第0-4話 砂糖
それからしばらく、何もする気が起きなくて、また天井を見上げる日々が続いた。ふと、窓が目に入ると、それが怖くて、私は体を背けて縮こまり、一人で震えた。
「まな様、お食事のお時間です」
「ああ……ありがとう」
それは、最初に私が味覚を知りたいと言ったとき、止めた方がいいと言った、青いダイヤの女性だった。今日は月曜日らしい。
私はゆっくり起き上がって、ピンクのうっすら甘いドロドロした液体を食べる。しっかり三十回噛むよう言われているので、仕方なく噛んで飲み込む。
「──あんたの言う通りだったわ。味覚なんて、知ろうとしなければよかった。そうすれば、あの人たちを信じたりしなかったのに」
私は、私が持つ本の中で、唯一、夢を叶えることを諦めた登場人物の話し方を真似てみた。それが、どうにもしっくり来て、きっと、私も諦めるべきなのだと、そう思った。
私は何かを望める立場になかった。誰からも愛されていなかった。それどころか、憎まれてすらいた。
「あんたたちにとっては、どうか知らないけれど、あたしには、外の世界が、すごく、輝いて見えるのよ。私の知らないことがたくさんあって、すごく、魅力的だった。でも、もう、諦めることにしたわ」
私は静かな部屋で、回数を数えながら、しっかりと噛む。
どうせ、私が話したところで、誰も何も思わない。私がいてもいなくても、世界はたいして変わらない。返事を返してくれたのは、同情や狂信、ただの機械的な対応。誰も私に言葉をくれたわけではない。信じていても、こうして裏切られる。
すべて、私が悪いのだ。白髪で赤目で女で魔族だから。だから、外には出られない。だから、誰にも愛されない。みんなそう思っているのだから、それが正しい。悪いのは私だ。
「諦めてしまうんですか?」
「ええ。どうせ、外の世界に出ても、裏切られるだけだわ。誰も助けてくれないし、きっと、今よりも辛いことだって、あるんでしょうね。──だから、物語は、諦めなければ叶うのね。現実では叶わないから。そうなんでしょ?」
「その通りです」
それから、女性はぽつりと、呟いた。
「日曜日の担当に、同じ話をしてみてください」
「日曜日? ……ああ、あのカタコトの若い女ね。でも、なんで?」
「──三十回、噛んでください」
私は今しがた、液体をそのまま飲み込んだことを思いだし、それから、噛むことに集中した。
六日後の日曜日。私のところにやって来たのは、緑髪のカタコトの女性だった。
「オ食事、オ持チシマシタ!」
また、ピンクの液体だ。もう飽きた。うんざりだ。上から下まで全部甘い。それがジョッキ一杯出されて、全部飲めと言われるのだ。毎日毎日、味は変わらない。
「味覚なんて、知ろうとしなければよかったわ」
「オットット? オ礼、忘レテマスヨ?」
「ああ、そうね、ありがとう」
「イヤン! 照レマス! 止メテクダサイヨ!」
「どっちなのよ」
私は鼻で笑って、食事を口に含み、よく噛んで食べる。
「傷ハ、ドウデスカ?」
「は? ……ああ、これね。まあ、大丈夫よ。じきに治るわ」
「ゴ飯、オイシイデスカ?」
「美味しくはないわね」
「ダッショーネ! あはは!」
不愉快に笑う緑髪から意識を外し、私はまた、三十回噛んで、飲み込む。
「外に出るのを、諦めようと思うの。……外に出るって話は、してたかしら?」
「ハイ、シテマシタ。諦メル、デスカ?」
「ええ。みんな、あたしを外に出したくないって、そう思ってるから。あたしのせいで、みんなを困らせるわけにはいかないわ」
「ミンナッテ、ダレデスカ?」
「青髪と緑茶とワサビと梅干し、それから、ローウェル。昨日のダイヤの人は知らないけれど」
五人もいれば十分だろう。私が関わるほぼすべての魔族が、私が外に出ないことを望んでいるのだ。きっと、私は外に出ない方がいい。それが正しい。秩序を保つために、私はここにいた方がいいのだ。
「アタシハ、ソウハ思イマセン。ミンナ、外二出テホシイ、思ッテマス」
「嘘よ。だって、みんな助けてくれなかった。きっと、あたしのことが嫌いなんだわ」
