インクリース
洞貝 渉
第1話 不老長寿
クラゲだった。
それはどうしようもなく、クラゲだった。
中心の赤い色をした核が妙に生々しくて、それを囲う半透明の身体がゆうらりと揺れる様も、なにもかも、とにかく存在自体が非常に不快だった。
なのに、私はそれが見えるとどうしても目が離せなくなる。
いや、正確に言えば、その全長二メートルはある巨大クラゲは、場所を選ばずどこにでも現れる上、常に私の目の前の空間を浮遊するせいで、目を離すには目をつぶる以外に方法がないのだ。
他の誰にも見えていないこの忌まわしいクラゲを、何度この手で殺す様を夢想しただろう。
しかし私に見えているそれは、ただの幻覚らしいのだ。
いくら手を伸ばそうと触れることすら叶わない、ただの、幻……。
×××
ふわりと花開くように、少女のまぶたが開く。
部屋にある唯一のベットに寝かされた彼女は、身じろぎもせず天井を見つめていた。が、ふいにベットサイドに立つ私を見た。
きめ細やかな肌、細くて長いまつ毛、うるんだ瞳に鮮やかな色のくちびる。
美少女、と言っても差し支えない。大げさな表現を好む者なら、彼女を天使やビーナスとでも呼びそうだ。
薄手のワンピースの下、彼女の胸元に6という数字が見えた。
「ソメイ」
人工的に作り出された美で装飾された彼女のくちびるが、柔らかに動く。
鈴を鳴らすような高く澄んだ声がほの暗い室内に満ちる。
私はまだ、答えない。
吸い込まれそうなくらい澄んだ瞳に一心に見つめられ、居心地の悪さを覚えた。
「ソメイ。お前はソメイだ。そして私はエテルノ」
彼女の確信と自信に満ち溢れた言葉に、私は知らずに詰めていた息を吐き出す。
これは喜ばしいことなのだ。
頭ではわかっているのだが、心のどこかで落胆している私がいるのも事実だ。
記憶の移行は上手くいった。だが、さすがにまだ動けないようで、彼女は真白いベットに体を横たえたまま、私を見つめて口の端を上げる。
「今回も成功だぞ、ソメイ?」
にやり、と。
少女――エテルノはおおよそ見た目の年齢に似合わない、邪気をはらんだ笑顔を見せる。
「これで六回目。ソメイの心配は杞憂に終わったわけだが、なにか言いたいことはあるか?」
「……」
エテルノの問いに私は答えない。
返す言葉がないわけではない。
処置後の検査はまだ終わっていないし、目に見えた不具合がないからと言って、本当にうまくいっているかどうかなど現段階ではわかりようもない。エテルノの言っていることは、素人が表面だけを見て浅はかな判断をしているにすぎないのだ。
なにより、私が気にしているのは処置されたエテルノのことではなく、処置に使われることとなった代替用の身体の方で。
思考は勢いよく体の中を駆け巡ったが、意志の力を総動員して言葉は喉元でせき止めておく。何を言ったところで、彼女から倍以上の言葉になって返ってくるだけなのは目に見えていた。
いつものことなのだ。別にエテルノは私の考えを聞きたいわけではない。ただ、からかいたいだけ。『延命処置』にクローンを使うのは生命倫理に反しているなどという青臭い考えを捨てられない、私のことを。
ここは病院の一室。
エテルノはこの病院の治験に参加していて、今さっき、限度回数三回までとされている『延命処置』の、六回目の治験を終えたばかりだった。
私は医師でも一般患者でも、ましてや治験者でもない。
ただの学生だ。『延命処置』について、その有用性と危険性について研究している。
「ソメイ、お前の頭は固すぎる。真面目もいいが、それも過ぎれば人間の進歩の邪魔にしかならない」
『処置』の後で疲れているだろうに、エテルノはいつもの調子でお説教を始めてきた。
内心うんざりするが、無下にもできない。
「人間の進歩、とは大きく出ましたね。真面目は私の個性ですので、どうぞお気になさらず。私から見ればあなたは我が強く、若さと美貌に固執し過ぎに思うのですが」
「ソメイにはわからんさ。まだ一回も『処置』を受けていない、受ける必要もないような若造のお前には、な」
そんなものですかね、とエテルノの言葉を軽く受け流す。
彼女は見た目こそ十代の可憐な少女だが、実年齢は九十をゆうに超えていた。
