第15話 オルゴール
「そうです。……やっぱり有名なんですね。僕、ぜんぜん疎くて、どんなひとなのかも知らないのに、ハウスキーパーの求人に応募してしまって」
バンダナを解いて鳥の巣を風に晒し、ディディエは苦笑した。シャツの袖からのぞく手首はジリアンよりずっと白い。雪のように。
「まあ、興味のない分野のことなんてそんなもんでしょう。おれだって特別に音楽が好きとか楽器ができるとかじゃないけど、昔、友だちの家で見かけた『くるみ割り人形』のオルゴールがすっごく好きでさ。音楽に合わせて人形やら妖精やらが踊るやつ。何回も何回も、呆れられるくらい聴いたのを覚えてる。そんなとき、課外授業だか特別授業だかで、学校にマエストロが来たんだ」
勇ましいフレーズをディディエが口ずさむ。聴いたことのあるメロディだった。
「授業の内容はこれっぽっちも覚えてないけど、なんでかマエストロが『くるみ割り人形』を振ったんだよね。もう、全身に鳥肌がたったよ。マエストロは引退しちゃったけど、きっと音楽に囲まれた生活なんだろうな。いいな、お姉さんが羨ましいよ」
そうではないと伝えるべきか、しばし悩んだ。雇用主の個人情報を外部に漏らすのはいかにもまずい、気がする。彼は一瞬の躊躇に気づいたらしかった。眉を寄せて、違うの、と囁く。
「理由がおありのようで、レコードやCDをかけてはいけないと言われました。楽器に触れていらっしゃるのを見たこともありません」
「そうかあ……」
アイアソン家のテレビもラジオも沈黙を保っている。作り付けの整理棚にはCDやレコードがきっちりと並べられているし、ピアノの調律は万全で、再生機器はぴかぴかだけれど、あの家を音楽が満たすことはないのだった。
――そのくせ、歌う花を作ると言う。
このちぐはぐさこそが、歌う花づくりの動機なのかもしれない。それを明らかにしたいわけではないが、ノエル自身が気づいているかどうかは重要な分岐点である気がした。
初めて出会った夜と同じく、ディディエは決して無遠慮に近づいてはこなかった。何があったのか、誰のせいなのか。無遠慮な質問を投げない彼にひどく安心する。
ノエルに対してもそうだ。初めてかれの住まいを訪れた日、呼び鈴に応じて現れたかれは、ジリアンのベリーショートの髪にも、ボタンダウンのシャツにオーバーサイズのカーディガン、デニムとスニーカーの出で立ちにも、何も言わなかった。
用意していた言い訳を捨ててしまえるまでにはしばしの時間が必要だったけれども、不要になった言葉さえ安心感に繋がった。
「おれは特に熱心なファンってわけじゃないけど、マエストロが音楽をやめてしまっても、あのひとの影響はなくなりはしないよ。おれのドーナツのいくらかだって、間違いなくマエストロの音楽でできてるんだし、いろんな人にいろんなものを残したはずだ」
「……そう、でしょうか」
「もちろん。音楽の有無でマエストロの本質は変わらないし、誰かが音楽をやめたって音楽が滅びるわけでもない。ドーナツの穴だってちゃんとドーナツだろ」
ノエルの音楽が含まれるドーナツを食べたのだから、きっとジリアンにもノエルの音楽は宿っている。息づいている。
見えず、聞こえず、触れられなくとも、在るのだ。
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