第33話 最後の夜
◆
こちらから何かを言う前に、少女たちが楽器を取り出し、構え、シユは扇を取り出して、ゆっくりとそれを開いた。
三味線と鼓が音を発し、その中で無言のまま、シユが体を動かし始める。
舞いを見たことはあるが、詳しいわけではないので、初めて見る踊り方だ。
シユは無表情のままで、緩急をつけた身振りで動く。袖や裾がひらひらと浮かび上がって、流れる。扇には金箔と銀箔が貼られているからか、振られるたびに光の帯がうっすらと視界に残る。
どれくらいそうしていたか、音楽が止み、三人ともが一礼をした。少女二人が出て行ってから、すっとシユが近づいてきた。
「どうでしたか、私の舞踊は」
「見事でした」
お口が上手ね、とシユが口元を押さえる。
それから料理が運ばれてきたが、今までにない豪勢なものだった。
「このようなものを出していただいても、銭が心許ないのですが」
さりげなくそう聞いてみたが、銭のことはお任せくださいね、とシユはこちらに酌をしょうとする。酒は少しで十分なので、小さな杯を舐めるようにするが、少しでも減るとシユが注ぎ足す。
「マサジ様を、殺してもよろしゅうございますか」
いきなり、前触れもなくシユがそう言った。
視線を向けると、こちらをまっすぐに見ている。
「あの方は私を信用しております。仕留めるのはたやすいかと」
「マサジ様を切るという話は以前から聞いていましたが、それはノヤ殿だけの意思だったはず。ノヤ殿の胸の内は、ノヤ殿の胸の内にだけあるもの。シユ殿にもわからないかと思います。つまり、シユ殿がマサジ様を切る理由は、いずこに? それとも、ご両親のためですか?」
「もっと別のものでございます」
静かな口調には、何か覚悟のようなものが芯として貫いているように、硬質な響きがあった。
「兄を殺した娘のことです」
「……ミツ殿のこと?」
「あの男には、もったいない女子なのでしょう? スマ様を見ていれば、わかります」
どう答えることができただろう。
「シユ殿が何もせずとも、私だけでもミツ殿を助け出すことも、できます」
「私にも責任があるのをお忘れ? スマ様」
すっと徳利が持ち上げられるので、わずかに酒を口に含む。ゆっくりと、しかし少量の酒が器に注がれた。
「ヒロテツ殿をノヤ殿が切ったことを言っているのですか?」
「あれがなければ、兄を殺した男も、その妹も、今でも平凡に過ごしていたと思います」
「それがまさに願望、幻です。現実はすでにその地点から大きく先に進んでいる」
責任とは残るものですよ、とシユが微笑む。悲しげでもなく、何かを割り切っているように見える。
「マサジが死ぬとすれば、それは彼自身の罪であると同時に、イトという女人の悪行にもよるのです。イトの罪をマサジが背負うのは、おかしいことでしょうか、スマ様」
「おかしいとするしかないのでしょう。すでにない人間の罪を、今、生きているものが背負っていては、誰も彼もが罪人になってしまう」
「そこまで大げさでもないのよ。もっとちっぽけな、些細なものです」
しかし人が死にます、と言いそうになり、飲み込んだのは、すでに人が死んでいるからだ。
ヒロテツが死に、ハカリが死に、タルサカが死に、ノヤが死んだ。その前にはノヤとシユの両親も死んでいる。
こうして何かを押しつけ合うのが、世間なのか。
「スマ様、これだけは心にお留めおきくださいね」
姿勢を正してシユがこちらを見る。真剣な表情が顔を引き締めている。
「私が手を汚すのは、一人の女を救うためです。私などどうなっても構いません。まだ先のある女子を、あの男から奪い返す。それが、私にできる責任を全うする術です。どうか、ご容赦ください」
ええ、としか答えることができないのは、情けなかった。
シユだってまだ年老いているわけではない。これから先に、様々な可能性があるはずなのだ。それはたとえ遊女であったとしても、ということ。
それがより幼い、ただの娘のために、何もかもを投げ出そうとする。
自分の兄にまつわる遺恨を、断ち切るためとはいえ、なぜシユが破滅しなくてはいけないのか。
答えは出ないが、シユの方は先に答えを出したようだ。
今日が最後ですよ、と言ったかと思うと、シユがしな垂れかかってきた。手に持ったままだった杯が傾き、酒が畳に落ちる。
のしかかられて、仰向けのこちらの顔を、シユが見下ろす形になった。
「あなたともっと早く出会っていれば、何かが変わったのにね」
そう言って微笑むシユの瞳が潤んでいく。そして唇が噛みしめられ、その唇が次には笑みを形作る。
「これが最後なんて、もったいないわ」
「なら、生きてください、シユ殿」
そう言っても、シユは何も答えず、笑みを浮かべたまま、雫となった涙をこちらの頬に落とした。
ぽたぽたと涙がさらに頬に雨粒のように落ち、ゆっくりと伝っていく。
もう一度、言葉にしようとした。
シユが死んでいい理由など、少しもないのだ。
「これが最後」
そう言ったシユの顔が近づいてくる。
夜はまだ始まったばかりなのに、その夜は最初からどこか救いのない夜だった。
翌朝になるとシユの姿は部屋にはなく、かすかにタバコの匂いがしたが、やはり彼女はいない。身支度をして少し待つと、菱屋の女中がやってきて、お風呂をどうぞ、と静かな声で言った。
「シユ殿はどうしたのかな」
「別のお部屋でお休みです。スマ様とはもうお会いにならないとのことです」
そうですか、としか答えられなかった。
「言伝を頼めますか」
女中が、はい、と頷く。
「また会いましょう、とお伝えください」
眉をひそめられたが、任せます、とだけ念を押して、風呂に向かうことにした。
(続く)
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