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 舞台の最初のシーン、あたし――ヤスさんは棺のなかに横たわっているため、観客からその姿は見えない。だからヤスさんの死に顔を、それを看取るイスカリオテのユダの微笑みによってのみ観客は知る。ここで観客を惹きつけることができるか、それとも心が離れてしまうのか、舞台の成否を方向付ける重要な幕開けだ。前の世界では、あたしはマリア役として十字架に高く掲げられていたから、スポットライトで客席が見えなくとも、場内の雰囲気がぐっと引き締まったのを確認できた。この世界では何も見えなかったから、いまいち張り合いがないまま舞台は始まった。

 暗転。あたしとマリア役のババアは袖に引っ込み、その代わりにヤスさんの幼少時代を映すムービーが流れる。部員の妹に演技してもらったものの録画だ。当然、演技はお世辞にもあまり上手くないのだが、智子の計画では、最初に生まれた緊張感をほぐすシーンとして機能するはずだった。

 その智子がいまは苦々しい表情でムービーを見つめている。

「まずいな、前の世界ほど観客の心を掴めてない」

 そして三姉妹とも感じていただろうことを代弁した。袖から舞台は見えないし、笑いや泣きといった分かりやすい感情が産まれる舞台でもない。だからこそ、沈黙のなかに確かな緊張感が感じとれる。舞台に立つあたしが女優として追い求めるべき大事なものだ。智子も舞台監督として、恵子も脚本家として、それを捉えないといけない、はずだった。

「……ごめん。わたしのせいだ。狙いすぎて、掴みをミスった。わたしの構成が間違ってたんだ」

 智子がうなだれてくちびるを噛んだ。

「いや、脚本はうちやろ。うちの脚本はいつもこうや。純文学的で、分かりにくい、大衆を意識しろ、ってよう言われたわ。またやってもた。分かりにくいのは、結局なんも分かってへんからやねん」

 恵子がそう言い、自分のあたまをこぶしで殴りつけた。

 智子も恵子も本気でそう思っていたんだろう。あたしもそうだ、自分の演技のせいだと思っていた。まだ演技をしてもいないのに。前の世界と違うものが何かといえば、ババアしかないのに、あたしたちは全力でババアのせいにすることを拒否した。ババアをかばったわけじゃない。あたしたちは、ババアのせいで失敗したなんて、意地でもそんなこと思いたくなかったから。

「まだ始まったばかりだし。取り返すよ」

 あたしは強い口調で言った。

「あたしが演技で取り返すから。だから、力を貸して」

 智子と恵子の手をぎゅっとにぎる。同じぐらいの温度の手だ。だってあたしたちは、姉妹だから。たぶん、血がつながってなくても。それよりも濃い、おなじもので繋がってるから。

「頼む、美子。うちの脚本には、笑いも泣きもあらへん。でも美子には、そうじゃない引かせ方ができるはずや」

 恵子があたしの手を握り返し、確信を込めた声で言った。恵子はそのことを信じてくれている。笑いや泣きで観客を引きつけることはできなくても、あたしにはそうじゃないやり方で、観客を引かせることができるんだって。

「頼む、美子。観客を、〝怒らせて〟くれ」

 智子もあたしの手を握り返してくれた。


 怒り。あたしはまさにその感情を武器にした女優だった。SNSで炎上することも珍しくない。怒りはたしかにマイナスの感情ではあるのだが、その極性を抜きにすれば、笑いや泣きと同様、人間の心を揺さぶる動機としてありえる。あたしはもしかすると過去のどんな舞台よりも大事だったかもしれないこの場面、女優としてのあたしをずっと助けてくれていたその根源的な感情に頼ろうとした。少なくとも前の世界では、あたしのことを描いてくれた「神様の葬式」は、怒りに象徴される舞台であったに違いなかった。この世界ではそうじゃなくても。

 大衆のことが分からない。恵子が口にした言葉を反芻する。そうだ、恵子はいつだって、大衆という人間の抽象に対し脚本や小説を書いたことはなかった。個人という人間の具象に対し書いたこともなかった。明確ではないが鮮明なたったひとりのイメージ、抽象的具象でもいえるものに向かって書いていた。彼女のことを書き、彼女のために書き、彼女に向けて書いていた。それは、あたしだって同じだ。