「私は人々に希望を与えている。こうして危険を顧みず、自らの身体を捧げ、挑戦をし続けることで、人類の可能性を広げているんだ。何かにつけてデメリットや危険性についてばかり語り、足踏みしかしないソメイと違ってな」
「……」
エテルノがどこまでわかって言っているのか知らないが、デメリットや危険性についてばかり語り、足踏みしかしない、というのはかなり痛いところを突かれていた。
というのも、それは日ごろから教授に注意されていることだったからだ。
昔、まだ不老長寿社会に突入する前の時代では、世間は若年層の確保にやっきになっていたらしい。超高齢化社会という結果的に訪れることのなかった社会の問題点を散々あげつらい、それをなんとか回避しようとしていたそうだ。
しかし、いつからかそれは変わった。
出産率を向上させ、一から育て上げるというコストがかかり過ぎて効率も最悪な政策を打って出るより、今ある人材を大切にし、延命させる方が堅実だと、世論が流れたのだ。
結果、就労者において定年という概念が無くなり、当然のように年金制度が消え失せ、健康ブームがただのブームではなく死活問題となった。
人々は子を成し若者に次の時代を託すことを止め、今という時代を保たせるだけで手いっぱいになっていく。
「私はね、ソメイ。より質が高く効率的でコストの低い『延命処置』を実用化するための治験に参加してるんだ。これは人々を、ひいては世界を救ってるってことだぞ」
エテルノが物わかりの悪い生徒に言い聞かせるような口振りで言う。
確かに、彼女の言い分はもっともだ。
彼女ら治験者が積極的に『処置』を受け、より良い『処置』の認可が下り、世間にその有用性の高さと危険性の低さをアピールしていくことで、心置きなく新たな『処置』を受けることができる。
それが社会をさらに活性化させていくのだろう。
永遠に若くありたい、生涯現役であり続けたい、健康で長生きがしたい。
人類が古くから求めてやまない夢のような話を実現させたのが『延命処置』だ。
「もちろん、初めからなにもかも上手くいっていたわけじゃない。それでも、あの失敗があったからこその今だ。そうだろう?」
エテルノは熱く語りながら私の目を覗き込む。
が、そこに理解や納得の色を読み取れなかったのだろう。失望したかのように表情を歪ませ、まぶたを閉じた。そしてそのまま、すうすうと寝息を立て始める。
私はレコーダーを止め、エテルノの病室を出た。
彼女の言うあの失敗とは、おそらく『若返り』のことだろう。
不老長寿社会に入ったばかりのころはまだ、代替用の身体――つまりクローン体を利用する『延命処置』は、倫理観の問題から承認されておらず、『処置』といえば『若返り』のことを指していた。
『若返り』とは、ベニクラゲという生物が備えている能力を利用したものだったと聞く。ベニクラゲは自身の身体が損傷したり老いて寿命が近づくと、『若返り』を起こし、文字通り若返って損傷を修復したり寿命を延ばしたりする生き物らしい。
そのベニクラゲの若返り能力を遺伝子操作で強化し、人間に転用した。当初は上手くいっていたらしい。
実用化もされていたのだが、さらなる効率化とコストダウンのための治験中に事故があった。
死亡者の出る大きな事故だったと聞く。
当然、『若返り』の治験はもちろんのことその危険性が問題視されて『若返り』の処置そのものの実施が禁止されてしまった。
『若返り』が禁止されて以後、『若返り』の代替になるような新たな『処置』はなかなか現れなかった。しかし、寿命は伸ばせるもので若さと健康は手に入れることができるものだと、一度広がってしまった認識はそうやすやすと消せるものではない。
非合法になってしまったのを理解した上で『若返り』の処置を求める者は後を絶たなかった。
そのころ既に、部位的な臓器や部位の生成や利用については認められていたけれど、それがなし崩し的に身体まるごと取り換えが可能に成るまで――一つの命を消耗品に置き換えてしまえるようになるまで、そう時間はかからなかった。
脳に蓄積された情報を全て電子化し、新しい体に移し替え定着させることで、人類は若く生まれ変わることに成功したのだ。
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