第5話 逃亡者と公孫樹(イチョウ)の家と天武の舞
その朝は、本当に疲れていたが、取りあえず、学食の売店で買ったパンをかじっていた。そんな僕を見つけて近寄ってきた綾佳さんが
「何か有りましたね!」さすが珍獣観察委員の綾佳さんだけあって、既に僕の置かれている状況を見透かしている様な一言にドキリとしながら、大きなため息の後で
「今、家出してます。」そう言うと、くすりと笑った綾佳さんが
「何悪い事したんですか?」と訊いた。僕は少し躊躇して
「幸子と寝てしまいました、それを雪乃に見られて、口論の末に引っぱたいてしまいました。」僕の言葉を暫く噛みしめる様な時間の後、
「・・・・一線を越えてしまった訳ですね、幸子さんと・・・・。一寸むかつきますね。」
「一寸じゃないでしょう、殴っても良いですよ。」
僕の混乱している頭の中から、訳の分からない言葉が出てきたのを戸惑っていたが
「それじゃー」と言うのが早いか、かなり強烈な平手打ちが僕の左頬を直撃した。その瞬間、パッと霧が晴れた気がした。
「あ、ご免なさい。」慌ててハンカチを僕の顔に押し当ててから、鼻血を出した僕の顔を覆い隠す様に綾佳さんは抱き抱えてくれた。僕はハンカチで鼻を押さえながら
「血が付いちゃいますよ。」ともそもそと喋ったが、
「だから、たまには私に甘えなさいて言いましたでしょ。」そう言いながら、僕をベンチに横たえてくれた。
結局、洗いざらいの状況を綾佳さんにぶちまける羽目になっていた。暫く、僕を膝枕で介抱してくれていた綾佳さんが
「で、どうでした、初めての経験は・・・」
「女性に殴られたのは母依頼ですね、痛かったですね。」僕の答えに、不満そうに
「そっちの事ではありません、幸子さんとの事です。」僕は、鼻血が止まっている事を確かめてから起き上がり
「ええー・・・そう言われても、初めての事なんで・・・」
「お話の様子ですと何の準備も無かった様ですわね。後で幸子さんにちゃんと確認して置くべきですわね。」
「はあ、ご助言すいません。」
「はい、経験者ですから。」
「えええ・・・」
「私、十七才までストックホルムに居ましたから、それに、薫さんより年上なんですよ。帰国子女の学期切り替えの関係でね。」僕は、さっきのビンタのショックと、綾佳さんの意外な事実が入り交じって再び混乱していた。
「雪乃ちゃんには、なんとか取り繕って置きましょう、代わりに私が引っぱたいてあげましたて。でも、そろそろ卒業して貰わないとね・・・・薫さんから。そう言う意味では、丁度良い機会かもしれませんわね。暫く、距離を置かれるのも良い策かもしれません。・・・・所で、昨晩は何処にお泊まりでしたの?」
「ジョナさんの所です。まさか、綾佳さんには頼めないし、急に飛び出したから手持ちも無くて。でも、ジョナさんの所へは戻りたくないので、今日は家に戻ります。」
「それで、コッペパンですか。別に、私達の所でも一行に構わなかったのですけど、でも、確実にパンチがもう一発増えますけど。薫さんは優しすぎるんです、悪く言えば優柔不断、だから、つけ込まれるのですよ。私は、そんな予感がしてましたわ、数日前からの幸子さんの気配で。」そう言われても、幸子とはあの夜の前の数日は顔を合わせていなかったのだから、どんな気配を漂わせていたかは分からないのだ。
「男の方は、そうなると理性より本能が優先されてしまいますからね、据え膳食わぬは何とか言ってね。」
綾佳さんは暫く沈黙してから
「良いでしょう、隠れ家をご提供しましょう。ただし幾つか条件が有ります。」少し考え込むように首を傾けてから
「取り合えず、女人禁制です。もちろん私と姉は例外です。それから、暫く空き屋だったので掃除をお願いします。庭は先日業者が入ったばかりなので、主に屋内ですね。ついでにシステムを復旧させて欲しいのですけど、これは行って説明しないと分からないと思いますが。」
「良いんですか、こんなムカツク男のために。」
「さっきのビンタでスッキリしましたから、もうムカツいてはいません。そう、それと出るかもしれませんよ。」
「出るて?」
「その隠れ家と言うのは、実は、母方の叔父の家なのです。三年前に亡くなった後、なかなか手が付けられなくて、これも何かの縁かもしれませんね。出ると言うのは、叔父です、幽霊の。」
「ほー、面白そうですね。」僕は悔し紛れに強がって見せていた。
数日の掃除で屋内の清掃は一通り片づき、綾佳さんの言うシステムの復旧とやらも順調だった。此所に以前暮らしていたと言う叔父さんは、徹底した環境循環型の管理システムを構築したかったらしく、その前に、この家について少し説明しなければ成らないだろう。僕が公孫樹の家と呼んでいるこの家は、これが都会の真ん中にあるとは思えない位の良い環境に有った。側に大きな公園が有る(最もこの公園も嘗ては、この叔父さんとやらの一族の物らしかったのだが)と言う立地条件だけでも十分恵まれている状況であるが、その公園の片隅の一角を占めるような状況で、一本の公孫樹の木を中心に、まるでドーナツでもはめ込んだ様な構造をしていた。屋上と周辺部には太陽電池によるソーラーシステムがあり、ドーナツの縁に沿って、貯水用の池があり最終的には、自給自足の循環環境を目指していたらしかった。