8.認知バイアス

 地獄はどこにでも転がっている――

 高麗から来た男は思った。

 乾き荒れた何も生み出すことのできない大地で生まれ育った。

 故郷の地は荒れ果て何もない。

 というより、高麗から来た男は「何かがあった」という故郷を見たことがない。


「もう冬であろうに……」と、つぶやく。


 荒涼とした故郷の地に比べ、倭の地には圧倒的な生命のざわめきを感じる。

 これが倭なのかと思う。荒涼たる故郷の冬となんと違うことか。

 昼間見た広葉樹林帯は、漆黒に塗られている。

 夜天の仄かな光を背景に木立は巨大な影となり自分に迫ってくるようだった。

 巨大な質量を持った得体の知れない闇の塊だ。


 高麗から来た男は思う――

 何が己をこのような地に立たせているのか?

 蒙古か? 高麗か? それとも他の何かか?

 腐っているという点――

 それについては、蒙古の方が、高麗の文官どもよりマシではないかと思う。

 腐りきっている。もはやどうにもならない。

 もしかすると、蛮族であり、敵である倭人にすら劣っていると思う。


 蒙古の侵略を受け、高麗の朝廷と取り巻きの文官どもは、民を見捨て逃げた。

 男の父は高麗の武官であった。蒙古と戦い死んだ。

 いわば、蒙古は親の仇である。

 しかし、それも今は蒙古よりも無力である民を捨て、より力ある者に媚びへつらう武官、王族を恨んでいた。

 言ってみれば、父を無駄に殺したのは奴らではないのかと――

 気がつくと矛が震えるほどに強く握っていた。

 

「まだ見張りは続くんですかのぉ」

 

 同じ郷出身の隊卒の男がぼやくように言った。


「そろそろ、交代だろう」

倭奴ウエノムの奴ら来るんですかね」

「とにかく見張っていればよい」

「そうですね」


 高麗から来た男は、配下の男たちを見やる。

 自分の配下の者は、合浦出港前には二十人いた。

 それが、航海中にひとり海に身を投げ、倭兵との戦いで四人が死んだ。

 今は、十五人の兵卒を率いていることになる。


 闇の中、松明が戎衣を浮き上がらせる。

 その色は、炎の揺らぎに合わせぬらぬらと色を変えていく。


 佐須浦海岸――

 蒙古上陸軍の橋頭堡ブリッジハードだった。

 元軍はこの海岸を確保し、いくつかある近隣の漁村を蹂躙、虐殺、略奪した。

 そして、漁村はそのまま宿営地となっていた。


 船から橋頭堡へ糧秣、武器、馬、まぐさが揚陸される。

 そして、宿営地となる漁村へと運び込まれる。

 二万を超える兵がすでに上陸をしていた。


 佐須浦の海岸には、揚陸された物資がまだ整理させず積まれていた。

 糧食、馬、矢、武器――

 水は川から補給作業が続いている。

 夜間にも関わらずだ。それだけ水が重要なのだ。

 水汲みに駆り出されているのは高麗兵だけだった。 


 戦闘に参加した運のいい高麗兵は、隠れていた倭人を捕らえ捕虜にした。

 奴隷にできる人間は最も価値のある略奪物だ。


「どこへ行っても変わらぬ」


 自分たちは地獄から逃れることはできないのだと男は思った。

 同じ高麗人が嬉々として女子どもも容赦なく倭人を殺し、捕獲しいたぶり、犯すのを見た。

 自分もまるで、何かに操られたかのように殺したし犯した。

 分捕った物は戎衣の下に結わいつけてある。

 それもまるで、他人事のようであり何が楽しいというわけでもなかった。

 地獄の中で足掻いているだけだと思った。


(ん?)

 

 男はとりとめのない思考を中断させる。

 男は黒い影となっている山を見つめた。

 変な気配を感じた。毛の先ほどの違和感――


(気のせ――)


 唐突にドロリとした闇が裂けた。

 男の真下。

 漆黒の飛沫とともに、巨大なあぎとが跳ね上がってきた。

 地の底から、噴き上がる黒い牙――

 

「がはっ!」


 何かが自分の眼窩がんかと、口の中に引っかかる。

 矛を振った。空を切る。

 闇と炎の灯りに塗られた視界が反転した。


 ゴンッ――


 頭蓋に強烈な衝撃を感じた瞬間、男の思考は肉体から吹き飛ばされていた。


        ◇◇◇◇◇◇


 ――何が起きたかなんて分からねーですよぉ。

 いきなり、消えちまったんだ。

 わしら見とったよな――

 ほら、他の奴だって……

 そうですよ。本当にいきなり消えたんでさぁ。

 ヤバイんですよぉ。ここはあぶねぇんですよぉ。

 いるんでさぁ。この倭の島には化け物が――

 なんか、恐ろしい怪物、妖怪の類がいるんでさぁ。

 旦那―― あ、戸長は本当に消えたでさぁ。

 わしらの目の前で神隠しのように――


 高麗兵の男は、先ほど起きたことを必死に説明する。

 しかし、蒙古人の上級指揮官はいまひとつ納得できない。

 

(脱走ではないか?)と、考える。

 が、孤島で脱走を企てるくらいなら、合浦の港で逃げていただろう。

 実際、徴用した高麗人はかなりの数が逃げていた。

 ここまで来て逃げるとは考えづらい。


(化け物だと?)