 でもあたしはこうも思う。ある種の自己陶酔にも似た、ひどく閉じた身勝手な人間らしさは、ある程度の熱量を越えたとき、他人と自分とを隔てる壁を瓦解させ、人間と人間を融合させるんじゃないかって。その作用のことを恵子のような作家なら「共感」と呼ぶんだろう。智子みたいなエンジニアなら「理解」と呼ぶ。あたしは女優だから、もっと生々しいいいかたをする。作家とは心だ。エンジニアとは技術だ。そして女優とは、身体のことだ。

 ムービーが終わり、舞台が明るくなる。あたしは彼女と交合するため、身体をひかりの舞台に投げ出していった。


 舞台にはマリアに扮したババアが立っている。ヤスさんの恰好をしたあたしは、水瓶を両手に抱えたままババアに駆け寄っていく。

「ねえねえお母さん、見て! 奇跡が起きたよ!」

 よし、調子は悪くない。しっかりと張った声が体育館に響いた。客席の雰囲気はまだ重いが、少しずつ空気を入れ替えていく。生の舞台ではとりわけ声という要素が肝要で、上手い女優は声だけで場を支配することができるという。あたしにまだそれはできないけれど、時間をかけて粘り強くそれに近づけていくんだ。

 ババアは黙ったまま首をかしげて水瓶を見遣った。ババアは日本語が分からないため台詞はほとんど用意されていない。表情と仕草だけで語るのは限界がある。

 舞台では、そもそも主役の重要度は低い。周りがいかに主役を盛り立てることができるかが舞台の成否を左右するため、演技力の高い俳優を脇役に固めることもあるほどだ。この舞台の主役はババアだが、鍵を握っているのは助演であるあたしのほうなのだという認識を強く持つ。だとすれば、失敗をすれば、あたしのせいだ。成功をしたなら、あたしのおかげだ。もっと胸を張れ。

「お母さん、水瓶のなかの水が、ぶどう酒になったよ!」

 あたしは満面の笑みを浮かべ、水瓶をババアに差し出す。新約聖書、ヨハネの福音書・第二章、ヤスさんの最初の奇跡として有名な、「カナの婚礼」だ。

 聖書のストーリーに従えば、そのぶどう酒は婚礼にて振舞われるはずだった。

 しかしババアはその水瓶を掴むと、一気に飲み干してしまった。ふだんのウォッカの一気飲みを思わせる、いい飲みっぷりだった。

「お母さん、僕の作ったぶどう酒に何すんだよ!」

 あたしは子どもっぽさを意識しながら叫び、ババアの持った水瓶を叩き落とした。ガシャーン、と激しい音を立てて水瓶が床に落下し、破片が舞台上に飛び散る。計算以上に派手な割れ方をしてくれて、スポットライトの光をあびてきらきらと輝いた。

 それを観ていた客席からは、気まずそうな沈黙や、何かをごまかすような咳払いが起こった。席を立つ人も散見された。


 ――これでいい。まずはひとつ、〝怒らせる〟ことができた。あたしは心のなかでこっそりとガッツポーズをする。もともと舞台「神様の葬式」のテーマは、「キリスト教の反転」だ。キリスト教のストーリーをそのまま逆になぞる脚本は、明確にお客さんの反発を招くだろう。それで構わない。

 カトリック系の女子高であり、教師はもちろん信者だし、父兄にも熱心な信者が多い。生徒だってキリスト教に思い入れの薄い子も少なくなかったけれど、在学中、すっかり信心深くなってしまった子もなかにはいた。

 そんな彼女たちに、あたしは起爆剤をぶち込む。怒りを契機として。舞台の最後には、聖堂がマリアとヤスさんとともに燃え落ちるフィナーレがある。そこを極地として爆発する怒りは、必ず何人かの心を掴むはずだ。少なくとも、前の世界ではそうだった。父兄からは苦情があり、先生からは叱られたいっぽう、「感動したよ」と舞台を褒めてくれる友だちはたくさんいた。


