そしてオリカミ家には血が流れる
和泉茉樹
第0話 一つの命、一つの技
◆
静かな世界の遠くの方で、雪が降っている。その音があるということは、本当に静かではないのだ。
形だけの道場の中は冷え込み、吐く息さえも白くなるが、今は呼吸を抑えていた。
目の前にいる老人、唯一の師である剣士は、傍に刀を置いたまま動かない。
間合いは広い。広すぎる。普通に考えれば、一息で踏み込める間合いではない。
それでも充溢する気迫は、その事実を虚構のように感じさせる。距離が実際より極端に短い錯覚が襲ってくる。
間違いなく、間合いを消される。
傍にある剣に目をやりたい。それで安心できる。少しだけはだ。しかしそんな隙を見せれば、そこで切り捨てられる。
確信を確信とも思わず、じっと集中した。
それ以外にない。
雪が落ちる音。
繰り返し、繰り返し、不規則に雪が舞い落ちる。
他には何も聞こえない。
「お前は弱い」
いきなり、師がそう言った。面はわずかに伏せられ、視線がこちらを射抜くわけではない。それでもやはり、切られる場面を想像せずにはいられない。
「命は一つだぞ、スマ」
感情をうかがわせない、低い声。
「技も一つ。命こそが技だ」
答えることができない。
急に全ての音が消えた。
今は雪さえも降っていない。
師の体が動いた時には、こちらも動いている。
剣を手に取り、わずかに鞘から抜く。
火花が至近で弾ける。
師の刀を、わずかに鞘から抜かれた剣が受け止めている。
際どい場面だった。
刀の刃はほとんど首に触れている。
あとわずかでも遅れれば、首をはねられることはなくとも、深く切り裂かれて、致命傷だった。何も出来ず、血しぶきとともに倒れていただろう。
「なぜ、自分から攻めない?」
目と鼻の先の、しわが深い老人の顔の、その瞳だけは灼熱の意志を宿して、熱波が押し寄せてくる。
「できないのか?」
言葉が出ない。
刀がすっと引かれ、師が一歩二歩と離れる。それを見てから、五歩は必要なはずの間合いを、師がほんの一瞬で踏破したことにやっと気づいた。
「視野が狭い」
師が鞘に刀を戻す。
「反応が遅い。無駄が多い。発想に閃きがない」
また元の位置に、師が腰を下ろした。その全ての動きが洗練され、わずかもぶれることがない。
超一流の、達人の体の運びは、そうとすぐに気づけるものだ。
「私を、殺せないのか、スマ」
殺せない。
そう言うことさえもできない。
この老剣士を切る技が、ない。命を投げ出した相打ちの攻めさえも、通用しない。それは想像や悲観ではなく、事実だろう。
年齢は七十を超えているという。
そこまでの高齢でも、動きに衰えはない。
あるいは、衰えをも克服する技を身につけているのか。
「いつか、死ぬぞ。お前は、必ず死ぬ」
「当たり前です」
やっと言葉を返せた。
「死なない人間は、いません」
「それは事実だが、真理ではない」
「真理?」
そうだ、と老剣士が頷く。
「我々は命を使って、技を磨く。技を生み出しもする。私たちは技を競うものだ。弱い技を使うものは、死ぬ。ただそれでも、わずかに何かが残るだろう」
「何が残るのですか?」
「技だ。強い技に敗れた弱い技が残る」
こんな問答にはにきっと意味がないのだろう、と思う一方で、納得できる言葉の響きではあった。
「お前には技がない。だから、本当の意味で死ぬのだ」
この老人と出会ったのは四年前で、それからいくつもの剣術を教わった。
長い旅の間で見聞きし、実際に身につけ、場合によっては討ち倒した相手の剣術さえも、この老人は理解している。
一流、いや、超一流、そんな言葉でも足りないほどの、技の使い手だった。
老人自身には気負った様子はない。稽古もほとんどは厳しいものではない。
ただ、打ち倒す時は打ち倒す。言葉が必要なら、言葉も使う。稀なことだが、厳しいこととして川の中に立ち続けたり、山を駆け回ったりもした。
四年前には集落の若い者、幼いものが十人は集まったが、残ったのは一人だけになった。
その一人さえも、こうしてやはり、老人の満足とは程遠いらしい。
「死ぬ技も、何かを残すのではないですか?」
反論というわけではなく、確認したかった。師はかすかに視線を下げたようだ。
「死ぬ技を受け継ぐものは、やはり死ぬ。そうして優れた剣と無意味な剣は、より隔絶されたものになる」
抽象的でも、何かは感じ取れる。
どうしたら技を身につけられるのか。そう訊ねようとしたが、老人は小さく息を吐き、顔を上げた。
無表情のその顔の、口元だけがわずかに一度、本当に曖昧に震えたように見えた。
「技を磨け、スマ。この世界のどこかには、お前を待っている技もあろう」
「師匠の技を、教わりたいのです」
「全て伝えた。私の技は、お前の体に染みつき、根を張った。芽吹き、枝葉も伸ばした。あとは、剪定だ」
師が立ち上がり、腰の帯に刀を差し込んだ。
「スマ、何が聞こえたか、思い出すのだ」
聞こえた?
急に周囲の音が迫ってきて、雪が落ち続ける音が消えてきた。かすかに、野山の獣の息づかいさえ、聞こえる気がした。
「良いか、スマ。剣を持つものは、ある時に全てを忘れる。その時に、本当の技が表に出てくるのだ」
「忘れる?」
「耳は聞こえなくなり、目は見えなくなる。呼吸は止まり、鼓動も消え、熱を忘れる。それなのに、微細なものまで手に取るようにわかる。つまり、凪だ」
そんなことがあるのか。
そう思っていると、師はすぐ横に立っていて、軽く肩を叩いた。
「私の居合を、お前はどうやって受け止めた?」
そんな言葉を残して、師はゆっくりとした歩調、しかし足音もなく、建物を出て行った。
集落で立てた道場の引き戸は、いやに大きな音を立てて閉まった。
正座したまま、じっくりと考えた。
音が今は、大きすぎるほどだ。寒さも急に理解できた。
何かが心の中で回復したのか。
心を失うことが、技か。
背筋を伸ばしたままで、少しだけ息を吐き、吸う。
冷たい空気に胸の内側が冷えていき、もう一度の呼吸で、その冷たさも消えた。
居合の刀は、早すぎた。踏み込みも常識を超越している。
それを受け止めることができた。
何度も頭の中で、繰り返し、繰り返し、あの時の自分を思い出そうとした。
どうやって察知したのか。目でもない。音でもない。
気、などというものがあるのだろうか。
闘気、殺気など、あるものだろうか。
しかし何かをあの時、感じ取ることができた。
体も動いたのだ。
師は剪定という言葉を使った。
何を自分から切り捨てれば、今以上の使い手になれるのだろう?
もう一度、今度ははっきりと呼吸をした。
吐く息はもう、白く染まらなかった。
その冬が終わる前に、旅に出ることになるのは、この時に心に差した淡い期待、そして夢に近い願望からくる発想だったようだ。
技を、知りたかった。
どこかに残る、本当の技を。
(続く)
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