第4-27話 宿題を終わらせたい
呆然としていた。僕もマナも。目に狂気の光をたたえ、何度も何度も、ナイフでまゆみの名前を刻んでいるまなちゃんに。
僕は、止めることも忘れ、その真っ赤な血に釘付けになっていた。そして、マナに左腕を掴まれ、まなちゃんはナイフを取り上げられる。マナは血の滴る腕を掴み、
「まなさん。これは……なんですか?」
「あたしの、たった一人のお姉ちゃん。たった一人の家族。まゆみさえいれば、あたしには何もいらない」
その視線はどこも捉えてはいなかった。自分までいらないと言われたように感じたからか、マナの全身からは力が抜け、思わず、まなちゃんを解放してしまった。
彼女はナイフを拾い、血を滴らせながら、ふらふらと、部屋の外へと出ていった。
「マナ、大丈夫?」
「あれは、なんですか」
マナは何か、信じられないものを見たといった様子で、床についた、まだ新しい血液の染みを指でなぞる。まなちゃんの血液だからか、魔法で拭き取ることはできなかった。雑巾か何かで拭くしかないらしい。
「とにかく、あのままだと危険だよ。追いかけよう」
珍しく、動揺を前面に押し出したマナを支えながら、僕たちはまなちゃんの部屋へと歩いていく。部屋の扉は開け放されていた。
「あは、あははぁ……っ!」
部屋の真ん中で、まなちゃんは、まだ、腕に刻み続けていた。それが、楽しくて仕方ないといった様子で、目を見開いて、笑っていた。
マナは青い顔をして、手で口を押さえて、玄関に座り込んだ。止めなくてはと、そう思い、僕は一瞬、躊躇って、まなちゃんの左腕を掴む。
「あはっ? あかり、離して?」
腕を掴んだ手のひらから、ムカデが入れられたようだった。一匹のムカデが、皮膚の内側で増殖して、何匹ものムカデが全身をうじゃうじゃと這いずり回るような、気持ち悪さだった。それでも、僕は腕を離さなかった。そして、ナイフを取り上げた。
「返して……返してよっ! また、忘れちゃう……、まゆみ、まゆ……お姉ちゃん、お姉ちゃん、助けて! 嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ! 離してぇっ!」
子どものように泣きじゃくって、まなちゃんはなんとかナイフを取ろうともがく。体の動きに反応して、血液がどんどん流れていく。ずいぶん、顔色も悪い。相当気分が悪いだろうに、まなちゃんの目には、まゆみという少女のことしか映っていないらしい。
僕はなんとか動きを止めようと、一度、マナの方を見てから、まなちゃんを腕ごと後ろから抱きしめて拘束する。全身が震えて、狂いそうなほど、頭が恐怖に支配されていた。しかし、記憶を一つ、バクに渡したからか、まなちゃんに慣れたからか、この光景の異常性に飲まれているからか、いつもより、少しはましだった。それでも、ところどころ、全身が意思とは関係なくびくっと震えて、その度に、自分を落ち着かせるのがやっとだった。
「お姉ちゃん……?」
やっと、まなちゃんが落ち着いてきたと思ったら、今度は何もない空間に向けて、語り始めた。それは、今にして思えば、それは、出会ったときからよく見かけていた光景だった。蜂歌祭で、穴に落ちそうになっていたときとよく似ていたが、まったく違うものだということは、すぐに分かった。
「お姉ちゃん、今まで、どこにいたの? すごく、心配したのよ?」
まなちゃんは、先ほどまでとは違い、しっかりと話していた。目も、空中の一点を捉えていた。
──でも。その先に、まゆみなんて少女はいなかった。誰もいなかった。何もないのに、赤い瞳からは、涙が零れる。
「あかり、離して」
「──」
「……あかり? どうしたの?」
すでに、思考は限界で、込み上げる酸っぱい胃液をなんとか、胃に戻して。脳が溶けてぐちゃぐちゃになりそうだった。それでも、僕は、その腕を離さなかった。
──僕は知っていた。まなちゃんと、まゆみという少女が逃げ出したあの日から、数日後。
感覚のない体。重力を感じず、一度跳んだら、戻ってこられないような溢れんばかりの不安。何も触れない。空腹すらない。何も食べられない。何も感じない。そして、まなちゃん以外の誰からも、見えない。まなちゃんに忘れられたら、きっと、世界のどこからも消えてしまう。そんな、大きな不安に押し潰されて。耐えかねて。
──まゆみは、底の見えない谷へと飛び込み、自殺したのだ。
「ねえ、何かあったの?」
僕は、まなちゃんを風呂場へと運び、シャワーで腕を洗い流す。
「いたっ……」
「じっとしてて」
無数の傷が腕に刻まれていた。まゆみ。全部、そう書かれていた。チアリターナがこの傷を治した気持ちがよく分かる。事情を知らなかったとしても、この傷は、あまりにも痛々しくて、見ていられない。
僕は、まなちゃんの腕に包帯を巻いた。まなちゃんは、何をされているのか、いまいち、よく分かっていないようだった。いや、きっと、考えないようにしていたのだ。考えればすぐに気がついてしまうから。まゆみという少女が、もうこの世のどこにも存在しないということに。
まなちゃんを解放し、僕はマナの元へと歩み寄る。