 それからあたしとババアはすべての奇跡を裏切っていった。五つのパンと二つの魚をふたりで分けた。いちじくの実を食べた。湖を泳ぎ、舟のうえで嵐に翻弄された。誰の傷を治すこともできず、いくつもの人間の死を見送った。なすすべのないその姿は、なすすべのない人間そのものだった。あたしとババアは舞台のうえで人間らしく笑い、泣き、怒った。

 だが同じ反応は、舞台のしたのどこからも得られなかった。どこからかあくびが聴こえた気がした。観客の数がずいぶん減ったように感じられた。あたしたちが目指したように、怒りによってではなく、退屈によって。場内に少しずつ、しかしたしかに満ち始めた倦怠感をどうにかすべく、あたしはかつてなく焦り出した。

「こころの貧しい人たちは、不幸だ!」

 あたしは観客に向かい、声を張り上げた。

「悲しんでいる人たちは、不幸だ!」

 しかし観客の誰からも反応はない。

「柔和な人たちは、不幸だ!」

 まるで手ごたえのない空洞に向かい、あたしは叫ぶ。

「義に飢えかわいている人たちは、不幸だ!」

 マタイの福音書・第五章、「至福の教え」を、さかさまに。

「あわれみ深い人たちは、不幸だ!」

 皮肉にもそれを与えられた人々の反応も、おそらくさかさまだった。

「心の清い人たちは、不幸だ! 平和をつくり出す人たちは、不幸だ! 義のために迫害されてきた人たちは、不幸だ!」

 さかさまに叫び続ける。

「私のために人々があなたがたをののしり、また迫害し、あなたがたに対し偽って様々の悪口を言う時には、あなたがたは、不幸だ!」

 さかさまの弟子たちに向かい、さかさまのヤスさんを体現する。

「喜ぶな、喜ぶな、よろこぶな! 天においてあなたがたの受ける報いなんて、なにもないんだ!」

 スポットライトに照らされた唾が霧雨のようにむなしく散った。この言葉はあるいは、演技ではなかったかもしれない。そして閉じたリアリティに対して観客は冷たい。その切実さは、観客に向けられたものではないからだ。自分をちゃんと向いていない、独りよがりな演技を、観客は不思議なぐらい敏感に感じとる。

 そのことが分かっていても、いや、分かっているからこそ、あたしにはどうしようもなかった。まだ駆け出しの頃だが、同じような舞台を経験したことは何度かある。そしてその経験は、離れてしまった心を取り戻すのは、最初から心を掴むよりもずっと難しいのだと教えていた。

 これは何かの暗示だろうか。あたしが今となっては取り戻せないものを、因果にも最初の舞台が示してくれているのではないだろうか。思考が錯乱したまま、そんな仕方がないことを考えていた。


 順番は聖書と前後するが、マタイの福音書・第三章、「イエスの洗礼」の場面。あたしはヨハネではなく、マリアとしてのババアに洗礼を与えられる。もはや聖書を裏切るということに何の意味も見いだせなかった。さかさまのヤスさんはただの茶番でしかなかった。もしもこれがほんとうの洗礼であるならば。あたしはそんなことを望んだ。舞台上のヤスさんであることを辞め、あたしであることを許されたかった。ヨハネではなく、マリアでもなく、ババアに。

 マタイの福音書・第四章。断食中に「悪魔の誘惑」を受けたあたしを、ババアは殴るフリをした。あたしは思い切り吹き飛ばされて見せる。そしてあたしは、ババアを殴り返すフリをする、はずだった。かの有名な説法、「右の頬を打たれれば左の頬を向けてやりなさい」の逆を演じなければならない、はずだった。智子の作った構成では、恵子の書いた脚本ではそうだった。それでも今あたしは、たとえフリでも、ババアを殴ることなんてできなかった。あたしは今、怒るに足る理由に欠けていた。ババアを救う、その強さに欠けていた。

