第30話 死
◆
鈍い音と湿った音がした。
ノヤは刀をだらりと下げたままだった。
そのノヤの背中から、銀色に輝く短刀の切っ先が飛び出している。
吠えたのは、タルサカだった。ノヤが押し込まれ、足から力が抜け、仰向けに倒れる。タルサカがそれに覆いかぶさり、短刀を引き抜いた。
血飛沫が高く飛んだ。
やっとタルサカを跳ね飛ばすことができた。尻餅をついたタルサカが恐慌状態で向かってくるのを蹴り飛ばす。手から短刀が離れ、地面に転がった。
「ノヤ殿!」
倒れているノヤを見るが、胸の真ん中を貫かれている。口からも血が溢れ、手足が痙攣していた。
「ノヤ殿、しっかり、しっかりしてください!」
曇り始めた瞳が、まっすぐこちらを見て、その口が何かを告げているが、息ではなく血だけがそこから流れ出し、言葉にならない。息も見る間に弱くなる。
痙攣が止まる。
そのまま何も言い残せずに、ノヤの意識は途絶え、呼吸が完全に止まった。
誰かが笑っている。
タルサカだ。
振り返ると、そのタルサカのすぐそばにラクに付き添っていた娘がいる。
ミツだ。
そのミツの手に、タルサカがノヤを殺すのに使った短刀がある。
「やめろ!」
説明不能な予感に貫かれ、反射的に叫んでいたが、ミツは手を止めなかった。
短刀がタルサカの首筋を切り裂き、次の瞬間には彼の返り血でミツが真っ赤になる。
タルサカは喉を切り裂かれても、不自然な声で笑い続けていた。そして痙攣し、動きを止めた。
それを最後まで見ていられなかったのは、ミツだけでも救いたかったからだ。
ミツの手は短刀を手放し、代わりに小さな瓶を持っている。
あの瓶は、決闘の前にラクとノヤが酌み交わした液体が入っていた瓶だ。
その瓶をぐっとミツが煽り、直後、その瓶を蹴り飛ばすことには成功した。瓶が地面で割れ砕け、液体が勢いよく撒き散らされる。土の色が変わった。
倒れこんだミツが上体を起こし、悲しげな笑みをこちらに向けているのを見て、しかし構う余裕もなく、彼女の腹を殴りつけていた。遠慮せず、本気でだ。
くぐもった声とともにミツが胃の中身を吐き出す。
打撃のせいでミツは気を失っているが、その体が痙攣を始め、震えが激しくなっていく。
くそ、毒だ!
医者のところへ連れて行くしかない。周囲の人垣がざわめく中で、ノヤとラクとタルサカの死体をそのままにして、ミツを背負い上げた。怯えと困惑が同時に支配する人垣を割っていく。
いつかの医者のところへ駆け込み、毒だと思うと告げると、その毒はどこか、と聞かれた。
瓶を割ってしまったので、もう毒の入った酒は全て地面に吸い込まれている。迂闊だった。
「できる限りのことはするが、期待するな」
医者は冷ややかな目でそういうと、壁にある戸棚から薬を選び出し始めた。
すでにミツは痙攣しておらず、傍目には死体に見える。顔色どころか、手指さえも血の気が消えていた。
迂闊。不覚。
警戒できたはずなのに、最後で詰めを誤った。
医者が薬湯を作り、ミツに飲ませているが、その雰囲気には諦めの色が濃い。
断って外に出て、ノヤの道場へ戻ることにした。
道場には門人がすでに集まり、ノヤの死体は道場の中に運び込まれていた。ラクの死体とタルサカの死体は、道の隅に横たえられ、むしろが被せられていたのを見た。
門人が涙を流しているのを端から見て、本当にノヤが死んだことが理解できた。
ノヤほどの剣士が、毒を飲まされたところを襲われるなど、不満しかない最期だっただろう。
剣士というものは剣で死にたいと思うものだ。それも全力を尽くしても勝てない相手を前にして、万策尽きて死ぬことを、望む。
あの砂を蹴っての目潰しもまた、ノヤによるあがきだった。
あれもまたノヤの力で、ノヤはヒロテツに卑怯とはいえども勝ったのだ。
タルサカはノヤに勝っただろうか。
勝ってはいない。しかしノヤを殺すことはできた。
勝敗と命は、また別の問題か。
どれくらいそこにいたのか、不意に場が静まり返り、門人たちが視線を玄関口に向けている。
振り返ると、上等な着物を着た若者が立っていた。
悲嘆ではなく、どことなく高揚を含んだ表情で、彼は板の間に進み出て、ノヤのすぐそばに膝をついた。門人たちが姿勢を整え、やや離れた。
マサジは無言でノヤの手に触れ、頭を下げ、目を閉じたようだった。
死の弔いに訪れた様子を見せているが、何かが違う。
シユが言っていたことが、本当だったのか。マサジはノヤの死を望んでいたのだろうか。
しばらく瞑目してから、すっとマサジが立ち上がった。
「この件は私が預かろう。下手人はどうした」
門人の一人が下手人の一人は死んだことを告げ、生きている娘は医者に運んだ、と説明した。
「誰が運んだ。どこの医者だ」
門人がこちらを指差し、振り返ったマサジが目を細める。
「また会ったな、スマ。娘を運んだ医者を教えてもらおうか。死んでいるのなら、用はないが」
「おそらく、死ぬでしょう」
自分の言葉に自分自身が傷つくことは、ままあることだ。しかし何度、体験しても慣れることはない。
じっとマサジがこちらを見て、ゆっくりと歩み寄ってくる。
本当は膝をつくべきだっただろう。
でも今は何かが違う気がした。なので真っ直ぐに立ったまま、マサジと相対した。背丈はこちらの方が高いので、見下ろすような形になる。
「生きているのなら、屋敷に知らせに来い。いいな?」
はい、と低い声で返事をすると、マサジは不快げな顔になったが、もう何も言わずに身を翻した。
彼の姿が玄関の向こうに消え、本当の落胆がやってきた。
死者を前にして取る態度ではない。
彼も、自分もだ。
(続く)
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