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「遅いよ、美子さん! もうすぐ始まるよ!」

 体育館脇の控室に入るなり、演劇部の部長にすごい剣幕で叱られた。幕が開くまでの時間を持て余すのが嫌いなので、あたしはいつもぎりぎりまで顔を見せない。うっかり遅刻をしてしまったこともあった。この日は遅刻しなかったなかでは、いちばん遅く控室に入ったかもしれない。

 舞台はすでに整っていた。しろを基調とした聖堂だ。壁にはしろい十字架があって、その下にはくろい棺がたたえられている。幕が開くまえ、ババアは十字架に括られ、あたしは棺に入る手筈となっていた。


 ぶあつい緞帳の向こうからざわざわとした声が聴こえた。そっと隙間から客席を見渡してみると、緑色のシートが敷かれたアリーナに並ぶパイプ椅子のほとんどが埋まっていた。まだ照明は点いているため、みんなの表情もうかがうことができた。

 舞台が始まる前の客席の、独特の緊張感があたしは好きだ。あたしよりも緊張しているんじゃないか、そう思うと、舞台に向かうあたしの心はすとんと落ち着く。

 観客は演者のように、そして演者は観客のように、そんな役割の交換が発生したとき、舞台は相互作用によって観客の手からも演者の手からも離れて浮き上がる。誰のものでもない、あたしはそれが舞台の理想像だと思う。宗教にも近いだろうか。

 ヤスさんを信じなかったあたしが、たったひとつだけ信じることのできたもののことを思うと、あたしの身体に役割が降りてくる。舞台に立つとき、あたしはヤスさんとして完成する。

「美子、見切れてんで。閉めや」

 恵子がやってきて、緞帳の隙間を閉じてしまった。

「すごいお客さん入ってるねー」

 あたしは興奮気味に言った。今となっては、もちろんずっと観客の多い舞台を経験したこともあるし、テレビドラマなんかだとうっかりすれば数十万人か数百万人に注目されることになる。しかし高校生のあのときは、これが最初のビッグステージで、わくわくして仕方なかった。あの続きを味わいたくて、あたしは女優になろうと決めたのかもしれない。あのときの初期衝動をあたしは思い出した。

 あたしは色付きの夢を見ることができる。それができる子は、女優に向いているのだという。今も色あせていない思い出は、ふたつの世界を確かに繋いでいる。夢と現実とを確かに繋いでいる。目が覚めても、覚醒すら分かつことができない、あたしがあたしである理由だ。何者にもなりたくない、いまあたしはワナビーじゃなく、トゥービーだった。

「ああでも、グラウンドでやってるバンド演奏のが客入ってるらしいよ。あっちのが広いし。美子も覚えてるでしょ」

 智子が冷めた口調で言った。文化祭のライブステージの最後を飾ったというガールズバンドをあたしもよく覚えている。そのまま「トリ」という名前のそのバンドは、京都の、いや関西のインディーズ・シーンを大いに沸かせたのち、数年後にメジャーデビューした。エレクトロニカをそのままスリーピースの楽器でやっちゃう可愛らしいスタイルを最初に広めたのは「トリ」で、著名な音楽評論家が名付けたジャンル「トライ・メロウ」の第一人者としてすっかり有名になった。もしかすると、「ハイスペックシスターズ」の誰よりも売れているかもしれない。

 文化祭のラスト、体育館ではあたしたちの舞台があるいっぽう、グラウンドでは「トリ」の演奏があり、お互いに客を奪い合う形となった。前の世界では、あたしたちの舞台よりも「トリ」の演奏に集まった客のほうがずっと多くて、そののち文化祭の思い出話として話題に上がるのも「トリ」の演奏のほうだった。

 あたしはあの舞台の出来には満足をしている。女優としてはそうだ。女優じゃなかったとき、あたしはあの舞台にやり残したことがあった。負けたくない。強くそう思った。


 ふいに肩を叩かれて、振り返ると、そこにはババアが立っていた。相変わらずの怒った顔で、眉間にしわを寄せたまま、あたしに英語で何かを言った。

「堅くなりすぎって、言われてるよ」

 智子が呆れたような口調で翻訳してくれた。あたしはうっかり、ぷっと笑ってしまった。同時に、肩の力が抜けるような、そんな感覚があった。

「はっはっは、それ、ババアに言われたらおしまいだわ」

 あたしはそう言い返した。智子が翻訳しようとしたので、手を出してそれを制した。代わりにあたしは、胸を張って、せいいっぱいの英語で、言ってやった。

「アイ、アム、アン、アクトレス」

 中学生みたいな、へぼい英語だった。でもそんなへぼい言葉があたしを説明する全てだった。少なくともあたしはそう思っていた。

 しかしババアは、首を横に振った。そしていくつかの言葉を言い悩んだのち、ようやくちょうどいい言葉を思いついたのか、はっとした顔つきで、ゆっくりと、あたしに言った。その表情はあたしには、わらっているように見えた。

「Freedom」

 その言葉を聴くと同時に、もうすぐ上演が始まることを告げる放送が流れ、あたしたちは急いで上演前の定位置に着いた。あたしは棺のなかに身体を横たえたまま、ババアに聴いた言葉を反芻した。それは「神様の葬式」で、これからの女優人生で、あたしがどうあるべきなのかを教えてくれた。

 あたしは、「女優」であるべきじゃなかった。あたしは、「自由」であるべきだった。ちいさな「よ」の字を全ての舞台に、演技に、人生に、生きることのあらゆるシーンに置き忘れていこうと思った。その言葉はあたしの全てを肯定してくれた。それこそがあたしがこの世界に転移した意味なんじゃないかとすら思った。でもあたしはまだ、ババアを肯定していない。ババアがどうあるべきなのかを教えてはいない。あたしは元の世界に戻るため、やるべきことのもう半分をやりとげようと決めた。そのためにできることは、少なくともいまは、舞台のうえにだけあった。

 やがて幕の開く音がした。焦げつくようなスポットライトが棺のなかのあたしを熱くした。拍手の消えた客席はとても静かだった。イスカリオテのユダ役の子が歩み寄ってくる足音だけが聴こえた。あたしは目をつむったまま、ちいさな「よ」のつく言葉を考える。いまのあたしには「処女」しか思いつかなかった。たとえばこの舞台に、あたしはそれを置き去りにしたかった。

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