 観客はみな、あたしがババアの左頬を殴り返すものと思っていただろう。あたしが項垂れたままなのを見て、わずかにざわついた。やがてスポットライトは、気まずそうに落ちた。あたしのなかで何かがぽきりと折れたのを感じた。


 智子も恵子も何も言わなかった。分かってる、舞台はひとりで立て直すしかないんだ。でもあたしにできることは、もう何もなさそうだった。ババアが「ゲツセマネの祈り」を演じるとき、あたしは眠ったフリをして、それだけだった。ババアが「サンヘドリン」で断罪されるとき、あたしは無力な傍聴人として見守ってるだけだった。ババアの演技はあいかわらず素晴らしく、大祭司カヤバが「あなたは神か?」と尋ねたとき、まよいのない凛とした表情で頷いてみせた。観客が見てなくても、いても、いなくても、ババアの演技にはまるで揺るぎがなかった。あたしはあらためて女優としてふさわしいババアの神性を知った。

 ヴィア・ドロローサ。ババアは鞭を打たれ、茨の冠を被らされたのち、十字架を背負う。何度も倒れ、罵声を浴びながら、ゴルゴダの丘へ登る。やがて十字架が立てられ、ババアはそこに打ち付けられる。

「エリ・エリ・レマ・サバクタニ」

 それがババアの台詞。この舞台を通しての、ババアのたったひとつの台詞。その声はあどけなく、おとこを知らないそれで、揺るぎないマリアを演じていた。この舞台で彼女だけが女優だった。その台詞だけは、たしかに客席を支配したのかもしれなかった。

 そしてババアは死んだ。ロンギヌスの槍がババアのおなかを貫く。地震は起こらない。聖者が生き返ったりもしない。「本当にこの人は神だった」の声はいつまでも聴こえてこない。スポットライトがゆっくりとフェイドアウトする。客席からわずかな溜息が漏れ、拍手がぱらぱらと鳴った。


 ここから終幕まではエピローグだ。これは聖書にない、智子と恵子の完全オリジナルの部分である。マリアの葬式をし、またヤスさんもやがて亡くなり、十二使徒に見送られる場面までを、駆け足で演じる。残り時間は十分もないし、もう舞台の失敗は取り返しようがないだろうと思われて、あたしの心は完全に離れていた。早く終わらないか、それだけを考えていて、一刻も早くこの舞台から逃げ出したかった。

「本当にこのたびは、お母様のことを、なんと申し上げてよいか……」

 マリアの葬式の場面、悲痛な表情を歪めたイスカリオテのユダが、あたしに話しかけてきた。もう余計なことをしようとも、できるとも思わない。脚本どおり、「あのひとは、神じゃなかったんです」と返事をしようと思った瞬間だった。

 客席からわずかに、しかし確かに笑い声が漏れた。この舞台をつうじて初めて聴こえた笑い声で、また初めての好意的反応だったかもしれなかった。あたしは台詞を口にするのを忘れ、客席に目を向けた。スポットライトがまぶしくて客席は見えないが、あちこちから上がった笑い声は、声を潜めてはいるけれど、じわじわとその熱量を高めているように感じられた。もともとこの舞台は、笑いを前提としたものではない。むしろキリスト教の反転を指向したこの舞台は、「笑ってはいけない」類のものであったはずだ。そしてその抑圧感に反発するかのように、ふたをされた瓶のなかで水が沸騰するかのように、少しずつ笑いの温度が高まっている。

 いったいこの反応を産んでいる要素はなんなのか、あたしは客席に理由を探そうとした。舞台のうえにはあたしとイスカリオテのユダと、そして磔にされたババアしかいない。そのどれも笑えるような類のものではなかったと思う。少なくとも、この場面までは。

