕のすぐ後ろから聞こえた。つまり僕のすぐ後ろに車が向かってきている。しかしそれは有り得ない。この道路は一方通行になっている。車が通ること自体滅多にないが、来るとすれば僕の前方から走ってこないといけない。

 まさか僕を狙って車が暴走してきているのかと思った矢先に、今度はたたみかけるように重い物がぶつかったような鈍い衝突音と、相反して甲高い女性の悲鳴が聞こえた。

 混乱した状況に耐えられず、僕は咄嗟に振り向いた。後ろを振り向くことのトラウマよりも、何が起きたか気になる思いが勝った。

 そんな、馬鹿な。

 振り返った先に広がるのは、両脇に一軒家が立ち並ぶ、見慣れた道路だった。何の変哲もない、ここまで歩いてきた道だ。もちろん、車どころか、倒れている人も野次馬も居ない。先ほどまでけたたましく鼓膜を揺らしていた音も、何の余韻もなく消え去っていた。

 すべて、僕が聞いた幻聴だったのだろうか。それにしてはあまりにリアルだったし、もし自分の体験に基づいた幻聴だったとしても、車の衝突音はともかく女性の悲鳴を聞いた覚えはない。

 自分に対して不信感を抱きつつ、視線を前に戻すと、少年の姿は消えていた。



 その日家に帰ると、突然母さんに心配された。

 なんのことだと聞くと、家の近くで交通事故があったそうだ。居眠り運転によってトラックが歩道に乗り上げ、老夫婦を襲ったという。たまたま事故の現場に遭遇した女性がすぐに通報したが、被害者および運転者は即死だったらしい。

 その夜、僕はなかなか寝付けなかった。

 やはり僕が、呪ったのだろうか。



 翌日も、やはり少年は立っていた。

 相変わらず、これまでと同じ状況で。まだマネキンの方が変化が見られるんじゃないかと思うくらい、まったく同じだった。

 さすがに不気味だと思い、少年に話しかけてみることにした。見方によっては通学路の子供に話しかける不審者だと思われるかもしれないが、何をしているかくらい聞いてもいいだろう。

「ねぇきみ」と声をかけようとした瞬間だった。

 僕の声を打ち消すように、またもや後ろから音が聞こえた。今回は、女性のうめき声と物が倒れたような音だった。おそらくうめき声をあげた女性が、床に倒れたのだろう。

 女性の声に聞き覚えがあると気付いた瞬間、ゾッとした。

 こんな聞き慣れた声を間違うはずがない。

 これは、母さんの声だ。

 でもどうしようと、自問自答する。もし本当に僕が、後ろを振り向くことで死を振り撒くような呪いを持っているんだとしたら、ここで後ろを振り向くことは正解なのか。それによって僕は、父さんだけじゃなく母さんも死なせてしまうことになるんじゃないか―――

 しかし、呪いに怯える一方で、心の奥底には不思議なくらい冷静な自分もいた。

 いや、僕はいったい何を怖がってるんだ。後ろから音がしたから振り向くだけだ。ただそれだけだ。

 呪いなんて、ないんだ。

 意を決して、勢いよく体を180度回転させた。

 なんとなく予想はしていたが、昨日と同じく、後ろの風景には何の変化もなかった。倒れている女性はいないし、音も止んでいる。

 だけど、それでも。

 僕は来た道を走って戻り、家に向かった。昨日の交通事故の話を考えると、嫌な予感しかしない。こんな不安な気持ちで学校になんて行けるわけがない。

 三分ほど走ると、自宅のマンションについた。エレベーターに乗り込み、四階のボタンを押して、息を整える。

 本来ならこんな時間に帰ってきた僕を見て、母さんは驚きながら「忘れ物でもしたの?」と微笑むだろう。しかし、そうはならないという確信があった。

 さっきから何度も何度も、頭の中で父さんの最期の姿がフラッシュバックする。見開かれた目。大きく開いた口。

 エレベーターが止まってからも、小走りで部屋に向かった。震える手を抑えながら、急いで扉を開けた。

 そこには、やはりと言うべきか、横向けになって倒れている母さんがいた。



 結論として、母さんは助かった。

 すぐに救急車を呼んで診察してもらったところ、睡眠不足や過労による失神のようだった。父さんが死んでから、僕のためにパートの数を増やしていたことが祟ったのだろう。意識もすぐに回復し、医師から予防策や注意点を聞いてから、家に帰ることができた。

