第4話 琴

 いったいなにが琴線に触れたのか、ジリアンにとってアイアソン家は、あるいはノエルとの新しい暮らしは、ひどく穏やかで落ち着くものだった。課題に追われる慌ただしさや、眠る時間さえ惜しまれる焦燥、冷ややかに首筋を撫でてゆく比較と選別の目がないだけで心はずいぶんと凪いでいる。

 講義の合間にアルバイトを挟みながら、研究室に顔を出す。誘われて外食し、時には人数合わせのパーティーに呼ばれ、終電で寮に帰ってから、資料とウェブサイトを見比べてレポートを仕上げる。ひどい生活だった。

 気の乗らぬ付き合いと、それに伴う気持ちの摩耗がなくなり、規則正しいノエルの生活に合わせて寝起きする習慣が身につくと、薬なしで眠れるようになった。紙や砂を噛むようだった食事に味が戻り、下着がきつくなった。

 ジリアンの休みはあってないようなものだ。街まで買い物に行きたいのだがと相談すると、かれは快く頷いた。

「たまには息抜きも必要ですよ。ゆっくり羽を伸ばしていらっしゃい。帰りは駅まで迎えに行きますから、遠慮せず電話をくださいね」

 食事の用意くらい自分でできるとノエルは言い張ったけれども、ジリアンは大鍋に白菜のシチューを作り、じゃが芋とマッシュルームのオープンオムレツ、鱈のフリッターを用意して朝のバスに乗った。

 このあたりの住民はどこへ行くにも自家用車を使うから、バスの乗客は学生が多い。明るい顔でスマートフォン越しのやりとりに夢中の者もいれば、表情のないまま車窓の向こうに視線を投げている者もいて、そのどちらも感傷には遠い。

 ほんのひと月ほど前まで学生だったのに、その頃の生活には靄がかかったようで、細部を思い出すのは難しかった。そのままにしておこう、とジリアンは手元のスマートフォンに目を落とす。

 バスでターミナル駅に出て、そこから一時間ほど特急列車に揺られれば、そこそこ大きな街に着く。大学生だった頃は最果ての田舎町だと思っていたが、改めて地図を見れば目が眩むような大都市だ。百貨店、あらゆるブランドの路面店、行列必至と噂のカフェやベーカリー、ショコラティエ。

 心の安らぎだった大型書店でさえ、我先にと客の目を奪うセールスの場に思えて息が詰まる。百貨店の売り場も量販店の広告も、けばけばしい売り文句と鋭いナイフを突きつけてくるよう。

 休息を求めて立ち寄ったカフェのオープンテラスで、同年代らしき男性のグループに声をかけられたのは覚えている。やめてください、と言ったのも。どうやって逃げたのか、帰路についたのかはあやふやで、けれども気づけば見慣れたロータリー脇のベンチで頭を抱えていた。

 あのぐちゃぐちゃな状態で電車に乗れたことが信じられない。何とか買い求めた新しい服も、ノエルへのお土産もちゃんとある。財布も、スマートフォンも。

「お兄さん、大丈夫? 具合悪いの? 救急車呼ぼうか?」

 のろのろと頭を上げる。フランネルのシャツにツバメのブローチ、濃色のカフェエプロン。終バスが行ってしまって人気がないのにほの明るい、薄っぺらな夜にあってなお柔らかい声の主は、鳥の巣みたくあちこちが跳ねた白い髪の青年だった。

「あれ、もしかしてお姉さんだった? まあ何でもいいや、大丈夫? 酔っ払い?」

「酔っては……ないです。気分が悪いだけで、あ、でも、もう大丈夫です。たぶん」

「たぶんって」

 青年はロータリーの信号の向こうに佇むキッチンカーを指した。

「おれ、ドーナツ屋さんなんだけど、何かあったかいもの飲む? コーヒーでも紅茶でも牛乳でも白湯でも、だいたいなんでもあるよ」

「ドーナツ屋、さん」

 ずいぶん遅い時間のはずだが、客は来るのだろうか。訝るジリアンに、あのキッチンカーであちこちを巡り、公園やらイベント会場やら駅前やらでドーナツを売るんだ、と彼は語った。三十分後に終電が来るからそれまでは営業中、とも。

「ずいぶん長いことうずくまってたから、病気かと思って」

「……ありがとう、大丈夫です。ほんとうに大丈夫ですから、お気遣いなく」

「そう? ならいいんだけど。気をつけてね」

 食い下がらずに去ってくれたので胸を撫で下ろし、電話をかけた。遅くなってすみません、と。すぐに行きますと応じたノエルが、電話を切って五分ほどでロータリーに現れたのでジリアンは仰天した。

「遅いから、何かあったのかと心配で、近くまで来ていたんですよ。疲れたでしょう、さ、乗ってください」

「……あ、ちょっと待ってください」

 ジリアンは白っぽいキッチンカーに駆けた。青年が目を丸くしている。

「あの、おすすめのを、ふたつください」

「じゃあ、これかな。こっちはシナモン、こっちはレモングレーズ。それから……お姉さんが大丈夫で良かった記念に、おまけしとくね。ドーナツの穴」

 プラスチックカップにはころんと丸いドーナツが詰められている。生地をリング型に抜いた残りらしい。

「……ありがとうございます、ドーナツ屋さん」

「間違っちゃいないけどさ、その呼び方はないよ」

 ドーナツ屋さんは【DD's DOUGHNUT】のロゴを指してディディエと名乗り、からりと笑った。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る