「志村ー、うしろ、後ろ」

 きょろきょろと客席を見渡してるあたしに、その声が投げかけられた。それを聴いて、また客席の堪えたような笑い声が大きくなる。

 あたしは慌てて後ろを振り返った。そこには白い壁があるだけで、何も特別なものは見つけられない。

「惜しい、もうちょっと上」

 客席からその声がした。客席のあちこちから噴いたような笑い声が沸きあがる。

 あたしは視線をあげた。そこには十字架があって、ババアが死んだ姿のまま打ち付けられている、はずだった。

「うわっ」

 あたしは叫んだ。ただそれだけ。ただそれだけなのに、体育館の底が割れるような大爆笑が天井まで突き抜けた。

 ババアは神としてふさわしい死に顔を見せているかと思ったら、とんでもなくて、ひょっとこみたいな変顔を客席に晒しているのだった。

「……いやいや、どんな死に顔だよ」

 あたしがぽつりと呟いた言葉を単一指向性の三点吊りマイクはしっかり拾った。笑い声はもっと大きくなった。

「あの、美子さん、台詞……」

 置いてけぼりになって困惑したのか、イスカリオテのユダ役の子がおずおずと切り出す。

「思い切り素かよ! ていうか誰!?」

 あたしが手を振ってツッコミを入れると、笑い声とともに割れんばかりの拍手が沸き起こった。

 もうめちゃくちゃだった。構成も脚本もあったもんじゃない。それなのに、舞台袖では智子も恵子も笑っているのが見えた。あたしも、智子も、恵子も、お客さんのみんなも、こう思っちゃったんだ。ああ、、と。ババアの変顔、ただそれだけで。

 でもそれは、ババアの変顔が面白かった、ただそれだけじゃないと思う。ババアがここにいたるまで、無言の演技で見せた余韻がじわりと雰囲気に満ち、背景に説得力を与えてたんだ。それは引き換えに、磔にされたマリアのカトリック的文脈における説得力を奪った。いま場内にいる誰もが、「怒り」でも「泣き」でも「笑い」ですらなく、より本質的な感情をもって、「磔のマリア」を享受していた。喜怒哀楽、という、演劇を始めとした娯楽を形容する言葉がある。いま場内にあるのは、「怒」でも「哀」でも「楽」でもない。むしろそのすべてを許してくれる、祝福されたこの感情は、「喜」だ。あたしはババアを代表するその感情を知った。

 あたしはババアの力を知った。作家でもエンジニアでも女優でもない、ただの人間でしかないババアが、人にもたらす怒りでも泣きでも笑いでもない感情を知った。あたしは思い出した。ババアと過ごした日々はクソだったけど、あたしは怒って、智子は泣いて、恵子は笑ってばかりだったけれど、そんなことが、うれしかった。そして今も。

「え、なに。めっちゃウケてんじゃん」

 男子高生を中心に、場内にはまた人が増え始めた。席はあっという間に埋まり、壁際にも立ち見客が並んでいる雰囲気があった。

「あのイエスさま役の子、めっちゃ可愛くね?」

「いや、磔にされてる、マリアさま役の子のが可愛いやろ」

「マリアさまは可愛い、イエスさまは美人って感じやな」

「やばい、これやったら信者になるわ」

「でもあのマリアさまの顔芸、ほんま笑うわ」

 客席はざわついていて、もう演劇どころじゃない。でも間違いなく、みんながよろこんでた。観客は演者のように、そして演者は観客のように、そんな役割の交換がたしかに発生してた。舞台はいま、観客のものでも演者のものでもなく、たしかに浮き上がってた。誰のものでもない、ああこれは、宗教だ。あたしの、あたしたちの。

「美子ー! 観にきたよー! がんばれー!」

 二階席から聴こえた、よくとおるアニメ声を覚えていた。バンド「トリ」のボーカルの子だ。グラウンドでのライブ演奏が終わり、駆け付けてくれたんだと分かった。彼女も相当に美人だし、お互いにライバルとして意識していたので、話したことはほとんどなかった。でもあたしは彼女を尊敬していたし、彼女もまたそうだったんだと知った。あたしは笑顔で手を振ってこたえる。ああ、こんなに自由でよかったんだ。溢れた客は入場を禁止されている二階のベランダにもぎゅうぎゅうに満ち、手すりから上半身をはみ出させて歓声をあげる。

