世界で一番どうでも良い15センチ

さくらみお

第1話


「ねえ、吉沢って、いつも座っているよね?」


 ドキリとした。


 声を掛けてきたのは、男子バスケ部の高田樹。

 まだまだ暑い九月初旬の放課後。

 教室の一番後ろの席に座る風花に、声を掛けてきた。


「……どういう事?」


 自覚はあった。


 なのに、あくまで白を切る風花。

内心は、心臓がバクバクだ。


「うーん……なんかさ、吉沢って教室だとあんまり動かないなぁって思って。女子バレー部のエースなのに。部活がシンドイの?」


「……確かに練習はハードだけど……。まるで私が怠け者みたいな言い方じゃない?」


「あっ! ごめん! そういう意味じゃなくって。部活だと、あんなに機敏に動いているのに、教室だと静かだなぁと思って」


 見られている。

 そう思っただけで、風花の頬は熱くなる。風花は自然と高田樹から目線を反らして言う。


「教室は機敏に動く場所じゃないし」


 風花の頭上に影が出来る。

 樹が、風花の机に両手を乗せ「確かにな!」と笑いながら頷く。


 短くて軽く柔らかそうな髪の毛に、人懐こそうな鼻周りのそばかす。大きな目をしているのに、よく笑っていて細目が多い。


「部活、行くんだろ?」

「うん」


「春高あるもんな」

「うん」


 樹は、はい、と手を差し出した。


「頑張ってね。キャプテン」


 樹につられて手を差し出すと、コロンと手のひらにレモンの飴が乗っかった。


 樹は背を向けて、手を振りながら帰って行く。その後ろ姿の髪の毛に、糸くずがついていた。


「高田っ!」


 咄嗟に立ち上がり、風花はその柔らかい髪の毛に触れて糸くずを取る。

 樹が不思議そうに振り向けば、大きな目が風花を見上げている。


「……ご、ゴミ。ついていた」


 糸くずを差し出して、見せつける風花。


「ああ。ありがとう。じゃな!」


 颯爽と去って行く樹を見送ると、机にわあっと突っ伏した。


(は、恥ずかしかった……!!)


 ――そう。


 吉沢風花の最近の悩みの種は身長だった。

 身長173センチ。女子バレーボール部のエース。


 小学生の時から背が高かった風花は、その長伸を見込まれてバレーボールの世界に入っていった。元々、運動能力も良くてセンスもあった風花がバレーボールにのめり込むのは一瞬だった。そして、自分をこの世界に導いてくれた個性しんちょうも、バレー界では有利でしか無く、誇らしく思っていた。

今年までは。


 悩みに変わった理由は、今話していたバスケ部の高田樹、身長158センチにある。

 ポイントゲッターで、先月のインターハイ予選でもレギュラーだったが、惜しくも準決勝で敗退。冬に大会の無いバスケ部の三年生は、今や引退となってしまった。


 二人の身長差、15センチ。

 男女の身長差としては理想的だが、風花と樹は逆だった。


 立っていると、二人の身長差は歴然だ。

 大きな風花に、小さな樹。

 三年生になって、初めて同じクラスになった時、


「吉沢!」


 体育館ではコートが隣同士のせいか、顔見知りだった樹が肩を叩いてきた。

 風花が振り向くと、誰も居ない。


「ちょ、吉沢~!下、下!!」


 見下ろすと、人懐こい笑顔を浮かべた樹が居た。

 その笑顔に、風花の胸は高鳴る。


「吉沢とは初めて同じクラスだったよな。よろしく!」

「う、うん……」


 背が小さく、可愛らしい姿をしている割に性格は男らしく、物事をハッキリと言い、行動力もある。そして何よりも優しい。

 風花は、そんな樹の男らしさと優しさに恋をした。

 しかし、初めて樹と並んだ三年生の四月。風花は愕然とする。

 なんて、自分は大きいのだろうか!?

