第37話 極致

     ◆


 剣を教えてくれた老人が、二つの場面を話してくれたことがある。

 片方は、凪が吹く、と表現されていた。剣を向け合っているのに、静かで、穏やかな心地になることがあるという。

 一方、雨が降ることもある、と聞いた。

 その時は、さらさらと霧雨のようなものが降りしきり、その音や肌に触れる感覚がはっきりと感じ取れるらしい。

 今、雨が降っているのを感じる。

 中庭で屋根はないが、夜空は晴れているはず。

 しかし確かに雨が降っている。

 思考の片隅を、本当に微弱な、何かを引っ掻くような音がひっきりなしに止まることがない。

 リイがわずかに足を動かす。刀がかすかに傾き、刃の表面を光が滑る。

 こちらは動けない。

 雨が体にまとわりつく。集中が乱れるのを、必死に繋ぎとめる。

 剣を抜く間隙を、探る。

 その瞬間にリイは切り掛かってくるだろう。

 剣をすれ違わせるか、それとも受けるべきか。

 時間の流れが緩慢になり、思考が二つの選択肢の間で跳ね回り、落ち着かない。

 心が定まっていないことを悟られれば、それまで。

 数秒だろうか、それとも十数秒、あるいは数十秒か。

 光が弾ける。

 右手が剣を引き抜き、足が地面を蹴る。

 リイとすれ違い、お互いに構えを取る。

 二本の刃はお互いに触れることがなかった。仕切り直し。

 しかし剣を抜くことはできた。だいぶ楽になったと言える。

 お互いに手の内はほとんど知らない。流派についての知識もない。

 中庭の砂利が足の置き場を変えることで音を立てる。

 風は吹かない。

 どこかで誰かが騒いでいる。

 静かにしてくれ。

 雨の音が、遠ざかっていく。それに合わせて、全てが消えていく感覚。

 足も腕も体のことも、全てを忘れていく。

 刃が走ることができる場所は、限られている。切っ先が線となって走るのだ。そして切っ先と鍔の間の一本の線だけが、相手を傷つけることができる。

 来るか。

 いつの間にか雨は止んだ。

 凪だ。

 静寂の中に二本の線があり、くるくると踊り始める。

 これは想像の上でのこと。

 実際の刀は、双方が動いていない。

 頭の中で、いかにして相手を切るか、いかにして相手が切りつけてくるか、そんな情景が重層的に思い描かれ、解答へと近づいていく。

 切れるか。

 切れないか。

 パッとお互いが踏み込んだ。

 刃が交錯し、二人が離れ、また踏み込む。

 蝶が舞うような、燕が翻るような、軽やかな刃の軌跡。

 甲高い音がして、決着か。

 手から剣が弾き飛ばされていた。見上げなくとも、頭上で両刃の直剣が回転しているのがわかる。

 どっと体が重くなった。

 リイは集中している。刀が振り上げられ、必殺の一撃がくる。

「助太刀いたす!」

 唐突な声。リイが一瞬の中の一瞬だけ、停滞。

 その間合いの分だけ、余裕ができた。

 背後に誰かがいる。剣士だ。

 見なくても空気の流れか、もっと直感的な何かが、状況を伝えてくる。

 背後から切りつけてくるつもりだろう。

 恐怖を忘れた。

 達人であるリイに背中を向けるのは、究極的な恐怖の克服を必要としたが、この時、はっきりと恐怖は遠ざかっていた。

 死んだと思っている。

 死んだと思わなければ、できない。

 目の前に見知らぬ剣士がいる。すでに刀が振り下ろされてきている。

 唐竹割りの一撃にさっと手をぶつけていった。

 複雑な動きが瞬きよりも短い時間で起こり、その男の刀はこちらの手の中に移っていた。

 よろめいて愕然とする男を無視して、脇の下から背後へ刀を突き出す。

 砂利を蹴立てる音と同時に、リイが離れる。こちらの刀の切っ先はわずかに届かない。

 得物を奪われ、慌てて脇差を抜こうとした剣士の首を素早くなぎはらい、その体が糸が切れたように転倒した時には、改めてリイと向かい合っていた。

 跳ね飛ばされていたのが落ちてきた剣が、すぐそばの地面に突き刺さる。

「素手で剣を奪う技は、初めて見た」

 リイが低い声で言う。

 返事をする余力はない。

 お互いの呼吸が上がり、肩も上下している。

 命がかかる時間は、ただそこに身を置くだけで体力、そして精神力を奪っていく。

 次の一撃で決着しなければ、その次は来ないかもしれない。

 慣れない刀を構え、もう一度、間合いを支配しようとする。

 リイも同様に、刀の構えを取り直し、ジリッと横へ動く。

 ふと、心にその可能性が浮かんだ。

 どうして浮かんだのかは、わからない。

 まさしく直感。

 それに気づいてしまえば、それ以外が来ないのもわかる。

 なんて簡単なこと。

 勝負とは複雑なようで、あるところを通り過ぎれば、一直線になる。

 さっとリイが足を引く。

 迷いを捨てて、飛び込んだ。

 知っていたのだ、その動きは。

 思い切って、ためらわず、間合いを潰した。

 驚いた顔のリイが、至近に見える。

 今から刀を繰り出そうとしても、遅い。

 姿勢が乱れ、それでもリイは速さを競ってきた。

 やはり遅い。

 刀を振り抜き、リイの横をすり抜けた。

 振り返って構えを取り直すが、リイは振り返らない。

 砂利の上に何かが落ちた。

「欲が出たかな」

 そんな声を発して、リイが振り返る。

 その胸は見る間に血に染まっていった。

 一歩、こちらへ踏み出した時、彼の手から刀が落ちる。

 片膝をつき、倒れこむ。

 息を吐いて、深く吸い込み、今度は先よりも強く吐いた。

 倒れているリイのそばに膝をつく。

「何故ですか、リイ殿。お聞きしたい」

 かすれた呼吸をする瀕死の剣士に、訊ねる必要があった。

「何故、最後に、目潰しなどを」

 あのわずかな足の引き方は、不自然だった。不自然だが、それに気づかなければ、次には砂利が飛んできていただろう。

 そうなれば、勝敗はまた変わる。

 でも、どうして、リイほどの剣士がそのような姑息な手段を選んだのか。

「弱い……」

 最後の呼吸でリイはそれだけを言った。続きを待ったが、すでに事切れていた。

 立ち上がり、刀を捨てて墓標のように立っていた自分の剣を手にとって、引き抜いた。

 それを手に提げたまま、屋敷の中に上がった。

 騒動はまだ、続いていた。



(続く)

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