37.死命の逃走

 李娜リーナの右腕――

 肘から手首の間が異様な角度に曲がっていた。


「ひゅふぅぅぅぅぅぅぅぅぅ――」


 大きく呼気を吐く李娜リーナ

 麗しい稜線を描く大きな胸がゆっくりと揺れた。

 血のような色をした双眸はじっと伊乃と虎猿を視野に捕らえていた。

 いまにも炎が噴出してきそうな瞳であった。


『まだ、これからだ――』


「はぁ?、なに言ってるかわかんないよー ひひひひひ」


 大陸の言葉など微塵も解さぬ伊乃である。

 が、この女が今、なにを言いたいのかは分かる。

 分りすぎるくらいに分る。


「まだ、殺し合いをしたいんだろう? へへへへへ」


 伊乃は緋色の髪をした女の闘志が衰えていないのが分った。

 腕一本くらいで、やる気をなくしてくれたら、期待はずれだ。

 こんな、女だからこそ、ぶち殺す価値があるのだと、伊乃は思う。


「殺してやるよ。八つ裂きにするか? ひひひひ、腸を引きずり出して、首を千切って、腸を巻きつけて蹴飛ばしてやる、目玉ぁぁぁ、目玉も穿り出して、下の口の中にぶち込んでやるかぁ。いひひひひひひひ――」


 長い黒髪を揺らし、伊乃は叫ぶ。

 隠し切れない歓喜、興奮、愉悦――

 そういったものが、伊乃の瞳をギラギラと輝かせていた。

 ペロリと桃色の唇を舐める。

 口の中が乾いていた。


『黙れ、耳障りだ倭猿が――』


 倭の言葉など分らない。蛮族の言葉など分ろうとも思わない。

 が、この倭の女が、何を言っているのか…… それは分った。

 この自分を煽っているのだ。

 

 李娜リーナは奥歯を食いしばり。

 無理やり、腕を真っ直ぐに直す。が、うまくいかない。再び折れ曲がる。

 骨が軋んで、ミシリっという音がした。

 

 痛みはない――

 身体も心も痛みなど感じていなかった。

 闇の中に沈み、全てが無感覚になってくる――


『――殺してやる』

「――ぶち殺す」


 ふたりは同時に同じ意味の言葉を口にしていた。


「逃げようとしたら、止めてくれればいいから」


 美麗な横顔を向け、伊乃は虎猿に言った。


「銭が足らん」


「足らない?」


「貰った分では、腕までだ」


ケチしわいこと言いやがる!」

 

 伊乃は吐き捨てるように言った。

 瞳は李娜リーナを捉え、狂気がそこに渦巻いている。


「じゃあ、見てろ!」


 言い捨てると伊乃は矢をつがえた。

 凄まじい速度であった。

 指に三本の矢を挟み込み、続けざまに矢を放つ技であった。


(この女も不死身じゃない)


 それが分った。

 刃も矢も受け付けぬ肉体である。

 どういう仕組みかは分からない。

 が、体の頑丈さを超える力で攻撃を加えれば、傷を負う。

 

(あのひん曲がった腕を見ろ、虎猿にできたんだ、ワタシにも出来る――)


 そう思った瞬間、矢を放っていたのだ。

 矢は李娜リーナのど真ん中。肉体のど真ん中目掛け吹っ飛んできた。


「ちぃぃ!!」


 受けるか、防ぐか、かわすか――

 その判断が無意識かで一瞬に行われる。

 かわすにはわまりに、ど真ん中すぎた。

 防ぐには、あまりに速過ぎた。

 

 李娜リーナは呼気を刻む。

 身体を鋼のごとく変える技術。

 硬気功――

 腕の痛みは関係なかった。


 やじりが肌に触れるのを感じる。

 食い込ませない。

 皮一枚も食い込ませない。

 続けざま、衝撃が来る。

 ほとんど同じ場所に、矢が命中した。

 そして、三度――


「ごほぉっ――」


 水月に食い込んだ鏃は、一瞬だけ呼吸を乱した。


「ばーか!! 死ね!」


 伊乃が李娜リーナの硬気功の秘密を看破したわけではない。

 それは、偶然だった。

 すばやく動く、この女を捕捉するために、体の中心、ど真ん中を狙っただけにすぎない。


 伊乃は一気に間合いをつめた。

 鋼の指輪――

 角手を握りこむ。

 鋭い角が、拳から突き出ている。


 ぼごぉぉっ!!


 水月に伊乃の一撃が食い込んだ。


『げほぉぉ!!』


 角手の爪が、皮膚を食い破り、肉にまで達した。

 衝撃は肉に吸収できず、肋骨にひびをいれた。

 

(呼吸が――)


『ふひゅっ!』


 肋骨に皹が入り、横隔膜に衝撃が走った。

 それでも、異国の殺戮人形は止まらなかった。

 

『ひぎぃぃっ!!』


 地の底から噴き上がるような蹴りが伊乃目掛けて走る。

 つま先に鋭い暗器を付けた蹴りだった。

 

「ふは!!」


 伊乃は李娜リーナの足首をポンで抱え、後方に跳んだ。

 間合いが開いた。


李娜リーナ様ぁぁぁ!!』

 

 それは、彼女の部下の一人であった。

 声と同時に何かを投げた。

 

「てつほう」であった。


 放物線を描くとそれは、地上に着く前に爆発する。

 濛々とした爆炎と爆雲が、周囲を塗りつぶす。

 

 視界が瞬間に李娜リーナは走っていた。

 こんなところで、命をかけるつもりはない。

 逃げる。

 死ぬくらいなら、逃げる。


 李娜リーナは煙幕の中に隠れ、脱兎のごとく駆けていった。


「てめぇ! 糞女が逃げるのかぁぁぁ!!」


 伊乃の叫びすら、追いつかぬような逃げっぷりであった。

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