 樹の顔が視界に入らないほどの、巨女なのか。


 いつもは、コートとネットを挟んだ向こうから見ていたから、気が付かなかった事実。

 風花は、その日以来、教室では座っている事が増えた。

 樹が来ても座ってれば、樹の方が高くなる。風花が理想とする、見上げる樹が居るのだ。


 それで、一学期は凌いできた。


 そして、二学期。

 樹は風花の行動に気が付いてしまったのだ。


(まずい、まずい、まずい)


 体育館までの道を早足で進む。

 大きな女が大股で歩いているのだから、ドンドンと人を抜かして行く。


(どうしよう!)


 体育館にたどり着き、中に入ろうとすると鍵がかかっている。

 あんまりに急いで来たから、鍵当番の一年生よりも先にたどり着いてしまった。

 風花は落ち着かなくて、ウロウロし、それから、少し中庭に入った場所にある階段に座った。


 座ると、少し興奮が落ち着く。

 一回、ふぅーっと、大きな深呼吸をする。

 もう二回、深呼吸する。

 バレーボールを始めて、気持ちを切り替える訓練は何度も何度もしてきた。更に深呼吸すると、風花は冷静に戻る。


 一気に視界が開けた。


 まだ蒸し暑い、芝生だけの中庭。

 渡り廊下で練習する吹奏楽部の生徒のトランペットの音色。

 体育館向こうで練習を始めようとする野球部の掛け声。

 見上げれば、校舎の中を楽しそうに歩く女子生徒達。


 この、落ち着いた時に見える世界が好きだ。自分だけの世界から、現実に戻る瞬間が。人によっては、自分だけの世界が好きな人もいるだろうが、風花は違う。

 他人の中にいる、この思い通りにならない世界をどうにかして、自分の世界に近づける行為が好きなのだ。

 こうやって風花は生きてきて、バレーボールでも頂点に手が届く所まで上り詰めようとしている。


(……よし、練習しよう)


 気持ちを切り替えた風花は、立ち上がり、体育館へと向かう。



***



「お疲れ様でしたー!」


 空が青からオレンジにグラデーションし始める頃、部活が終了する。

 風花は、チームメイトと今日の反省と明日の課題を話し合いながら、部室を出る。


「吉沢!」


 ドキリとした。

 恐る恐る、振り向けば、高田樹が手を振って駆けて来る。


(な、なんで!?)


