第6-7話 匂いに釣られて

 ──二〇九四年四月二日。私は二十四歳になった。


 そして、今日は弟の誕生日だった。


「どうしよう……!」

「どーしょーもないよ。まあ、一日くらい遅れてもいーんじゃない?」

「いいわけないでしょ? 誕生日は一年に一度しかないんだから。しかも、今年は魔王に即位する年だってこと、すっかり忘れてたわ……」

「──そんな日に、まさか、電車に乗り遅れるとはな。さすが、クレイアだ」


 嫌味を言われて、私は隣のハイガルから視線を外す。


「うっさいわね……」

「ははは」


 他国からこちらに帰ってきて、南端の町のギルドにお世話になっていたとき、明日から、四月であることに気がついた。昔から、その月が何日まであるか、よく忘れてしまうのだ。


 そして、ユタの誕生日は四月の二日だった。魔王城は北端に位置しているため、移動するのに時間がかかる。そうして、すぐに、なけなしの所持金をはたいてここまで来たはいいけれど、


「セントヘレナまで来て、まさか、終電に乗り遅れるなんて……」

「しょーがないよ。ヒツジさんたちの大移動で遅れてたんだから」

「ヒツジさんじゃなくて、カルカルね」

「どっちでも一緒じゃんかー」


 カルカルはヒツジに似たモンスターだ。火、水、土、風の魔法を使うことができ、人を見るとすぐに襲ってくる。ちなみに、カルカルの毛で作ったポンチョなどは、高級品として扱われている。


 また、カルカルは群れで行動しているのだが、たまに、牧草を求めて大移動を行う。今回、それに巻き込まれたというわけだ。


 電車も吹き飛ばすくらいの勢いで、カルカルの群れは私たちが通っていた線路を横断していった。当然、電車の方が止まるしかなかったが、なにせ、カルカルたちは一列で移動するため、時間がかかった。


 とはいえ、隣の駅まで歩く体力はなかったし、カルカルの行進を遮って行けるとも思えなかったため、そのまま待つことにした。そして、乗り遅れた。


「はあ……。仕方ないわね。ギルドに泊まらせてもらいましょう」

「たまには、宿を借りたらどうだ?」

「今でさえ小学生料金で乗るのがやっとなのに、そんな余裕、どこにあるのよ?」


 駅を離れ、ふらふらとさ迷い歩く。


「盗む? 盗んじゃう?」

「いいえ。三日くらい、何も食べなくても──そういえば、今日が、三日目だったわね……はあ」


 近くに公園の水道を見つけて、私は無料の水をガブガブ飲んだ。


「はあ、生き返る……。ギルドは、どこにあるのかしら。聞いてみましょう」


 私は近くにいた人からギルドの場所を教えてもらう。すぐ近くだったので、私はお腹を鳴らしながら歩いて向かった。


「今日にはもう間に合わないけれど、仕方ないわ。明日の始発で向かいましょう」


 そうして、寝るつもりでギルドの机に顔を伏せると、隣のテーブルから、いい匂いが漂ってきた。──豚骨ラーメンの匂いだ。


「まな、何か食べたら?」

「あああたし、ダイエット中だから、全然、食べたいとか、おお思わないわよっよぉ」


 と言いながらも、ちらと、財布の中身を見る。ダメだ、ほぼゼロに近い。


「極限状態だな……本当に、何か食べた方がいいぞ」


 いい匂い、美味しそう。美味しそう。美味しそう。食べたい。食べたい。食べたい。お腹が空いた。死にそうだ。食べたい。食べたい。食べたい。食べたい。食べたい食べたい食べたい食べたい食べたい。


「ぁぁああああ……誰よ! こんな時間にラーメン食ってるやつは!」

「あはは。まな、ヤバい人だー!」


 私は思わず机を叩いて、隣の席を見る。隣の机に、ラーメンがある。手が届くところに、湯気の立つ、温かい、ラーメンがある。食べたい、食べたい……。


「ひひっ、一口だけ、く、くれない?」

「……え?」


 怪しまれないように、私は笑みを浮かべ、よだれを拭く。


「ほほ、本当に、本当に、一口でいいのよ……。一口、いえ、麺一本でもいいわ。なんなら、スープ一滴でも……」


 よだれが止まらない。食べたい。食べたい。ああ食べたい……。


「──いいですよ」

「本当に!?」

「はい。全部どうぞ」

「全部!? そ、そそ、そんなにも、もらう、うへへ……んん、わけには……」


 ダメだ。思わず笑みが漏れてしまう。うひひひひっ。


「よろしければ、別に何か頼みましょうか? しばらく何も食べていないようですし、急にラーメンは、胃腸に悪いかもしれません」

「い、いいの? で、でも、さすがに、じゅるっ、そこまでは……うひっ、た、食べられれば何でも……」

「うどんを一つ、こちらの方にお願いします」

「あいよっ」


 ギルドの食堂は、夜間限定で開かれていることが多い。だから、夜中でも営業している。代わりに昼の間はご飯が頼めないことに不満を感じたときもあったが、今だけは、猛烈に感謝している。