この建物全体のシステムは、少々古いタイプの演算処理機能が付いたコントロール装置で運用されている様に成っていて、装置のOSはリナックスだったので僕のパソコン(PC)と繋ぐと直ぐにPC上から制御出来た。ドーナツの中心にある公孫樹を何処からでも眺められる様に、楕円形状のガラス張りの廊下が有り、その外周に沿って幾つかの部屋が設置されていた。部屋は、可動式のパーテーションで区切られる様に成っていて、バス・トイレユニットと簡単なキッチンユニットが設置でき、それぞれ個室としての機能も備えられる様に成っている。共用のスペースとして玄関スペースに広いリビング・ダイングキッチンがあり、電気系のコンロの他に、これも最終的には自給を目指していたのだろうが、生物発酵プラントから供給されるガスが使用できる仕組みに成っていた。そして、あのジャグジーがあった。
一段落したので、ぼんやりとインスタントコーヒーを飲みながら、中庭の公孫樹を見ていた。枝の先々まで新緑の葉をつけ、空に伸びをしている様に張り出した小枝の先に白い雲があった。ふと、その枝の葉が金色に輝いた様に見えた瞬間、秋の光に包まれて落葉している無数の黄金の葉が僕の前に現れた様な気がして、何かに付き動かされるかの様に舞いを舞っていた。それは、母から教わった形見とも言える「天武の舞」と言われていた舞踊だった。何故か無心で舞い続けいる自分に違和感もなく、静寂な空気の中にこの木が吸い上げている水の流れる音を感じる事が出来た。恐らく、それは数分の出来事だったのだろうが、僕の脳裏では、秋から冬そしてまた春に戻って来るぐらいの時の回廊を歩んでいた気がした。そして、ふと気付くと僕の姿をガラス越しに見ていた綾佳さんが居る事に気づいた。取りの形を決めると、一挙に疲れが出て座り込んでいた。
「何かに取り憑かれた様に、舞ってましたわ。」そう言って、僕の汗を拭いてくれている綾佳さんがいた。
「ジョナさんの言ってた事が分かったわ。」彼女の唇が、僕の唇を奪っている事に気づいた時に、やっと我に返る事が出来た。
「ご免なさい、突然、でもいたたまれなくて・・・、濡れてしまったから。ああ、汗で!」放心状態の僕を、居間のソファーに移してから、何やら忙しく動き回っていたが、
「凄いですね、こんな短時間で復旧出来たなんて!私、ストックホルムへ行く前の数年間ここで姉と暮らしていたんです。」そう言いながら、昼食を用意してくれていた。
「有り難う御座います。あの舞を踊ると、心も体もへとへとに成るんで助かります。ここん所、カップ麺ばかりだったんで・・・」
「歓迎会の方も準備が整いましたし、雪乃ちゃんへも何とか説得できた様なので・・・幸子さんへは、薫さんが直に確認してもらうしか有りませんけど、今日は私もここへ泊まりますので。」
「雪乃はなんて?」
「ともかく早く戻って来て欲しい見たいですね。」
「でえ、今日泊まるんですか?寝具とか有ったかな?」
「大丈夫です。姉が持ってきますから。」
「当言う事は、葵さんも・・・」
「ええ、姉もこの家が好きなんですよ、行く行くは此方へ移ろうかと二人で相談していた所なんですが、色々有りましたでしょ・・・薫さんには大した事では無いかもしれませんが。」
僕は無意識に、幸子と綾佳さんを対比していた。幸子なら、一人でこんな電気システムは復旧させるだろうし、掃除は苦手かもしれないが、それなりに設備のメンテンナンスもやり退けるだろう。幽霊話は一寸戸惑うか、きっと一人は怖いと言うかも知れない。あの日以来、お互いに淡泊なメールを数回やり取りしているだけだった。雪乃との一件が耳に入って遠慮しているのだろうと僕は考えていた。実際は直接会って、それなりの話もしなければ成らないと思いながらも、こうやって逃亡生活に入ってしまっている自分が有る意味情けなかった。でも、大学でも不思議と顔を合わせないのは何故だろう。それは、互いに幸いでもあったのだが、会えばバツが悪い状況か、また幸子を抱く事になってしまいそうで怖かった。今はまだ只の幼なじみのままで居たかったが、最早そんな曖昧な関係では居られない状況から逃げてもいる自分がさらに歯痒かった。
「所であの舞は、何か謂われが有りますの?」綾佳さんが訊いてきたので、少し呼吸を整えてから
「ええ、母の形見みたいなものです。朱鷺家、母の旧姓ですが、代々の神主だったそうですが、その家に伝わる舞だそうで、僕も正式に教わったものでは無くて、母のを見て覚えただけですけど、まだ完璧には舞切れていません。なんでもこの舞を舞うときは、男とか女とかを超えなければいけないらしくて・・・」
「朱鷺家て、あの朱鷺神社のですか?」
「ええ、そうらしいです。僕も詳しいことは知らないと言うか、親父があまりその話題には触れたがらないので・・・」
「朱鷺神社は、三芳家と硲家の共通の氏神様なんですよ。」
「共通の?」
「ええ、何でも両家の因縁の中を和解させようとしてくれた神社で、その恩に報いると言う意味で氏神として両家で祭ったと言う様な言い伝えがあります。詳しい事は、姉の方が良く知っている筈ですが。」
「ほうー、後で詳しく聞かせてもらおう。」僕は綾佳さんの昼食で、どうにか元気が出てきていた。
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