「イエスさまー! 結婚してくれー!」

「マリアさまー! 愛してるよー!」

「がんばれー」

「かわいー」

「あはははは!」

 あたし、めっちゃ笑ってる。

 

 あたしは演技する。磔にされたマリアのしたで演技する。ババアの死に見守られて演技する。うれしかった、と、そう伝えるために。そう伝えることをよろこぶために。生きることはなんてうれしいんだろう。超満員の熱気を感じ、スポットライトにあぶられて、どんなクソ夏よりもおびただしい汗を流しながら、あたしは幸せだった。「神様の葬式」の成功は、ババアの力なくしてはあり得なかった。でもあたしは、智子だって、恵子だって、もちろんあたしだって、いなければ「神様の葬式」は成功しなかった、と、そう思う。もしかすると、演技じゃなかったかもしれないけど。

 死の完成には、生きている人間が必要だ。あああたしは、「神様」の「葬式」をしている、そう思った。それが本当に「神様」かといえば、その点についてのみは疑問が残ったけれど。タイトルを変えてみてもいいのではないか、あたしはこの舞台が終わったら、その提案を智子と恵子にしようと思った。

 「神様の葬式」のラストシーン、磔になったババアの後ろに雷がほとばしる。場内に再び緊張感が満ち、しんと静まり返った。舞台は終幕に向け、本来あるべき筋に戻る。智子が苦心して製作した装置が無事動いたのだ。恵子の脚本もほとんど意味を終えていた。棺に横たわっていたあたしも、あとはババアにキスをされるフリをすれば役割を終えるわけだった。そして「神様の葬式」は完成する。

 あたしはこう思う。優れた作品は、完成するまでにすでに完成しているのだと。終幕の直前にクライマックスがあり、そのあとは完成を味わうための余韻でしかない。作品が演者や製作者の手を離れ、観客のものになる時間だ。

 「神様の葬式」でいえば、落雷によってマリアが復活するシーンこそ物語のクライマックスであり、以降は恵子の脚本からも、智子の装置からも、あたしの演技からも離れた、観客のための時間になるはずだった。

 観客を除けばたったひとり、この物語を宛てられた人物がいた。観客を除けばたったひとり、この物語を自分だけのものにしていい人物がいた。ひとりだけ、この舞台において、観客よりも優先されてもいい、されるべき人物が、いた。

 合奏部の演奏する聖歌が響くなか、彼女はゆっくりとあたしの横たわる棺に歩み寄った。彼女だけの物語を完成させるために。この物語を彼女だけのものにするために。


 あたしのくちびるに、やわらかくて、あついものが触れる感触があった。


 あたしはやっぱりそのとき、怒ったと思う。ふたりだけの物語にしたかったのに、ババアがそれを自分だけのものにしてしまったから。そのキスが、あまりに自分勝手で、独りよがりだったから。

 舞台では往々にして、想像していない、イレギュラーなことが起こり得る。それは裏方のミスによることもあるし、演者の台詞忘れなどによることもあるし、設備の故障とか、あるいは上演側に不備はないが、観客の野次といった外部要因も少なくない。そのすべてにおいて、女優は、たとえ不測の事態であってもうまく切り抜けることが求められる。脚本を予定通りに完成させるのが女優の仕事だからだ。うまく窮地を乗り越える機転のきいたアドリブですらも、脚本の本筋からはみ出すことは許されない。そうしなければ、本来完成させるべき作品とは違うものになってしまうからだ。

 あたしもそれは分かっていた。分かっていたし、そのとおりにうまくやってきたことは何度もあった。それなのに「神様の葬式」では、それができなかった。ババアにキスをされた瞬間、気が動転したあたしは、うっかり飛び起きてしまったのだった。脚本通りであれば、マリアにキスをされたヤスさんは生き返ることなく、その幕が落ちる。あたしのミスにより、舞台には「ヤスさんの復活」という本来あるべきでない文脈が加えられた。復活したヤスさんとマリアが向き合うありえない構図のまま、幕は降りてしまった。緞帳の向こうからは、今までに聴いたこともないぐらいの激しい拍手が鳴り響いていた。

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