 

 蒙古人の上級指揮官は、対馬の山を見つめる。

 底のない闇のような影を見つめていた。


        ◇◇◇◇◇◇


 認知心理学の見地から言えば、人間の視覚とはまったくもって信用できない光学センサーであるといえる。

 身近にある、線の長さを比べる錯覚に代表するように、目が捕らえた光学的情報を脳は修正し処理を行う。

 その際に、様々なノイズが発生する。

 そもそも、眼球には「盲点」と呼ばれる視界の欠損が存在する。

 しかし、日常でそれを人は感じない。

 何故か?

 脳がその欠損を埋めるイメージを作り埋めてしまうからだ。

 人は常に視界の中に「正しくない」物を抱え生きている。

 また、人は認知できない物は見えないのである。

 自分の常識、体験によって蓄積された情報から大きく逸脱する存在。

 そのような物は、光学的情報が送られてきても脳がキャンセルする事例が存在する。

 脳が存在しないと判断したものは、認識できない。


 一五五〇年――

 世界一周を成し遂げたマゼランが南米最南端の「フェゴ島」に到達したときの事例が史料に残っている。

 フェゴ島の住人たちには、マゼランたちの大型帆船四隻が全く見えなかったのだ。

 視界は船ではなく、その先の水平線を認知していた。

 現地の住人にとって、船は見えていなかった。

 大型の帆船など現地人にはあり得ない物であり、脳が認知せず偽りの水平線を見せるのだ。

 (錯覚の心理トリック 清田予紀より)


 虎猿の動き、存在、技――

 それが、高麗兵の認識の埒外にあったのだ。

 彼らの上官は闇の中に消えた。

 そう認識するしかなかったのである。


        ◇◇◇◇◇◇


「蒙古、高麗、女真族満州人、漢人で二万以上かい。ま、そうだろうよ」


 破戒は言った。

 僧と言うには、いささか脂ぎった顔を虎猿に向けた。


 蒙古軍が対馬に上陸した。

 九州侵攻は間違いないであろう。

 おそらく、次は壱岐島への上離陸。

 そして九州。

 

「狙いは、大宰府か? 九州の地を奪い取る気か?」

 

 虎猿はその言葉を受け、口を開く。緩慢にだった。

 それは珍しいことではあった。


「そんなことは、鎌倉が考えればよい」


 虎猿は硬質な冷たい視線を捕らえた高麗兵に向けた。

 手足は拘束されている。捕らえるときに地面に頭を叩きつけたが、それ以外は何もしていない。

 訊いた事については、素直に答えた。

 知らないことについては「知らぬ」と答えた。


 実際問題として、二万の軍勢による上陸戦で太宰府を陥とし、九州を制圧できるのか?

 現代的な言葉で言うところの「作戦目的」ということに関して、虎猿が考えるものではない。

 また、己の思考は闇の奥底に沈んでいく。


「あっさり口を開いてさぁ、いたぶることもできなかったね」


 削り尖った木の枝を何本も握りこんで伊乃が言った。

 たおやかなに白い指に似つかわしくない、鋭く尖った木の棒。

 それで肉を穿つつもりであった。

 美麗な顔に笑みを浮かべ、木の棒をもてあそぶ。


「生きて届ければ良い。聞いた事は、国府に戻り書き示せばよかろうさ」

「破戒は字が書けるんだよな」

「字の書けぬ坊主はおるまいよ」

「あ、坊主だったんだよね」

「一応はな」


 伊乃は、無造作に尖った木の枝を捨てた。

 おそらくは、高麗兵の肉に突きたてる予定だったものだろう。


「国府に戻る」


 短く虎猿が言った。


「伊乃、担げ」

「えー、こんなデカイ奴を?」

「身につけてる物は全部お前にやる」


 伊乃は品定めするかのように高麗兵を見た。

 ぐったりとして、もう諦めの中にいるように見える。

 略奪品も身につけていた。それなりの価値があるのではないかと、伊乃は打算する。


「いいよ。弓を代わりに持って」

「おうよ」


 破戒は伊乃から弓矢を受けとる。

 伊乃は、ひょいっと六尺を超える肉体を持ち上げ肩に担いだ。

 歩き巫女姿の伊乃が戎衣を纏った男を抱えあげるのは、それはそれで、あり得ないような光景であったかもしっれない。


「行くぞ」


 虎猿の声が闇の中に重く響く。闇よりも黒く染まった声だった。

 虎猿、伊乃、破戒の三人は、有るか無しかの夜光が照らすだけの山道を歩み始めた。

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