第1話 月夜の問答

     ◆


 旅の途中、街道の途中で夜になった。

 数刻前に通った宿場を恨めしく思いながら、夜の移動は避けて休むことにした。街道とも言えない細い道は何かの畑に挟まれている。木の一本でもあればいいのだが、そう都合よくはいかない。

 苦労して火を起こそうとしたが、風が強くそれは叶わなかった。こういう時もある。悪い時には悪いことが重なるものだ。

 仕方なく硬いままの饅頭を噛みちぎっていると、夜の闇から滲み出すようにその人物はやってきた。

「どちら様ですか?」

 こちらから声をかけると相手は一度、足を止めたが、自然な動作で動きを再開した。歩み寄ってくる。

「月の見えない夜はこれだから」

 そう声がした。しわがれた声。確かに今日は夜空のほとんどを雲が覆い、月が出ていない。昨日の夜は満月に近かったから、もし月が出ていれば相手の姿はよく見えただろう。

「明かりもなく、何をしているのかな」

 そんな風に続けて声をかけれて、見えないのを承知で食べかけの饅頭を掲げて見せた。

「食事だよ。風が強くて、火が消えて困っていた」

「ご一緒していいかな、お若い方。少し疲れた」

「食物を渡す余裕がないんだが、まぁ、見ているだけならいいでしょう」

 失敬するよ、とすぐ目の前に相手が座り込んだ。

 まるで計ったかのように、強い風が吹き、周囲を枯れ草が走り抜けていく。

 そして雲も晴れた。月明かりが迫ってきて、二人を照らし出した。

 相手はやはり老人で、年齢は六十歳ほどだろう。小柄な細身に上品な着物をまとっている。そして腰に刀を帯びている。

「そちらも剣士でしたか」

 そう言葉を向けると老人が嬉しそうに声もなく笑う。歯が月光を照りかえしたのが鮮明に意識に残った。

 こいつをどうぞ、と水筒を手渡す。

「若いですな、おいくつです?」

「二十歳ってところでしょう」

「どちらから?」

「北のほうから」

 ほう、という息を漏らすような声を老人が発した。風が吹けば簡単に消えるだろう小さな声だ。

 こういう反応を返されるのは、よくある経験の一つだ。どこへ行っても、若さを気にしたり、どこから来たかを気にするものがいる。

 旅人など特に珍しくもないはずだが、もしかして自分は何かが周りとは違うのだろうか?

 いつもそう思うが、その答えを教えてくれる相手には巡り会えないでいる。

「面白い剣をお持ちだ」

 そう、これもよくある言葉。

 こちらのすぐ横にある剣は、まっすぐな刃をしていて、しかも両刃だ。

 故郷を出るまではこれが当たり前だったが、旅の中では世の中では珍しいことを知った。みんな片刃でやや反っている剣、刀を使う。もちろん、老人の持っている剣もそれだ。

「武者修行ということかな。それとも仕官する先を探しているか」

「ただの旅みたいなものですね」

「同等の力量のものがいない、とお見受けしますな」

「それは褒めすぎというものです」

 そうやり返すと、老人が嬉しそうに今度は控えめな声を発して、しかしはっきりと笑う。そして水筒の中身を一口飲み、それが戻ってくる。

 もう一度、強い風が吹いた。ザァッと音がした時には、今度は月が雲に隠れて老人の姿が見えなくなった。

「ご老人こそ、こんな時間にこんなところにいて、これからどちらへ行かれるのです?」

「急ぎの用がありましてね。少し休んだら、先を急ぐつもりです」

「もしや、逃げているとか?」

 面白い御仁だ、と老人が声を発しても、今は姿は見えない。周囲は真っ暗だ。影さえも判別が難しい。

 こういう時、もし切りつけられたらどうするべきか、そんなことを空想する癖がついている。

 老人の姿はかろうじて陰影として見える。しかしあまりに曖昧な輪郭しかない。

「こんな老人に、捕手を相手取って、その捕手を切れると思いますかな」

 声はひっそりとしている。ただ、何か明確な意志が潜んでいる気がした。

「剣とは人を切るものですからね、年齢は関係ないでしょう」

「では何が関係するのかな」

 なかなか面白い老人じゃないか。やっとそう思い始めた。

 考えていること、考え続けていることを口にしていた。何か、答えを口にしてくれる予感がしたのだ。

「技ですね」

「技?」

「もしくは、術。剣を振る技術、体を動かす技術、それが人を切るには肝要かと」

 ははあ、と老人が感心したような声を漏らし、面白い、と呟く。

「その技術があれば、この老人でも人を切れると?」

「切れるのでしょう?」

 踏み込み過ぎたか、と思ったが、口にした言葉は飲み込めない。

 返事はなかなか返ってこなかった。老人がひっそりと姿を消したのでは、と疑うほどの静けさだった。

 そう、呼吸する音が微かにしか聞こえない。この手の技術、呼吸を悟らせない技は全ての剣術に共通する。その一点だけでも、この老人は相応の使い手であると確信に近いものを持てた。

 そもそも足音にだってその片鱗はあった。

 剣術において必要なのは剣を振り回す腕力に代表される上半身の力ではなく、それ以上に下半身の力になる。それに力と言っても、ある場面では脱力が求められるような、簡単な強弱では表現できない世界である。

 足腰が完成されている剣士は、相手を力づくで切る必要がないのだということも、旅の中でよく理解したことの一つになる。

「この老人の何をご存知かな、お若い方」

 やっとそんな声がした。探るような雰囲気ではないが、しかし、何かを気にはかけているようだ。

「何も知りませんよ。初めて会ったんですから。ただ剣の使い手だとはわかる」

「恐ろしいですか? 私が」

「剣を持っているものは、誰が相手でも恐ろしいと感じますね。それくらいの心構えでいるように、と教えられましたから」

 その教えの存在は事実だったが、老人は特に追及もせず、言葉も発さない。

 風が強くなってきた。老人がその中ですっくと立ち上がる。

 この瞬間を一番、警戒した。こちらは座り込んでいて、逆に相手は自在に動けるからだ。

 仮に老人が切りかかってくるとなると、対処は困難だっただろう。それでもいつでも剣を手に取れるように手の位置を調整した。

「先を急ぎますので、これにて。楽しいお話でした」

 そりゃどうも、と応じながらも観察を続ける。視線には気づいているのだろう。老人がこちらに一礼して横を抜けるように歩き出し、すれ違う。

 二人の間に一歩の踏み込みでも消せない間合いができるまで、じっと身構えているしかなかった。

 緊張する必要がなくなり、また月明かりが周囲を照らした時、老人の背中はだいぶ離れていた。そう、この闇夜で、老人は提灯すら持っていないのは、その一点だけでも何者かから追跡を受けているようなことは示していたのかもしれない。

 罪人には見えなかった。しかし世の中には罪人に見えない罪人は大勢いるのだから、見た目や受け答えなどはただの参考にしかならない。どうせ、願望の混じった推測のようなものにしかならないのだ。

 饅頭をどうにか最後まで食べきり、水筒の水をわずかに飲んで、畑の畔に寝転がった。

 空は雲に覆われている。

 人の気配はもうなかった。



(続く)

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