第2話
国立
広大な敷地面積に幼等部から大学院までを設置したその学校は、全国に4箇所存在する。名称は遼天
遼天の下に東西南北が入っているように、東日本と西日本の両集中都市2箇所に建設。
親元を離れた学生一人一人が入居できるマンションを始め、ショッピングモールや公園、カラオケや映画館といった娯楽施設なども点在。幼から初等部の生徒には、希望すれば保護者も入居できるファミリータイプのマンションも併設している。
もはや一つの街と言っても過言ではないそこが、現在国が唯一手掛けている教育機関だ。
敷地の出入りはもちろん自由。外部の人間が入ってくることはできないが、内部の人間は入学時に配られる生徒証明書さえ見せれば問題ない。
120年前に我が国を襲った未曾有の大災害、そして猛威を奮った奇病の行く末がこの教育機関だ。
奇病は今でもこの国に蔓延り続けている。形を変えて、遺伝子から遺伝子へと受け継がれる。
遼天東教育学校。
そこは、今でも奇病を身体に潜ませた子ども達の特別な教育機関であり、家号という力に守られた日本の将来を背負って立つ者たちの伏魔殿である。
「これ……門から学校までどれくらいあるんだろ」
思わず一人で、そう呟いてしまうほどには広い学校――否、街並みが広がっていた。
自分の左側を、黒塗りの高級車が何台も通り過ぎていく。背後にある門は大きく、警備員が三人ほど駐在していた。その内の二人が、忙しなく訪れる車の許可証を順番にチェックしている。
一応、千秋と同じように徒歩で通学している者はいるらしかった。自分が先程やったように、残った警備員に学生証を見せては門を潜らせてもらう。
この学校へ入る門は東西南北に4つだ。恐らくそれぞれで同じ体制が取られているに違いない。
ちなみに千春も遼天東教育学校の生徒だが、彼女は中等部。一緒に家から送迎してもらおうと言われたが、千秋はそれを丁寧に断った。
初めての場所だから自分で見て回りたいのだと言ったものの、本心はただ気まずかった。それだけである。
周囲の人間に倣って、千秋は鞄を背負い直し歩き始めた。
高等部に行く生徒は、制服のネクタイを見れば分かる。ここでは初等部から高等部までが同じ制服を着用し、ネクタイの色によってそれらが分けられていた。ちなみに高等部は赤色である。
女子生徒がスカートであること以外に変化はなく、成長に合わせてサイズこそ変化するだろうが、中々コストパフォーマンスの良い制服設計だった。
大学からは私服が認められるとのことで、徒歩で校舎へ向かう生徒の中には制服を着ていない人もちらほらと見受けられる。
結局歩いて30分ほどだっただろうか。学校の敷地面積でまさか30分も歩くとは思わなかったが、現実千秋の足で高等部の校舎へは30分もかかってしまった。
今は10月。まだまだ暑さを感じる時分だ。じんわりと汗を滲ませながら辿り着いた昇降口で、自分の下駄箱を確かめた後に建物の中へ入った。自分のクラスや事前の説明などは、書面で全て通達されている。
転校初日の今日。1限目の時間帯であるにも関わらず、校舎内には生徒が溢れお喋りに花を咲かせていた。
(授業中……だよね?それとも今日は特別なのかな?)
