第3-14話 諦めさせたい
「──これ、起きんか」
その声に引かれるようにして、私は意識を取り戻す。ずいぶんと、可愛い声だなと思いつつ、私は痛む頭を押さえ、辺りを見渡す。
岩でできた洞窟。触り心地のよい暖かい毛布。──いや、その組み合わせは、おかしい。
私は振り向かないようにしながら、目を何度か瞬きして、ゆっくりと状況を思い出し、なんとなく、理解した。
「ギルデは?」
「元気じゃぞ。気は失っておるがな」
「そう。……あたし、振り向いても正気でいられそう?」
「妾はそんなに怖い顔つきはしておらぬ」
「でも、大きいでしょ?」
「図体のデカさは種族の違いじゃから、仕方ないじゃろ。猫や犬も人になつく。──人もドラゴンと仲良くできる。そうは思わんか?」
「その言葉、信じるわよ」
私は極上の触り心地を持った毛布を引きはがし、思いきって振り返る。
「これが、ドラゴン──」
白銀の鱗に覆われた巨大な体躯。シルクのように真っ白な二本の角は、決して手を届かせることのできない場所にあり、磨き抜かれたような輝きを放っている。背中に生えた二本の翼も銀。今は畳まれている。大きな瞳だけが、澄んだ水鏡のような、青色だった。
「綺麗……」
「そうじゃろう、そうじゃろう。妾はこの世で最も美しいドラゴンじゃからな」
「謙虚じゃないから、マイナス百点」
「事実を言ったまでじゃ!」
「見上げながら話すの疲れるんだけど、なんとかならない?」
「そう思うなら、そちが大きくなればいいであろう」
「なれないし、なれてもならないわね。……まあ、このままでいいわ」
私は毛布と勘違いした、ふわふわの尻尾の中に身を戻す。
「おやすみ」
「寝る子は育つと言うしの……って、妾は毛布ではないわ! 何のために妾がそちを起こしてやったと思っておるのじゃ!」
あまりにも触り心地がいいので、出たくないのだが、ここにいては本当に寝てしまいそうになるので、致し方ないと、私は毛布から出る。
「あたし、どうなったの?」
「ずいぶんと、失血しておったからのう。妾が傷を塞いでやった」
私は咄嗟に右腕を掴む。──大丈夫だ。今のところは。
「あたしに魔法は効かないけど?」
「ドラゴンだけが使える力があるのじゃ。そちには魔法は効かぬが、妾なら治すことは容易い」
いよいよ、私の唯一の長所まで奪われてしまった。謎の力にやられる可能性があるとは、なんと恐ろしい世の中だろう。
「それで、何のためにあたしは、こんなところに連れて来られたわけ? 返答次第では、あんたが誘拐したことにするわよ。今後、あんたに社会的地位はないと思いなさい」
「生き殺しにされる!? わ、妾は、そちを助けただけじゃ! それも、そちの姉に頼まれて──あ。これは、言ってはならんのじゃったな……」
「馬鹿なの?」
適当に、クマが助けを求めて運んできたとか、そういう言い訳をすればいいものを。まあ、クマがそこまで賢いとは思えないけれど。
とはいえ、姉、と言われても、顔も見たことがない兄弟姉妹が、私には何人もいる。その中から一人を特定するのは非常に難しい。
「姉って、誰のこと?」
「言わぬ。そちに誘拐されたと騒がれるよりも恐ろしいからの。──そちと、そちの連れをこの洞窟に連れてくるように命じられたんじゃ」
「連れてきてどうするわけ? 食べるの?」
「妾は人肉は食わん。人と仲良くしたいと言うたじゃろ」
「じゃあ、何?」
チアリターナは黙って私の顔を見つめる。その表情には、憂いのようなものが感じられた。ドラゴンの表情など、初めて見たけれど。
「チア草はな、もう、この山に生えていないのじゃ」
「……どういうこと?」
「確かに、かつて、この山の頂上には、チア草が生えておった。それがあれば、どんな病気でも治せた。──だからこそ、人々はチア草をすべて抜き、市場に出した。天然のチア草は、もうどこにも生えてはおらぬ」
「でも、一本くらい──」
「ない。もう、残っておらんのじゃよ。燃えるより以前からな。──ここは、妾の作った山じゃ。妾が一番よく知っておる」
「じゃあ、どうしろって言うのよ? 病名を聞いたところで、あたしは医者じゃないから分からないし。お金も、そんなに持ってないし──」
「諦めよ」
その一言に、私は頬を叩かれ、夢から無理やりに起こされたような衝撃を受けた。私の言葉を待たずに、チアリターナは続ける。
「世の中には、どうにもならんことというものがある。それに立ち向かっていくのは、所詮、無駄なことじゃ。そんな時間があるなら、他のことをする方がよっぽど賢い」
「無駄……?」
「ああ、無駄じゃ。だから、諦めよ」
怒りに任せて叫びだそうとする私を、冷静な青い瞳が鎮める。私は視線だけで口を塞がれ、叫ぶ代わりに、眉間のシワを伸ばした。
「……人の命がかかってるわ。そんな簡単に──」
「そちは、この世で死にゆく人、すべてを救おうとするのか? 救えるのか? ──そんなことは、無理じゃ。人なんぞ、簡単に死ぬ。幸い、そちは、どうにもならないと分かっておるではないか。ドラゴンである妾が無理と言っておるのじゃ。何がどうなろうとも、決して救うことはできまい」
その言葉を、疑うことができなかった。少しも嘘だと思えなかった。もう、どうにもならないのだと、本能で理解してしまった。
「それでも……」
「それでも、そちは、無駄なことをし続ける、と? 割れた皿を新しいものに買い換えるのではなく、テープと接着剤でくっつけると申すのか?」
「人の命は、そんなに軽いものじゃないわ」
「軽くはない。ただ、同じくらい、脆いということじゃ」
私はただ、諦めたくないだけだった。救いたいのではなく、諦めるのが嫌なだけだった。それは、十分、自覚していた。だから、諦められない自分がすごく、嫌だった。
「それに、そちは、救う手立てを、持っておるではないか? のう?」
私は目を見開き、チアリターナを見上げる。なぜ──、
「なぜ、知っておるのか。それは、妾が全知全能のドラゴンだからじゃ」
そう、私は、確実に、母を救うことのできる方法を一つ知っていた。──願いだ。私が心から望めば、一度だけ、願いが叶う。だが、
「……それは、できないわ。絶対に」
「じゃろうな。だから、救うことはできんのじゃよ」
「……」
「一生に一つ、自分以外のものを守りきることができれば、まだいい方じゃ。人一人の器なんぞ、最初からその程度。身の丈に合わぬものを求めるでない。そのうちに、痛い目を見るぞ」
「……痛い思いをするのがあたし一人なら、別に構わないわ」
チアリターナは瞑目し、すっかり、説得する気をなくした様子で告げる。
「これ以上は、何を言っても無駄じゃろうな。……そこから出て、右に道を真っ直ぐ下っていけば、麓に降りられる」
「山頂に向かいたいんだけど?」
「妾が懇切丁寧に教えてやる必要はない。──ちなみに、山は全焼した」
それきり、私とチアリターナとの間に、会話はなかった。ギルデを起こして外に出ると、辺りはすっかり明るくなっていた。
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