第32話 失われるもの

      ◆


 昼過ぎに医者の元へ戻ったが、そこにミツの姿はなかった。

「オリカミ様も困ったものだ」

 診察室でどこか疲れた様子で出迎えた医師が、低い声で言う。

「意識のない娘を連れ出して、何をするつもりやら」

 顔を上げたキジがこちらを見て、不快げに口元を歪める。

 ミツは、マサジの手のものが無理やりに連れて行ったという。

 黙っていると、キジが舌打ちする。

「あの家は呪われている」

「かもしれませんね」

 そっけない返事だ、と言いながら医師は立ち上がり、戸棚の中から酒瓶を持ってきた。医療とは無関係なものだろう。

「報いは誰が与えるのかな」

 こちらは医療のために用意されているらしい器に、ドボドボと液体が注がれた。白く濁っている。

 答えずにいるのを睨みつけてから、キジが酒をあおる。

「きみではないのか、スマ」

「私に人を切れとおっしゃる?」

「これは相応の報いなのだから、許されるだろう、と思うのは、素人考えかな」

 低い声で形だけ笑いながら、キジが二杯目を飲み干した。

「ヒロテツ殿の剣と、スマの剣には何か違うものがある」

 くだを巻くというほどではないが、投げやりな口調は、平常の遠慮が消えているようではある。

「あの方の剣は、何かを代償にする剣だったよ。相手の命が失われると同時に、ヒロテツ殿も何かを失っていった。体の自由ではないぞ。もっと観念的なもの、人間性みたいなものだ」

「しかしそれはいつか、キジ殿が話したものと同じではないですか」

 ジッと上目遣いにこちらを見る彼に、記憶をたどって言葉にした。

「人間の腹の中を見ても、心というものが見つからない、という話です」

「ああ、それか。スマが言いたいのは、ヒロテツが何を失ったにせよ、それは見えるものではない、と言いたいのだな」

「見えないのでは、失ったのか、最初からなかったか、それとも今も隠し持っているか、わかりません」

 屁理屈を言うな、と小さな声でボソッと言い、キジの手がまた器に酒を注いだ。

「お前にヒロテツ殿の何がわかる?」

「ほとんど何も知りません。しかし、キジ殿の話はおそらく正しい認識だと、そう思います。確かにヒロテツ殿の剣や様子には、何かを失ったような、何かが欠けているような気配が感じ取れましたから」

「何を失ったのかなぁ、あの方は」

 首を振る動作は投げやりだった。そうして一息に器を空にする医師には剣士のことはよくわからないのだろう。

 ヒロテツが失ったものの最たるものは、人を傷つけたくない、という願望だと思えた。これがある限り、人を切ることは難しい。

 しかもそれは一番最初に、それも決定的に失われるものだ。一番最初に失われ、もう手元には残っていないのに、不思議と次に人を切るときには、さりげない顔で戻ってくる。

 人斬りを繰り返せば、やがて薄れていくが、完全に消えることはない。そのうちに剣を向け合っていないときでも、自分が他人を傷つけた、という感覚が浮かんできて、それがまさに、人を傷つけたくないという願望を失った自分を、チクチクと刺し始める。

 そんなことを想像していると、どこかで似た関係があるのに気付き、シユの顔が浮かんだ。

 遊女もまた、同じではないか。彼女たちは様々な男の相手をする中で、ある種の純粋さを失いながら、一方でより輝く純粋さを手に入れ、守っている。

 誰か一人に全てを捧げることができなくなった時、彼女たちは愛と呼ばれるもの、純度の高い恋慕を胸の内に育むのではないか。

 そしてきっと、その恋慕の向ける相手が現れないままに、どうでもいい男と過ごし、心に痛みを感じるのだ。

 ガクッとキジが首を脱力させたので、意識が思考の奥から現実へと戻った。

 キジは眠っている。患者のためらしい薄い布団を探し出し、かけてやった。

 とにかく、ミツはマサジに連れ去られてしまった。

 意識のない娘を手に入れて、どうするつもりだろう。そもそもからしてミツはマサジの女になることを取引の材料にしたとすれば、マサジの行動は正当なやりとりの結果だ。

 人間を材料にした取引には不快感があるが、自分自身や家族を銭の代わりにしなければ、生きていけない場面もある。

 医者の建物を出たところで、剣士が三人、待ち構えていた。しかし剣を抜くようではない。

 一人が進み出て、小さく頭を下げてから、懐から小さな巾着を取り出した。

「マサジ様より、娘の治療費をお届けするように、仰せつかっています」

 手のひらの上の巾着を見てから、剣士の顔へ視線を移すが、彼らは顔を上げない。

「ミツ殿をどうするおつもりですか、マサジ様は」

「それはそちら様には関係のないこと」

 やっと顔が上がるが、その表情には嘲笑がある。

 娘を奪われて、娘に裏切られて、無様だな。

 そんな聞こえない声がしたが、それは自分の妄想。人の心は見えないものだ。

「受け取られよ、スマ殿。これで手打ちということです」

 剣士がこちらに手を伸ばし、巾着を持たせようとするが、体が自然と動いていた。

 こちらの手に触れた相手の手を逆に取り、引きずり、返し、振り回した。

 悲鳴を上げた時には剣士は地面に倒されている。

 他の二人が反射的にだろう、刀を抜いたが、こちらにはその気はない。

「金は受け取らない。不愉快だからです」

 投げられた剣士も解放されると大きく間合いを取り、刀を抜いた。

 三人と向かい合っても、不思議と恐怖は感じない。

 死ぬかもしれない。

 不意にキジの言葉が蘇った。

 人を切るときに、何かが失われる。

 恐怖は、失われてしまったのか。

 足元に落ちている巾着を拾い上げ、一人に投げつけて、堂々と背を向けた。背後から切り掛かってきたら、その時は斬り合いを始めるつもりだったが、彼らは動かなかったようだ。

 シユが気になったので、菱屋へ向かった。すでに時刻は夕方を過ぎ、薄暗い闇が降りてきていた。

 女郎屋の前では客引きたちがすでに通りに出ている。彼らとは顔見知りになっている。客というふうには見ているようだが、シユが見初めた特別な客、という立場らしい。

 建物に入ると店のものの幼い娘が、シユ様がお待ちです、と声をかけてくる。

 二階のいつもの部屋に上がると、シユの姿はない。

 座り込んでしばらく目をつむっていると、襖が開いた。

 おしろいの匂いが鼻先を掠める。

 目を開けると、きっちりと化粧をして派手な着物を着たシユがいる。その背後に二人、楽器が入っているのだろう包みを持った少女がいた。



(続く)

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る