第29話 盃

     ◆


 門人たちのかけ声は、道場の奥の小部屋では小さく聞こえる程度になった。

「ヒロテツ殿の?」

「タルサカ殿という兄と、ミツ殿という妹です。ノヤ殿を狙っているのは間違い無いかと」

「どのような手段に出るかな」

 顎を撫でながら、ノヤが頭上を見上げる。そこに何かがあるわけでは無い。

「用心してください」

「実は、決闘の申し込みがあったのです」

 予想外の言葉だったが、ノヤの様子では、タルサカでもミツでも無いのだ。

「名前はラクというらしい。旅の剣士と聞いています」

「いつが期日ですか」

「今日の午後です。道場の外で、と伝えられました。そうですね、あと二刻ほどです」

 決闘を申し込まれた日にも門人を指導するのは、余裕というより、平静さを保つための行動かもしれない。普段と違うことをすると、流れが悪くなると考えるものは多い。

「まさか、兄妹が剣士を雇ったのかな」

 そんなことをノヤは口にするが、不安がっているようではない。おそらく彼はこの近辺で名を挙げている剣士をおおよそ、把握しているのだろう。そしてその中にはラクという名前がないのだ。

 余程遠くから連れてくるかしないと説明できないが、兄妹が消えたのがつい数日前で、そこまですんなりと助っ人を、それも十分な力量のものを雇えるわけもない。

「念のため、スマ殿も立会人として、そばにいてください」

「わかりました」

 無言で頷き返したノヤだが、すぐに首を振った。

「ヒロテツ殿は、伝説の剣士と言っても良かった。そして彼を倒すことは、ある側面では名声になるはずだった。今、まったく誇らしくないこの気持ちは、私が卑怯なことをした報いでしょうか、スマ殿」

「しかしあそこで、ヒロテツ殿が勝っていれば、それはそのままノヤ殿が死んでいるわけですから、考えても仕方ありません」

「私も少し、衰えたかな」

 冗談だと思ったので、無言で笑みを返すにとどめた。

 三十にもならない男が、衰えたなどと口にするほど、剣の道は過酷ということだろう。衰えたと口にすることで、衰えているわけがないと自分を叱咤するほど、心が擦切れるものだ。

 二人で道場へ戻り、しばらくノヤが門人を指導するのを見て、昼に門人たちの数人は帰っていった。

 軽い昼食を食べ、ノヤが道場の中で居合の動きを確認し、それからいくつかの型を繰り返すのも見た。剣の冴えは抜群だ。

 これだけの腕なら、ヒロテツとも堂々と渡り合えたのではないか。

 技術的にはきわどい勝負になり、体力の面では圧倒的にノヤが有利だったと、今なら思える。

 それはヒロテツがすでに死んでいるからかもしれないが。

 死ぬというのはそれくらい、残酷なほどの評価を意味するのだと思うと、わずかに死の重さが増す気もする。

 時刻の前に身支度を整えたノヤとともに道場の外に出た。

 少し待つと、若い剣士がやってきた。小柄な娘を従えているが、頰被りでよく見えない。

「ノヤ殿! 決闘を申し込んだラクというものだ!」

 剣士がそう叫び、通行人が足を止め始める。

 ノヤが応じようとすると、ラクが朗々とした声で言う。

「決闘を前に、酒を酌み交わしたい。剣の神へ、正々堂々と戦うことを誓うためだ」

 そんな流儀は聞いたことがない。ノヤも困惑したようだと雰囲気でわかる。

 猜疑が色濃い空気を破るように、ラクが続ける。

「なんでもノヤ殿は決闘において卑怯な手段を用いたとか。それをまたやられたのでは、敵わぬからな」

 これにはノヤも反論ができず、お受けしよう、と返事をした。

 ラクの横から娘が酒の入った器を差し出し、それをラクが口に運ぶ。器は一つしかないようだ。そしてラクが堂々と進み出て、ノヤに器を差し出す。

 作法もないと見て取れたが、ノヤは器を両手で受け取り、捧げ持つようにしてから、その中の液体を一息に飲み干した。

 嬉しそうに笑い、ラクが突き返された器を手に取り、雑に投げ捨てた。そのままノヤと距離を取り、よくある決闘の間合いで振り返ると、腰の刀を勢いよく抜いた。

 ノヤも居合の構えを取る。

 二人がじりじりと間合いを測る。

 どうもラクという剣士はそれほどの使い手ではない。こうして見ていても、構えには隙が多いように見える。そこに飛び込めば一撃で倒せそうだった。

 そうできないのは、あまりに露骨な隙なので、何かの誘いかもしれないと疑うからだ。

 実力で劣る立場の剣士は、この手の誘いを使わなければ勝てないものだから、誘いなのか本当の隙なのかは、十分に警戒する必要がある。

 攻撃の瞬間に同時に防御を行える剣士は少ない。ノヤならできそうなものだが、安全策を取っているらしい。

 そのノヤの切っ先がわずかに揺れる。ノヤの誘いである。

 まるで知っていたように、ラクが踏み込んだ。

 二本の刀が交錯し、二人が距離を取る。

 地面に赤い斑点が飛び散っていた。

 うめき声を上げたのはラクだ。左肩を深く切り裂かれ、腕にも力が入っていない。それでも無事な右手で刀を構えるが、左肩の傷は致命傷だ。血が止まらず、あっという間に半身が深紅に染まっていく。

 ノヤは何をしているのか。

 なぜ、とどめをささない?

 光が瞬くような短い時間の攻防だったが、ラクの刀はノヤに触れていなかった。

 こちらからは、ノヤの横顔が見える。

 その顔が真っ青、いや、土気色になっている。

 一度、咳き込んだのが見えた。そしてぐらりと、体が揺れる。

 ラクが絶叫し、そのノヤへ飛びかかった。ラクはもちろん、ノヤも姿勢が乱れている。

 そこへ飛び込んで割って入ることができた。

 できたが、それより先にノヤが動いた。

 不完全な体勢でも地面を蹴り、ラクとすれ違う。

 激しい血飛沫が上がり、どさりと投げ出されるようにラクが倒れた。手は刀を放している。

 ノヤが立っている。

 ノヤの勝ちだが、何かがおかしい。

 周囲を囲む通行人の群れから、その人物が飛び出してきたのに気付けたのは、少数だっただろう。

 タルサカだ、と思った時には、彼はノヤに突進していた。

 ノヤは、動こうとしない。



(続く)

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