「マナ、大丈夫?」
「──説明していただけますか?」
僕はうなずいて、マナの手を取り、引き上げる。
「お姉ちゃん、どこ行ってたの? ──本当にお姉ちゃんって、お姉ちゃんよね。あははっ。でも、本当に心配したんだから。どこかに行っちゃったんじゃないかと思って。──うん、そうよね。お姉ちゃんがどこかに行くわけないわよね」
きっともう、自棄を起こすことは、ないだろう。
僕は、本当に楽しそうな、まなちゃんの声だけが響く部屋を後にして、そっと扉を閉めた。
笑い声は、日が暮れても続いていた。
***
カルジャス行きは、なしになり、バイトは断り、断れない分はハイガルに代わってもらった。
そうして、私に残されたのは、悠久にも思われる時間だけだった。
「まな、遊ばないの?」
「遊ぶ暇はないわ。──早く、お姉ちゃんを治さないといけないから」
まゆが誰にも認識されない存在であるということを、私は思い出したのだ。何がきっかけだったかは、忘れてしまったが。
まゆは腕の痛みがないと、簡単に忘れてしまう。紙や皮膚にペンで書いたところで、すぐに消えてしまうので、刻むしかない。
──私がまゆを、こんな風にしてしまったのだ。だから、なんとしてでも、治さなくては。
願いの魔法があるのだから、まゆを治してと願えばいいではないかと。そんな風に考えたこともあるが、治すという言葉の定義が曖昧だ。まゆが何かしらの病気にかかっていた場合、全く無関係の何かが治るという可能性もある。
「お姉ちゃんを救って、とかは?」
「うーん。って感じ」
「そう。……チャンスは一回しかないんだから、確実に戻せるような願いを考えないと。魔法で治るなら、それに越したことはないけれど」
「まあまあ、難しいことはいーじゃん」
「良くないわよ。ていうか、お姉ちゃんのことなんだから、お姉ちゃんも、もう少し真剣に考えてくれる?」
「私は、トンビアイスさえあれば、このままでもいいかなー。食べたことないけどねー」
「……そうよね。お姉ちゃんは何も食べられないものね」
「まなはいつも二本買ってくれるよね。ありがとー」
まゆはにへらと笑った。出会ったときは夕焼け空のような桃色だった髪も、拷問のストレスですっかり白くなってしまった。そのときのことがあったからか、何かしらの力が働いているからか、まゆの見た目は、まゆが十才のときのままだ。
そのとき、扉がノックされた。
「まなちゃーん、暇でしょ? 入るよー」
「鬱陶しいのが来たわね……」
南京錠などなかったかのように、扉が開けられる。せめて、鍵を閉めるまでやってほしいところだ。
「お邪魔しまーす」
「おはよう……ございます」
あかりとマナが朝から勉強道具を持ってやってきた。マナはまだ半分くらい寝ている顔だ。
「あんたたち、もう来たの?」
まだ、午前十時。マナは起きたばかりだろうか。靴を脱ぎ、私にもたれ掛かってきた。目が閉じている。
「早く宿題終わらせて、後半はどこかに泊まりに行こうと思って!」
「へー。せいぜい頑張るのね」
「まなさんも行きますよね?」
「行かないわよ」
「予定もないのにですか?」
「予定ならあるわよ。勉強っていう大事な予定がね」
マナは床に寝転がって、うだうだと揺れながら、
「まなさんの水着が見たいですー。まなさんといちゃいちゃしたいですー。海で追いかけっこしたりー、砂でお城作ったりー、水かけあったりー、ビーチバレーしたりー」
と、指折りやりたいことを数え始めた。そういうのは、あかりとやってくれ。第一、腕に傷があるのだから、水着なんて肌が出るものは着られない、とは言わないけれど。
「あんた、マナを部屋に連れて来るのはいいけど、しっかり目を覚まさせてから来なさいよ……」
「いやー、マナがさ? どうしてもまなちゃんの顔が見たいって、おねだりしてくるから、連れて来ちゃったっ」
「はあ……」
「まなー、眉間にシワ寄ってるよー?」
「伸ばすわ」
眉間のシワを伸ばしていると、肩にマナの頭をのせられた。
「すやあ」
「あんたって、どこでも寝るのね……」
起こす気にもなれない、困った寝顔だ。仕方ないので、私はマナを肩にのせたまま、宿題に取りかかる。
「まなちゃん、宿題どのくらい終わった?」
「今日で全部終わらせる予定だけど?」
「夏休み昨日始まったばっかじゃなかったっけ!?」
「あんたの補習と追試と課題を手伝わないといけないから、こうして急いでやってるんでしょ」
「読書感想文は?」
「あんなの、宿題になるって分かってるんだから、とっくの昔に終わらせたわ」
「いやー、やっぱり賢いねえ」
「口より先に手を動かしなさい。社会のワークでもやったら?」
「いやあ、僕、勉強してると、頭痛くなってくるんだよねえ……」
「それでも、やるのよ」
「はいはい」
途中、マナを床に寝かせたりしたが、起きあがりこぼしのように戻ってきたので、諦めた。
昼食を適当に済ませ、午後からも勉強していると、扉がノックされた。
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