見渡す限りで、生徒が授業を受けている様子はない。そんな中で職員室を目指していた千秋だが、目的の場所の手前は何やら大きな人だかりになっていた。掲示板を指差しながら、生徒は一様にそこへ食いついている。
足を止めて、千秋も少しだけ見て見ようと背を伸ばす。誰かが「押すなよ!」と声を荒げた。それが自分に向けられたものではないと分かっていたが、思わずびくりとしてしまう。
何とか目視できた先には、真っ白なA1ポスターに学年とクラス、そして該当人物であろう人の名前が書かれていた。その上に、真っ赤な花がぽんっと咲いている。
「生徒会……役員選挙」
それは、生徒会選挙の結果を掲示したものだった。
当然だが知らない名前が並んでいる。次の生徒会長は2年生らしく、その下に副会長、書記、会計と並ぶどこの学校でも有り触れた役職名が続いていた。
中には1年生で当選した人もいるようで、千秋は関係ないながらにも(すごいなぁ)などと思った。
自分には間違いなく無縁の世界だ。人付き合いは得意じゃない。むしろ苦手だと言ってもいい。生まれてこの方友達だってできたことはなく、人を束ねるなんて以ての外で、そう……だからこそ千堂家に引き取られたことを苦痛に感じている。
千秋が跡を継いだところで潰すのが関の山だ。何より家の人間は、千春以外好意的じゃない。義母に関しては言わずもがな、父親に至っては呼びつけた癖に何も言ってこず、千秋をこの学校に押し込んだ。
だが、それに流されている自分に一番憤りを感じる。抵抗する術など持たなかった、拒否権などこれっぽっちもなかったけれど、こうして唯々諾々と享受している自分が一番の癌である。
伏せていた視線を上げて、千秋はもう一度眼前の選挙結果を見た。
立候補にしろ推薦にしろ、ここに名前が載っている人物を千秋は羨ましく思い、かつ妬ましく思う。ここに名前が在る人は、自分の意志があるか、もしくはその意志を他人に認められた人達だ。ただ流されているだけの千秋とは違う。恐らく自分は一生こうはなれない。
生まれ持った自分の資質が、嫌でも他人を遠ざけるからだ。
「あーやっぱ会計決まんなかったか。こりゃ再選だな」
ふと真横から聞こえてきた声に、千秋はびくりとする。コレは自分の悪癖だ。人の声に、言葉に、いちいち反応するなと母親に何度も叱られた。
千秋の隣には、明るい髪質の男子学生が立っていた。彼の言葉に、千秋の斜め前にいた別の学生が反応する。
「再選すんの?ここまで来たら会長任命じゃね?」
「まぁその可能性はあるけど……良く思わない奴は出てくるだろ」
「どうだろうなー。ま、選ばれた奴はご愁傷様ってことで」
あははと笑う生徒に、隣の男子学生が肩を竦める。すると彼は、千秋の視線に気付いたらしい。ぱちりと目が合って、千秋も彼を凝視していたことを自覚する。
「あ、すみ――」
「お前はどう思う?会計職……誰か推薦いない?」
咄嗟のことに謝ろうとしたが、それより早く彼は千秋にそう尋ねた。
彼が指差した先には選挙結果のポスターがあり、よく見れば、会計の立候補者欄に花が付いていない。
立候補者自体はいるようだった。3人の名前が並んでいるが、誰も当選しないなんてことがあり得るのだろうか?
「ほんとは2年の先輩で決まってたんだけど、例の事件があったからなー。仕方ねーつったら、仕方ねーというか」
例の事件?
気になりはしたが、今日転校してきたばかりの千秋がそれを知るはずもなく、「えっと……」と言葉を濁すも彼は真っ直ぐとこちらを見つめてきた。
千秋は思わず視線を逸らす。人は苦手だ。会話は当然、コミュニケーション自体をできうる限り避ける傾向にある。
それでも、初対面の人物を振り切って逃げ出す――なんて幼稚な真似はできなかった。
人に真摯に向き合えば、おのずとそれに見合ったものが返ってくる。
そう言った人の言葉を思い出して、何とか向き合ったその男子学生に言葉を紡ぐ。
「すみません……僕、今日転校してきたばかりで」
そこまで言って視線を逸らした。人と話すときは目を見てと教えられたけれど、千秋にはそれができない。人の声も、言葉も、表情もその目も恐ろしく感じる。
「は?転校生?」
「はい……すみません、職員室へ行く途中だったんですけど、人だかりができてたんでつい、」
そこまで言うと、彼は「あー、そういうことね」と呟いた。