「ずずーっ」

「ゆっくり食べてくださいね。おかわりしてもいいですよ」


 私は無我夢中でがっついた。涙が出る美味しさだった。そして、うどんを四杯おかわりして、やっと、お腹が満たされた。


「はわわあぁ……ごちそうさま……」

「そんなに何も食べてないんですか?」

「ええ。前に食べたのは三日前だったかしら。まあ、今食べられて、こうして生きてるんだから、関係ないわよね。──それで、何かあたしに用事なんでしょ? 善意だけで食べさせてくれるほど、世の中甘くないってことくらい、さすがに知ってるわ」


 とはいえ、食べられるときには極限まで物を詰め込んでおく。生きるためには食べなくてはならないのだ。周りの目など気にしていられない。


 私はやっと、命の恩人の顔を見る余裕ができて、その顔を見上げる。艶やかな桃色の頭髪に、薄い黄色の瞳。高級そうな服を着て、きれいに着飾っている。スタイルがよく、すごく美人だ。息が止まりそうなくらいに。


 ただ、顔には涙の跡があって、目は赤くなっている。よく見ると、机の上にジョッキがたくさん並んでいた。──やけ酒だろうか。


「あんた、あたしの昔の知り合いに、なんとなく似てるわね」

「お久しぶりですね、まなさん」

「なんであたしの名前を? ……もしかして、人捜しの貼り紙を見たとか?」


 昔、魔王城から逃げ出したときも、魔王の姫が行方不明になったと、肝心な部分を隠しての大捜索が行われたようだが、その前になんとか人間の領土に逃げ込んだので、大規模な捜索の目からは逃れられた。


 だが、八年前、宿舎から逃げ出したときには、今度は魔族の国からも人間の国からも、追われる身となったのだ。追う方にしても、魔王の娘だという事実は隠していたようだが、それでも、女王と大賢者と魔王に追われるのだから、逃げ続けるのが大変だった。


 当然、すぐさま他国に亡命したが、大国ルスファの勢力を挙げての人捜しに国など関係ない。どこにいっても、自分の似顔絵を見つける生活というのはなかなかストレスだった。まゆとハイガルは、有名人だ、とか、サインを考えないと、とか言って励ましてくれたけれど。いや、楽しんでいただけかもしれない。


 結局、私を庇ってくれたのは、南のカルジャス王国くらいだった。カルジャスの王は変人で、富や名誉よりも、面白いかどうかを重視していた。そして、魔族だった。


 ルスファほど魔族と人間の関係がややこしい国は他にはないといっても過言ではないが、同じ魔族であったために、親近感が湧いたのかもしれない。


 とはいえ、ルスファに喧嘩を売るなど、自殺行為以外の何物でもないというのに、よく国にいることを許してくれたものだ。バレないようにひっそりと暮らしながら、なんとか帰りの飛行機代を貯めて帰ってきたわけだが。


 何が言いたいかというと、つまり、私のことは誰に知られていてもおかしくないということ。彼女もその類いかと思ったのだが、


「あなたのマナですよ。マナ・クラン・ゴールスファ。覚えていないんですか?」


 私は記憶をたどる。マナ……マナ。忘れるはずがない。あの、かわいいマナだ。


 しかし、どこか違う。もう少し、あどけなさが残っていたはずだ。


 私は首をひねって、考える。目の前の人物が、少しぶれて見える。くらくらする。


「まなさん、落ち着いてください。八年の間に私が、ただ、そこに居るだけで相手を殺せるくらいの美しさになったことは否定しませんが──」

「そこまでは言ってないわよ。完全に否定もできないけれど」


 その少し過剰なくらいの自意識を以て、私は過去に知り合った人物と、目の前の人物を、やっと一致させる。


「そう、なの。全然気づかなかったわ。そうよね、もう、八年経つのよね……」

「まなさんは、髪の毛が伸びましたね」

「え? ──言われてみれば、そうね。それも、全然、気づかなかったわ」

「それから、すんすん、すんすん……ちょっと、ささやかながら、少しばかり、臭いです」

「あー……お風呂に入るお金がなくて」

「一緒に入りましょうか」

「おごってくれるの?」

「図太いですね。もちろん、お金は出しますよ」


 特に、何も考えることなく、私はマナについていくことにした。

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