 内心は動揺したが平常心を装い、凛と佇む風花。


「こんな遅くまでやってんだな!」

「……高田、どうしたの?」

「ん? 今日は応援団の練習」


 知っていたが、知らないそぶりをする風花。十月始めに行われる体育祭の応援団に樹は立候補していた。

 薄汚れた体操着に、学年色のカーキのジャージズボン。

 日に焼けて、汗ばんだ額にも砂埃がついている。


「応援団も、ずいぶんと遅くまでやっているのね」

「ああ、俺、応援団長だから」

「えっ!?」


 驚き過ぎて、自分のポニーテールが頬に当たる。


「すごい……」

「体育祭当日はお楽しみに。一番小さいのが、団長なんで」


 と、Vサインする樹。自虐ネタなのに思わず、風花も微笑んでしまう。


「吉沢、これから帰るんだろ?」

「うん」

「家、どっち?」

「駅の方」

「じゃあ、一緒に帰ろうぜ。松方精肉店でコロッケ食べて帰ろうぜ?」


「……いいよ。コロッケいらないし……」


 風花はポーカーフェイスを保つのがやっとだった。


「俺も駅から電車なの! 一緒に行こうよ」

「……でも……」

「さ、行こう!」


 と、手首を引っ張られて、風花は自然と足が動き出す。

 樹は小さいのに、手はごつくて硬い。力もある。

 熱い。握られた手が、凄く熱く感じる。

 風花は、空を見上げ(平常心、平常心)と、いつもの切り替えの儀式を繰り返す。


 学校から駅までは緩やかな下り坂を降りて行く。

 校舎も、家々も、木々も、そして人もオレンジ色に染まっている。


「……なんで、そんなに遠いの?」


 先を歩く樹が振り返る。

 風花と樹の間は三メートルは離れている。


「……別に」

「……じゃあ、並んで行こうよ。喋りにくいじゃんか」


 樹が、坂を駆け上って風花の隣に立つ。

 嫌でも、身長差を感じる距離。

 風花は、俯いた。


「……吉沢って、俺の事嫌いだよね?」

「えっ!?」


 風花は跳ねる様に、樹を見た。

 樹から、いつもの笑顔が消えていた。


「俺、吉沢に何かしちゃった? していたなら謝るよ」

「ち、違う。何も、別に……」

「じゃあ何で一緒にいるの嫌がるの?」

「……」


 言える訳が無い。身長差が嫌だなんて。

 樹の顔が曇る。

 風花は、キョドキョドと周りを見渡す。

 そして、見つけた。


「あっ!」

「え?」


 風花は、駆け出し、樹に手招きする。


 樹は首を傾げて、風花の元へと行く。

 そこには、緩やかな道路をショートカット出来る急な石階段があった。

 風花はそこへ座れと手招きする。

 樹は、言われたまま素直に従う。


 樹には訳が分からなかった。

 なぜ、急にこんな所で座ったのだろうか?

 自分が嫌いな理由を、改まって言いたいのだろうか?


 樹が座る石段の、一つ下に座る同級生は振り返り、三回深呼吸した。

 すると、その目は『あの眼差し』に変わる。樹が部活引退前に体育館で良く見た、風花の空気が変わる『あの眼差し』。

 その真剣な眼差しのまま、口を開いた。


「嫌いじゃないよ」


「へ?」

「私、高田の事、嫌いじゃない」


 樹は呆気にとられ、そして大笑いした。


「あはははははははっ!」

「え? え?」


 突然の笑いに戸惑う風花。そして珍しく顔を赤くする。


「よ、吉沢、おもしれー!!」

「な、なんでよ!?」

「それだけを言うために、わざわざここに座って、気持ち切り替えて……どんだけ真面目なんだよ」


 風花は、ドキリとした。


「高田……もしかして、私の切り替えの仕方……知っているの……??」

「うん、よく試合で深呼吸三回していたじゃん。すると、吉沢って人が変わるんだよな!」


 恥ずかしすぎて、死にそうだ。

 風花は顔を手で覆った。


「……なんで」


「ん?」


「なんで、そんなに見ているの。……恥ずかしいじゃん」


 樹は「あー……」と、頬を掻きながら言葉を濁し、


「そんなの、好きだからに決まってるじゃん」

「!」

「変わった後の吉沢の眼差しが」

「……眼差し?」


 自分の眼差しが好きだと言われて、なんとも歯がゆい気持ちになる風花。 そんな気持ちの風花の事など露知らず。樹はニカッと笑い、


「うん、吉沢の真剣で澄んでいる目が好きなんだよね。だから、バレーしている時以外にも見れてラッキー」


 色素の薄い樹の髪がオレンジに光る。

 息を飲むほど、神々しい姿の樹の笑顔は、樹自身に思えた。


 樹は、何も気にしていない。

 樹は、風花の身長など、最初から全く見えていないのだ。

 そんな人だから、好きになったのに。


 それに比べて、


「……嫌い。私は、高田と比べて大きすぎる事を悩んでいた私が、大嫌い」


 泣きそうな風花を、樹は見つめた。

 その眼差しは、風花の大きくて小さな悩みを包み込む様な優しさに溢れていた。

 知っていたんだ。樹は、なぜ風花が立たない事を。その時、樹のごつくて硬い手が、風花の頭に乗った。


「うん、身長の事なんて、俺は全く気にしてないのに。大きい小さいで人の本質は変わらないんだぜ?」


 風花は立ち上がる。

 そして恐る恐る、階段を一つ、登った。

 樹も立ち上がった。

 15センチの身長差。

 見下ろす風花。見上げる樹。

 だから、何なのだ。


 深呼吸を、一回、二回、三回……。


 視界が鮮明になる。

 世界が開ける。


「私、高田の事が好き」


 そう言った風花の眼差しの向こうには、いつもの笑顔が広がった。


 こうして――。

 世界はまた一つ、風花に味方をするのだ。


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