そしてそのまま、「じゃあ付いてこいよ」と歩き出す。
「へ?あ、あの!」
「案内してやるから付いてこいって。1年だろ?あ、や、実は2年とか言わないよな?」
「い、1年です」
「俺も1年。職員室には、俺も用事あるからさ。そんな校舎図見ながら歩いてると、人にぶつかるぞ」
今日は役員発表があったから、1限目は全学年自習なんだ。まぁ名ばかりだけど……
歩き出した彼の背中を、千秋は慌てて追い掛ける。
1限目なのにこれほど生徒が廊下に溢れている理由を、意図せず知ることができて納得した。
この学校は千秋にとって未知数だ。国が運営するこの学校は、普通の教育機関とは訳が違う。
「はい、ここな。職員室」
「ありがとうございます」
案内してくれた男子学生が、職員室の扉に手をかける。が、ふと何かを思い出したかのように千秋の方へ振り返った。
「そうだ。お前、名前は?」
「……千堂千秋です」
「ふーん、千堂か。俺、
そう言うと、一樹はがらりと職員室の扉を開け、失礼しますの挨拶もそこそこに「せんせー」と声を上げた。
中から、「黒澤、ちゃんとしろ」という言葉が聞こえる。
「転校生連れてきた。あとさー、俺の」
「あぁ、千堂千秋くんだったか。黒澤、お前は後だ。こっちが先」
「まじかよ。いやまぁいいけど」
どさりと、一樹は空いていた教員の椅子に座り込む。そのままテーブルにあったボールペンを弄り出した彼に、また教師が咎める声を出した。だがそれを、一樹が意識した様子はない。
その後千秋は、教師に連れられ校長室へと入室を促された。
中には穏やかそうな老婦人が一人。彼女がこの学校の校長だ。
「初めまして。ようこそ、遼天東教育学校高等部へ」
何の変哲も無い校長室。こんなところは、自分が元いた学校と同じだなと思った。
歴代校長の顔写真が入った額縁に、何らかの栄誉を称えられたトロフィー。敷かれた絨毯や中央に置かれたテーブルは高級そうで、その内のソファに着席を促される。
「千堂千秋くん。編入試験は申し分なく、お家からの書面でも十分編入条件は満たしていますね。我が校は、この国に二つしかない特別な教育機関です。そのため、特別な校則も設けています。一応書類にして先日お家に渡しましたが、ご覧になりましたか?」
「はい。大丈夫です」
「妹さんが中等部にいるようですし、今更聞きたいこともないかしらねぇ?」
たおやかにそう問われて、千秋は一瞬考えたのち「はい」と返事をした。
この学校への入学条件は厳しい。本人が受ける試験は言わずもがな、家にもそれ相応の調査が入る。しかしある一定の力を持つ家、もしくは本人の資質によっては国から入学を命じられる場合もある。
「今までいた学校と違って、どうしても生徒同士の揉め事は多いかもしれません。驚かれることも多いでしょうが、何か困ったことがあれば、いつでも教師陣に相談してください」
揉め事。そうはっきり言った校長に、千秋は何とも言えない顔をする。
予想はしていたけれど、やはり多いのかと思った気持ちは否めない。
この国に四つしかない特別な教育機関。一世紀以上過去の災害が生んだ、この国の弊害。
ただ個人の存在を表すだけだった苗字は、いつしか家号という特別な力を持つようになった。
今の日本は、文字通りの弱肉強食と言えるだろう。個人、もしくは家の力がなければ、とてつもなく生きにくい世の中だった。
◇◇◇
「1学年は15クラス。本館、1号館、2号館、3号館と棟が並んでて、号数がそのまま学年に当て嵌まる。特別授業でもない限り、それぞれの学年館と本館以外に行くことはないな。まぁその都度、慣れるまでは連れてくよ」
「…………」
「俺らはB組。2限目は適当に校舎回ってていいとさ。3限目にHRが入ってたから、そこで紹介ってとこかな。いい日に転入してきたな~。今日は役員選挙の発表日だったし、文化祭も近いから緩いんだ」
校舎の窓から外を見る。大きなグラウンドがよく見えて、隣にあるのは体育館と、食堂だろうか?テニスコートやプールなども視界の端々に映り、もっと遠くを見れば近場に娯楽施設が見える。
広大な敷地面積を誇る教育施設だが、こうして見れば所狭しと色んな建物が建ち並んでいた。徒歩で来たときは広すぎるのではないかと思ったが、全体を見れば建物という建物を敷き詰めている印象である。
