36.人知れぬ戦い
何の表情も感情も表に出さずただ空を見た。
鉛色の空が低く戦場を覆っていた。
雨が強くなっていく。
風が強くなっていく。
雨音と風音が、泥濘の地を支配している。
殺し合いは終わりか――
と、蒙古の殺戮人形は思う。
風に煽られ、緋色の髪が大きく揺れる。
蒙古、高麗軍も倭軍も戦場から離脱していた。
残されたのは、泥濘に沈む
骸の数は圧倒的に蒙古、高麗軍が多い。
負けか――
と、
雨が更に強くなってくる。叩きつけるような水滴が泥濘を穿つ。
風が更に強くなってくる。潅木の枝が軋むような音を上げていた。
「あははは、見ーつけた。こんなところにいたんだ」
声。
倭人の言葉だ。
意味は分らないが、声音には記憶があった。
『倭猿か……』
そこにいたのは、以前戦ったことのある倭の女だった。
なかなかに、戦闘力の高い女だ。
「ひひひ、殺してやる。バラバラにて、その大きな目玉を穿りかえしてやる」
倭の女は言った。
その名が伊乃であることを
ただ、敵であり、邪魔な相手であるとは思う。
どうすべきか――
倭の女は、弓を構え引き絞った。
矢の一撃程度では自分の身体に傷などつかぬという自負がある。
いや――
いかなる攻撃であっても、自分の身体を傷つけることなどできないと確信していた。
特殊な呼吸法により、全身を恐るべき硬度にする技を持っている。
「きゃはははは! 死ねよ!」
矢が雨風を斬って吹っ飛んでくる。
三連射――
一呼吸で三本の矢をつがえ、連射してくる。
ドスッと、一本目が
続けさま矢の終端に次の矢が刺さった。更に、その矢の後ろに三本目の矢が過たず命中する。
三本の矢が一直線に命中した。
奇跡的な技量である。神技といってもいいだろう。
だが――
『中々に器用であるが、私の身体は貫けない』
「あははは、バーカ! バーカ! 頑丈女がぁぁ!!」
倭の女が猿のように叫ぶ。蛮人の耳障りな言葉だ。
殺すか――
一瞬そう思う。
が、
すでに味方も敵も撤退している。
ここで、蛮人一人を相手にするのは意味がない。
早々に、本陣に合流すべきだった。
殺戮人形でありながらも、
その意味では、彼女は「合理的な自律兵器」であった。
矢が吹っ飛んできた。
三連射、三連射、三連射――
『矢継ぎ早』という言葉そのまま。
矢が意思をもったかのように、
「ひゃぅ!!」
鉄棒槌を袖口から取り出した。
振る。なぎ払うかのように振り払う。
ブオンッと風斬り音がし、雨粒すら切断するような速度。
鎖で繋がれた鋭い切っ先が、一瞬で矢を粉砕する。
――ここは退却すべき――
と、
バカな蛮族に構っている意味がないのだ。
殺してやりたいという膨らみあがる殺意を、彼女の合理性がなんとか押さえ込んでいく。
殺すことなどいつでもできる。
◇◇◇◇◇◇
「きゃはははは!」
伊乃は弓を放る。
一気に間合いをつめた。
鎖分銅のようなものをブンブン振り回しているが、どうということもない。
木のひとつに分銅の鉄塊が食い込んで、木肌を削った。
雨の振る空間がそのまま削ぎ取られるかのような速度で振り回されている。
ビュオォォォ――と、音を引いて鎖が迫る。
伊乃の顔面にむけ弧を描いて分銅が吹っ飛んできた。
「あはッ」
伊乃はひょいと頭を下げ、何かを突き上げる。
鎖がガシャガガシャと音をして「何か」にからみついた。
刀であった。
伊乃が死体から拾った刀である。
「絡んじゃった? あはははは」
鎖に刀が絡みつき、武器として機能しなくなる。
伊乃は一気に間合いをつめた。
風のような動きだった。
長い黒髪が後ろに流れる。
「ひゃうッ」
伊乃は凄まじい速度で拳の間合いまで入る。
入ると同時に握りこんだ暗器で水月を狙う。
怖気をふるうほどの速度で拳が走りぬけ、異国女の腹に拳が刺さる。
握りこんでいたのは「角手」という指にはめる鉄製の暗器だ。
伊乃がしようしていたのは、
『倭猿が、無駄だッ! 無駄だッ!」
ビュオンと横殴りに異国女の拳が走った。
当然、普通の拳じゃない。
鉄の棒が長く飛び出ていた。
相手も暗器だった。
泥濘の上、滑るように異国女が後ろに動く。
「逃がすか! 糞女ぁぁぁ!」
どす黒い敵意をむき出しにして、伊乃が叫ぶ。
『ぬぅッ』
敵はひとりではなかったのだ。
◇◇◇◇◇◇
それは巨大なごろりとした鉄塊の雰囲気をもった男だった。
蓬髪を束ね、いつの間にか
六尺を軽く超える男であった。
「虎猿! 逃がすな」と、伊乃が叫ぶ。
「銭の分だけはやる」と、虎猿がポツリと言葉を零す。
虎猿は落ち窪んだ双眸で異国女を見やる。
矢や刃の通じない、身体を持つと伊乃が言っていた。
それは、確かなようであった。
「殺すなよ、殺すのは私だから――」
真っ赤な舌で唇を舐め、伊乃は言った。
「殺さぬ程度か」
虎猿は無造作に、刀を抜いた。
鋼の色が寒気をもよおさせるかのようだった。
『猿が……』
二対一となったことで局面の打開が困難となったことを
『ひゃうッ』
刃渡りは四寸ほどの、掌に隠すことのできる暗器だった。
大陸では秦王朝の時代より存在する武器だ。
けん制だった。
伊乃は飛鏢をかわす。
虎猿が踏み込む。
現実感が歪むほどの巨大な刃が高速で振り下ろされた。
甲高い金属音が響いた。
刃が肉や骨とぶつかった音には思えなかった。
『くッ……』
「ほう、本当に切れぬのだな」
虎猿はただ目の前の事実をそのまま口にする。
ただ、少しばかりの感嘆が声音のなかには混じっていた。
いや、正確に言うならば、取らざるが腕を狙って刀を振ったのだ。
確かに切れはしなかった。
普通であれば、牛の胴体ですら両断しそうな一撃であった。
が、
しかし――
切れはしなかったが、全くの無傷というわけではなかった。
この技を破られたのは初めてのことであった。
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