 帰り道、母さんは僕に世話をかけたことを謝りつつ、「あんたは優しい子だね」と嬉しそうな表情を見せた。

「そんなことないよ」と答えながら、僕は内心ガッツポーズを取っていた。

 僕は、救うことができたんだ。

 例え本当に、僕が後ろを振り向くことで誰かに害を与える呪いを持っていたとしても、それが大切な人ならば、僕が救えばいいんだ。それができることを今回証明した。

 父さんのときだってそうだ。振り向いたときにすぐさま「危ない」と声をかけたら、救えたのかもしれない。あの時の僕は、どういうわけか、なにもせずただじっと見ていただけだった。

 なんだか胸がすくような気分だ。これからは、臆せず後ろを振り向けそうな気がする。

 病院からの帰り道、僕の視界は広がっていた。澄んだ青空の、その奥の向こうまで、見通せる気さえした。



 翌日、依然として少年は立っていた。

 正直なところ、今日はもう少年はいなくなっているんじゃないかと思っていた。

 ここ三日を振り返ってみると、初めてこの少年と出会ったときに、後ろを振り返らずに無視してしまったことが事の発端だった。それがダメだったんじゃないかって。

 きっとこの少年は、命の危機にある人を僕に知らせて、その人を救わせようとしているんだ。そうすることで、僕の後ろに振り向くことへのトラウマを解消させようとしているんだ。

 そう勝手な解釈をしていたから、問題が解消されてからも少年が立っていることに違和感があった。もしかして、僕のトラウマなんて関係なく、ただひたすら僕に人を救わせるつもりなのだろうか。

 それとも、まだ僕になにか伝えたいことがあるのだろうか。

 僕は少年をじっと見つめた。やはり少年は目を合わせようとしない。ずっと僕の後方へ焦点を合わせている。

 なにか起きるのを待っていてはだめだ。もうトラウマは克服したんだから、気になるなら後ろを振り返るだけでいい。呪いなんて、ないんだから。

 少年の視線をなぞるようにして、ゆっくりと首を動かしていく。

 その途中で、世界が一瞬揺れ動いたような気がした。視界がぼやけて何も見えなくなる。なんだか気分が悪い。

 僕の目線が完全に後ろを向いたときには、視界は鮮明に映っていた。

 目と鼻の先には父さんがいる。死んだはずの父さんが。

 僕は驚いて、反射的に腕を前に伸ばした。突き飛ばされた父さんは、バランスを崩して後ろに倒れそうになる。

 よく見ると、そこは車道だった。父さんは、赤信号の横断歩道の上に押し込まれた。目も口も、驚きで大きく開かれていた。

「あっ」と、僕は無意識に声を出していた。

 ブレーキ音が聞こえるとほぼ同時に、父さんはトラックに跳ね飛ばされた。

 金縛りにあったように、僕の体は動かなくなった。僕の両腕は、前に伸びたまま、硬直している。

 横断歩道の向こうにいる母さんが甲高い悲鳴を上げた。眉毛を八の字に歪ませて、泣きそうな表情になっている。

 その横に、少年が立っていた。僕の背丈はいつの間にか縮んでいて、少年と同じ目線になっている。初めて、少年と目が合った。

 少年は、目を動かさずに口角だけを上げて、笑っていた。

 ああ、そうかと、僕はその顔を見て思い出した。

 

 そして、やはりこの少年は僕を救いに来てくれたんだと確信した。

 僕がすべてを受け入れて、前を向いて生きるために。

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