「学校抜け出して飯食いに行く奴もいるよ。特別近いんだよ、高等部」
思わず足を止めて窓の外を眺めていると、それに気付いた一樹が急かすことなく近くによってそう説明してくれる。校長先生との話が終わった後、担任に引き合わされ、ついでと言わんばかりにまだ職員室にいた黒澤一樹に千秋は引き取られた。
担任からの学校内を説明してやってくれという頼みに、一樹は一瞬渋い顔をしたもののこうして律儀に付き合ってくれている。
一樹が指差したのはショッピングモールだ。高等部の目と鼻の先にあるそれは、明らかに建設場所を間違っている。
「抜け出して……怒られないんですか?」
「怒られるよ。だから先生たちも昼休みは門を見張ってたりするし……でも抜け出す奴はやっぱり抜け出す。まぁ、これだけ近くに見えるとなぁ……」
グラウンドを挟んでいるとはいえ、確かに近い。学校というのは退屈な場所だ。そこが魅力的に見えるのは仕方がないし、一樹の言っていることは納得できる。
塀を乗り越えて――なんて事例もありそうだと思った。
「学校内で、何か見たいものある?もしくは聞きたいこととか」
一樹の言葉に、千秋は彼を見て――すぐに視線を伏せて考える。
そう言われると中々思い浮かばないものだ。新しい学校に不安がないわけじゃない。特にここは特別な施設であるし、編入が決まったときは正直嫌だった。
見たいもの……は思い付かない。
だが聞きたいことは一つだけ思い付いた。聞いて良いことかどうかは分からなかったが、こんな学校だ。タブーということはないだろうと、千秋はゆっくり口を開く。
「〝
ぎゅっと自分の袖を握って、一樹を窺い見る。
「あぁ、」と呟いた彼は、どことなく言いにくそうに言葉を紡いだ。
「クラスは分けられていない。ごちゃ混ぜだ。目印とかもねーな。一応、平等がモットーだし」
「…………」
「2年になったら、成績順でクラスが決まるくらいだ」
そう言う彼はどちらなのだろう。
言いにくそうにしているところを見たら、〝
直接聞いても良いかもしれないと思ったが、千秋はそれ以上尋ねなかった。
「気分を悪くしたらごめんなさい」とだけ頭を下げて、一樹の様子を窺いもせず窓の外へ視線を向ける。
〝
自分が生まれたとき既に、人間はこの2種類に分けられていた。恐らく三世代ほど前からだろう。日本の歴史を見る限り、120年前に流行った奇病のことを考えれば大体がその辺りからだ。
幼年期では絵本で、小学校からは生活の授業で真っ先に教えられるそれである。
日本に住まう人間は2種類いる。異能を持つ者と持たない者。
異能と言っても魔法のような類いじゃない。人によっては超人的なものもあるし、日常生活を送る上で便利なものから不便なものまで様々だ。
現在の日本人は、一定の確率で五感の鋭い者が生まれる。
視覚。聴覚。触覚。味覚。嗅覚。
これらのいずれかが発達して生まれた者を〝
奇病はいつしか遺伝子に馴染み、科学者たちはそれを才能と名付けた。
一定の確率で発症する者がいる以上、いつまでも病魔として扱うわけにはいかなかったのだろう。五感を五色(Five-color)と形容し、感じる者(Feel)と定義した。
公式の場や書類上では『FCF』や『FF』などと表記される。
だが、異能と言っても差し支えのないほどの発達を持つ者がほとんどだ。そしてそれを持たない者との差別化を図るため、こうした呼び名が往来にして使われている。
〝
だが強制ではない。普通学校に〝
この学校への入学資格は異能の有無ではない。あくまで家号の強さと、その影響力で決まる。こうなった背景には長い歴史があり、千秋の持つ千堂の名も、それに縛られた家の一つだ。
千秋が一樹にあんな質問をしたのには訳が在る。
〝
自身の能力を武器にした荒くれ者は一定数存在し、千秋の育った田舎ですら居たくらいなのだ。
寄せ集めているこの学校ではどれほどのものか……想像するだけで恐ろしかった。
今の日本は荒れている。これでも良くなった方だと歴史の授業では学ぶが、それでも諸外国に比べて治安の悪さは折り紙付きだ。昔は治安の良い国だっただなんて、到底信じられもしない。
「ま、思ってるほど悪くないぞ、この学校」
「…………」
「既にヒエラルキーは決まってる。賢く立ち回ってりゃ、普通の学校生活さ」
