第2話 吐息

 ノエルはひとりで暮らしているようだった。住まいは「屋敷」でも「邸宅」でもないが、寝室より広い一室に艶やかなグランドピアノが鎮座しており、書斎に楽譜や音楽理論の本、レコード・プレイヤーが並んでいるあたりが音楽家らしい。

 それにしても独居するにはずいぶん大きい家だ。だからこそ一階の陽当たりの良い角部屋を与えられたのだろうが、雇われているのはジリアンのみとあって、ずいぶん掃除のし甲斐がありそうだった。

 職と給金と寝床を提供してくれるのだから、ある程度の不本意なら我慢するつもりだし、かれが運転士であろうが大工であろうが、何だって構わなかった。

 獣人の住まいはあるじの形態によって様々だというが、アイアソン家はごくふつうの一軒家で、サイズ感もジリアンに過不足なかった。もしかれが熊や鰐など、大型獣の獣人だったなら、困り果てていただろうが。

 ノエルが手ずから淹れてくれた紅茶とともに(結構なお味だった)、改めて雇用契約を交わした。ジリアンの仕事は、大まかにいえば炊事、掃除、洗濯で、炊事のための買い物やゴミ出しなど、かれの生活を維持するための細やかな家事が付随する。

 命じられたのは三つだけだ。先生でもマエストロでもなく、ノエルと呼ぶこと、ピアノを弾かないこと、勝手にCDやレコードをかけないこと。

「これ以外はきみの裁量で自由にしてください。外出用には車がありますが……ははあ、運転に慣れていない。では、慣れるまでは私が同行しましょう。古い車ですから、多少傷をつけても構いません。人やものにぶつけるのはまずいですがね」

「はあ……」

 曖昧な吐息は、華やかな紅茶の香りがした。

「まずはこの家での暮らしに慣れてください。ゆっくりでいいですからね。それからのことは、落ち着いてからにしましょう」

 もっともな話だ。ジリアンは、手の空いた時間には積極的に家屋を見て回り、周辺を散策し、丘を下り、バス停前の食料品店「サンバリー」に顔を出した。

 ノエルは人を使い慣れていた。ちっとも偉ぶらず、なにかひとつ頼むのにも嫌味のない、謙虚な言い方をする。手のひらで転がされたとも思わないのだから、まったく人柄としか言いようがない。ついこの間まで、教授の下で小間使いのように扱われていたから、よけいに差が際立った。

 ノエルは、決まった仕事に就いている様子はないが、金に不自由しているふうにも見えない。むしろかなり裕福なのではないだろうか。引退した音楽家が気ままなセカンドライフを送っている、と評するのは簡単だが、そうとも言い切れない、不思議な孤独と静けさがあった。テレビやラジオが点いていないから、というだけではない。

 かれの人となりについては謎ばかりだが、穏やかな性格で、頭ごなしに怒鳴られることも、理由なく殴られることもなかった。犬系の獣人とあって、感覚が鋭敏なのではと恐る恐る出した食事を、おいしいおいしいと残さず平らげる。酒はたまに飲むが、博打とは縁遠い。人倫に悖る趣味があるわけでもない。良い雇用主だと感じたから、ジリアンも良い使用人であるようつとめた。

 ノエルの一日は朝の散歩から始まる。宵っ張りなので決して早い時間ではないが、丘を下り近所をぶらぶらと歩き、その後、朝食を食べて新聞に目を通す。その指がとん、ととん、とテーブルを叩くのにジリアンは気づいた。

 なんだろう、と訝るうちに、かれははっとした様子で動きを止めてしまう。まるでリズムを取ってはいけないと叱られたかのように、しばらくはぎゅっとこぶしを固めているのに、やがて指は解けて、とん、とん、が繰り返された。

 音楽が必要ならピアノもレコードもあるのに、と思うが、ジリアンに音楽を禁じただけではなく、ノエル自身も音楽とは切り離された生活を送っていた。調律師がやって来たとき、ピアノはいくつかの音を鳴らすが、それだけだった。奏でてはならないと命じられているのかもしれない。

 音楽を遠ざける理由はあるのだろうが、無遠慮に踏み込んで良い問題ではない。訊くべきときがきたら、しかるべき言葉で尋ねるだけだ。ジリアンとノエルは慎みという一線を、暗黙の了解として共有していた。

 作り付けの書棚はレコードやCD、書物で埋まっている。ジリアンはノエルの書斎に立ち入って埃を落とし、掃除機をかけるけれども、必要以上にかれに興味を持たぬようつとめた。

 沈黙して長いのだろうレコード・プレイヤー、ずらりと並ぶ楽譜用バインダー、白黒の駒が乱れたままのチェス盤。

 雄弁に過ぎるそれらの語らいに耳を傾けるには、ジリアンは少々、臆病だった。

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