「アタシハ、マナガ、好キデスヨ?」
「信じない。──もう、誰も信じない。期待もしない。あたしは、一人で、この狭い檻の中で生きるしかないのよ。あたしが悪いの。全部、あたしのせいなの。どうすればいいか分からないから、あたしが悪いの」
なんとか、最後まで飲み終わって、私は水を飲み、甘ったるさを流した。
すると、緑髪は私をそっと抱きしめて、頭を撫で始めた。
「何?」
「……ソンナニ寂シイコト、言ワナイデクダサイ」
「寂しい?」
「ハイ、寂シイデス」
別に、寂しくなどない。ただ、やっと事実に気がついたというだけだ。どうすればいいか分からない。聞いても答えてもらえない。誰も助けてくれない。それが、本当の世界だ。
それでも、知りたい。私はまだ、外の世界を知りたいと思っていた。それが、一番、怖かった。
「どうして、あたしは、外に出ちゃいけないの? やっぱり、あたしが悪いから?」
「マナハ悪クナイデス! 外、情報一杯デス。ソノ中二、マナ二知ラレタクナイコト、タクサンアリマス」
「辞書で塗りつぶされてたとことか、あたしが魔王の娘とか、世界の秩序とか、そういう話?」
「オオ! ヨク知ッテマース! 偉イデスネー!」
そうして、頭を撫でられる。なんとなく、嬉しい。
「約束だから、誰から聞いたかは言わないけれど。多分あたしは、お父さんのせいでここから出られないのよね?」
「……アタシ、ヨク分カリマセン。デモ、れな、言イマシタ」
「れな? 誰それ?」
「マナノ、オ姉サンデース!」
「あたしに、お姉ちゃんがいるの?」
「ハイ! マナ、兄弟、タクサン、イマース! ヒャクニンクライ……デショウカ?」
「百人!?」
私は驚いて、思わず叫ぶ。緑髪は、構わず続ける。
「オ父サン恨ム、間違ッテマス。恨ムベキハ、国ノ歴史デース」
「歴史……ね。でも、歴史の本って、一冊もないのよね。どうせ、隠したいこととやらが含まれてるんでしょ」
「ソノトーリ!」
「ザッツライトとかじゃないのね……」
絶対に、彼女はすらすら話せると思う。わざとらしいカタコトだからだ。
「コノ本読ム、マナ、イツカ、コノ国ノ歪ミ、知ル、デス」
「ふーん……」
そうして、私は差し出された本を受けとる。それは、絵本だった。表紙には、魔族と人間と書かれていた。
「ソノ本、書カレタコト、注意必要デース」
「なんで?」
「魔族ノ考エ、押シツケル、ダカラデス」
「どういうこと?」
「人間、ワルイクナイ、デス。分カリマスカ?」
「……人間?」
「アナタ、角、尻尾アリマース。ソレ、魔族、証拠デス」
私の頭には角がついていて、背中からは、先の尖った尻尾が生えている。当たり前だと思っていたから、気にしたこともなかったけれど。
「でも、あんたにはついてないわね?」
「アタシモ、魔族デース。デモ、角ト尻尾ハ、練習スレバ、隠セマース」
「へー……。初めて知ったわ」
それから、緑髪は私を離して、ポケットから、赤い石のようなものを取り出した。
「何それ?」
「アメデース! ナメテクダサーイ。噛ムノト、飲ミ込ムノハ、ダメデース。イイデスカ?」
「……ふーん、食べ物なのね」
私はそれを口に放り込まれる。下の中で転がすと、いつもの嫌な甘さではない、幸せな甘さを感じた。
「美味しい……」
「ソレガ、本当ノ甘イデス。イツモノハ、薬ノ甘サデス。アンナノハ、甘イトハ言イマセン」
少しずつ、小さくなっていく。口の中で溶かされて、小さくなっていく。
「ナクナリマシタカ?」
「……うん」
少しだけ、名残惜しく感じた。
「世界、モット、オイシイモノ、イッパイアリマス」
きっとそうなのだろう。私が知らないだけで、世の中には塩や飴よりも美味しいものがたくさんあるに違いない。
──やっぱり、私は、外の世界が見たい。
「オットット。ソロソロ、帰リマース。頑張ッテ!」
「ええ、ありがとう」
その次の週から、緑髪は姿を見せなくなった。
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