第29話 白昼夢
「なるほど、『未完成』……ですか。まあ、紆余曲折ぶりはしっくり来ますね。なるほどねえ……ふむ……」
後を追ってきたノエルは、第一楽章が終わって花が沈黙したあと、大きくため息をついた。こぶしを顎に当て、喉の奥で低く唸る。そのわりに、表情は穏やかだった。
「ジリアン、今のはきみの魔術ですか? それとも私の音楽が……?」
「魔術ではありません。ノエルと僕の魔法です。たぶん、音楽の魔法がブースターとして働いたんじゃないでしょうか。何度か試せば、安定すると思います」
「じゃあ、これは新種ではないんですね」
「違います。魔法による一時的なものですから」
わかりました、と頷いたノエルは一歩下がって、すっかり整頓された納屋を見回した。
「ありがとう、ジリアン。きみの魔法が安定したら、お願いしたいことがあります。歌う花を花束にして、人に送りたいのです。無理そうなら鉢のままでも構いません」
「はい、もちろん。先方に届いてから歌うかたちで良いですか」
「ええ。これからもここで花の面倒を見てもらえますか。引退宣言ののち、大慌てて逃げ出したものですから、不義理にしている方がたくさんいましてね。遅くなりましたが、もっと遅くなるよりはいいでしょう? 私は大丈夫ですよと……大丈夫になりましたと伝えたいんです」
「わかりました。お手伝いします」
それから、とノエルは居ずまいを正して続けた。
「書斎にある音源は、自由に聴いてください。それがきみの魔法の助けになるなら」
「ありがとうございます。でも……急に言われても、何を聴けばいいのかわかりません。おすすめはありますか? 僕みたいな初心者にも聴きやすい、難しくないのをいくつか教えてください。それと……あの、できれば、ノエルのピアノを聴いてみたいです。せっかく調律師さんが来てくださっているのに勿体ないし」
「えっ! いや、その、もちろん構いませんが、ずっと練習をさぼっていましたし……指が動くかどうか」
「リクエストがあるんです。モーツァルトのピアノソナタ11番」
むむう、とまたノエルは唸ったが、すぐに両手を挙げた。
「わかりました。でも、練習させてください。私にだってプライドがあります。弾くとなればそれなりに弾きたいですからね……」
チェスといいこの姿勢といい、ノエルはずいぶんと負けず嫌いのようだ。
待ちます、とジリアンは笑った。
「やあ、ジリアン。すっかり元気になったね。良かったよ、歌う花の魔法と、ノエルがピアノを弾いてくれたこと」
「うん。相談に乗ってくれたからだよ、ありがとうね」
「水くさいな。僕たちは双子だ。喜びも悲しみもおいしいドーナツも、はんぶんこだろ。そういや今日はスカートなんだ。何年ぶりだっけ?」
「さあ。でもね、最近のタイツはすごくあったかい。科学技術の勝利だ。きみも穿いてみるといいよ、きっとびっくりする」
「ふふ。……もう大丈夫だね、ジリアン。よかった。本当に良かった。これから何があっても、きっと大丈夫。きみなら……僕たちなら」
ルシアンはいつものくるみ割り人形の格好ではなく、シャツにジップアップパーカー、細身のデニムというラフな格好で、自分と同じ顔、同じ背格好であるのが信じられないほど似合っていた。
今日の空想の舞台は音楽の世界ではなく、アイアソン家のレッスン室だ。いつになく必死の形相でピアノを弾くノエルを、ルシアンと並んで見つめている。ジリアンがあちらに出向くのではなく、ルシアンをこちらに招いたのは初めてだった。
モーツァルトのピアノソナタ第11番。
第一楽章の、有名な主題が変奏によって色やかたち、印象を違えてゆくさまがジリアンは好きだった。神々しく思えることさえあった。有名すぎて、好きな曲だと口にするには抵抗があったが、ノエルは少しも笑わなかった。
第二楽章のメヌエット、そして第三楽章の「トルコ行進曲」。ルシアンの指がリズムを取る。何もかもが満たされた、すてきな時間だった。
これが魔法だとしても、白昼夢だとしても、満ち足りた気持ちに変わりはない。
「ありがとう、ルシアン」
ジリアンは呟いてブローチに触れ、双子の魔法を閉じる。ルシアンはやはり、自分と同じ顔で微笑んでいた。
演奏を終えたノエルに心からの拍手を送る。かれは汗びっしょりで、それでもきれいに一礼してから、ふふん、と胸を張った。
「素晴らしかったです、ノエル。ありがとうございます。あの、図々しいんですけど、もうひとつお願いがあって」
「なんです、別のリクエストですか?」
「いえ、チェスを教えてほしいんです」
もちろんですとも。どん、と胸を叩くノエルもまた、大丈夫だろうと思えた。
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