一樹がそう言うとほぼ同時に、2限目終了を告げるチャイムが鳴った。
教室からわらわらと生徒達が出てくる。自分と一樹の存在に気付いた他生徒が、彼の名前を気安げに呼んだ。
姿を見ただけで声を掛けられるなんて、友達の多い男なのだろう。
「おー」と返事をした彼の横顔に、千秋は言葉を放つ。
「案内、ありがとうございました。不安だったことも聞けて良かったです」
それは本心だった。どんな初日になるかと思ったが、少なくとも滑り出しで悪い結果にはならなかったと思う。
一樹の返事も待たずに、千秋は自分の教室へ向かうべく背を向けた。
失礼で、不躾な奴だと思われただろうか?だがそれでもいい。千秋がやることは、目立たつ、騒がず、静かにここで3年弱を過ごすことだけである。
「なんだあれ?感じ悪いな、噂の転校生?」
猫背の背中を見送りながら、一樹は溜息交じりに頭を掻く。近くに寄ってきた友人が眉を顰めてそう言ったが、一樹本人は全くもって気にしていない。
「学校生活が不安で一杯ですって感じだったな。ま、こんな時期の転校生なんてみんなそんなもんだろ」
「家号は?」
「千堂だとよ。聞いたことねぇけど、でもここに入ってきたって事は何かしら手掛けてるんだろ」
「で、〝
家もそこそこ。異能も無し。
この学校で一番肩身が狭いのはそんな奴らだ。一樹はそこのところをよく分かっているし、実際に千秋のような生徒は各クラスに一人や二人存在する。
家がそこそこでも異能があればまだマシだ。もしくは異能がなくても家が立派だと、こっちは更に良い。
この学校のヒエラルキーは家号の強さで決まっている。学校だけじゃない、この国全体が既にそうだ。政府がそれを覆したいと思っているのは知っているし、この学校だってそれを目的としていないわけじゃない。
だが、現実今はここから動かない。少なくとも一樹の代では変わらない。
黒澤の家号を持つ自分だからこそ断言できる。この国と、一度作られてしまった力関係はそう簡単に覆せないのだ。
「つーか、なんでそんな奴の相手を、
「担任に捕まったんだよ。あとまぁ、見慣れない顔だったし探りも入れとくかなって」
「さすが、黒澤家の若様は違うね。ちゃんと名乗った?向こう、更に萎縮したんじゃない?」
言われて、一樹は(あー、)と心の中で思う。
だが、友人の言葉は杞憂だろう。千堂千秋と名乗ったその男子学生は、一樹が名乗っても顔色一つ変えなかった。
「多分、あいつ俺のこと知らねぇわ」
「は!?黒澤の名前知らないとか、どんだけ田舎から出てきたんだよ……」
それは思った。名乗ったときに何も反応されなかったから、一樹は少しだけ訝しんだのだ。
だがそういうこともあるだろう。そしてそういう存在がいることに、一樹は僅かばかりだが不安感を抱いた。
この学校で黒澤と名乗ればすり寄ってくる奴がほとんどだ。一樹の性格も相まって、ごまをすりたい人間が居ても敵対したい人間はいない。いや、中には能なしの馬鹿もいるが、それはそれだ。
とにかく、ここで黒澤という家号は有名である。それに見向きもしない相手がいるということに、一樹は一抹の危機感を覚えた。
「何考えてるんだよ。お人好しモード?」
黙り込み、千堂千秋が歩いて行った方向を見続ける一樹に友人はそんなことを言った。
彼は一樹の友人でもあるが、黒澤家の傘下に入っている家の子だ。一樹の性格には殊更詳しく、それでいてお目付役でもある。
もっとも、お目付役というほど厳しくもないのだけれど。
だがこんな折に小言をぶつけてくるくらいには、役目を果たしてくれている。
「まぁ、危ないなとは思ってるよ。黒澤に興味がないならいいんだ。だけど、知らないってのは普通に考えてやばいだろ」
「でもそりゃ、一樹が気にしてやることじゃないだろ。家の教育不足だ」
「わぁーってる。分かってるけど、いや俺駄目だわ。あぁいうの放っておけない」
「しっかりしてくれよ。そんな性格じゃ、この先お前……」
「ちょっと助言してやるだけだって。同じクラスだし、これでなんかあったら目覚めが悪ぃ」
甘いことを言っている自覚はあった。友人の目は呆れていて、でもこれは一樹の性分でもある。
そんなこと、一樹自身が何より分かっているのだ。
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