第11話 酔漢の妄言
◆
翌日の朝、旅人に混ざって旅籠の一階の座敷で朝食を食べていると、その男がふらっとやってきた。
ふらっと、というのは、何気なくという意味ではなく、実際にフラフラしているのだ。
横をすり抜ける時、酒の匂いがした。一晩中、飲んでいたのかもしれない。その割には体は際どいところでまともに動いているし、意識が朦朧としているようではない。
目が正気なのも気になった。
腰に刀があるが、それよりも体の運びに熟練の技が見えた気がした。
こういうものが稀に現れるものだ。酒に溺れて、しかし確かな技を持つ剣士。剣士を続けるというのは、ある時には正気と狂気の間に踏み入ることにもなるのだ。
そして狂気に触れそうになると、酒で現実が崩壊する恐怖から逃避する。
その剣士を無意識に見ていると、少し先へ行ったところで、ぐるりとこちらを振り向いた。図らずも視線が合ってしまった。酒気に覆われた、曖昧な瞳の色にも見えるが、その奥には理性的なものがたしかにある。
「一緒にいいかね」
声も意外にはっきりしているじゃないか。どうぞ、と卓の向かいを示すと、男はゆらゆらと座り込み、すぐに女中が持ってきた湯飲みの中身を飲み干した。熱いお茶ではなく、水を出したらしい。
「ここの飯は安くて美味い」
ボソッと男がそういったかと思うと、ニタリと笑う。稚気と傲慢の混合物の笑み。しかしそれは酔っているからではなく、普段からそんな風に笑うらしい。
「しかし部屋代は高いがね。泊まっているんだろう?」
「ええ、この街は初めてですから、安い旅籠は知りませんでした」
食事の合間にそう応じると、男は何度か頷く。
「どうしてこの街に来た? 何が面白い?」
「通りかかっただけです。それほど長居するつもりはありません」
「朽木の噂を聞いたんじゃないのか?」
さすがにこの一言にはぎょっとしたけれど、どうにか冷静さを維持した。剣士の技の一つである。
「朽木という剣士をご存知なのですか?」
「ご存知も何も、奴を切るために俺はここに呼ばれたんだ」
「呼ばれた? 誰にですか?」
「それはもちろん、オリカミ様だよ」
マサジの事だろうか。それとも彼の父親か。
しかしオリカミという人物はヒロテツに屋敷を与えようとしたはずだ。それが今更、ヒロテツを切るだろうか。
「不思議かね」
女中が注ぎ直した水を飲み干し、酔漢がこちらに身を乗り出す。
「今や、あの男を切ったものは英雄になれる、って事さ。それも自分で切る必要はない。切ったものを雇ったものも英雄ってことになる」
「もう第一線を退いた、老人ですよ」
はぐらかすためにそう口にしても、酔漢は少しも動じなかった。
「年を取ろうが、人斬りは人斬りだ。死ぬ瞬間まで、人斬りだ。そうだろう? お前も剣士ならわかるはずだ。それともそんなことも思わない恥知らずか」
「いえ、理解はできます」
恥知らずと呼ばれることが嫌な訳じゃない。
今までに自分が切って捨てた相手を、愚弄したくないだけだ。
「まあ、そのうちに動きもあろう。あの老人の剣は鬼気迫るものがあるぜ。とにかく、すごいんだ」
「ご覧になったことがある?」
「二度ほどね」
男は三杯目の水を飲み、やっと女中に料理を頼んだ。
「この街は危険だぜ、旅人さん。用心しな」
席を立とうとすると、やっと料理を食べ始めた男がそんなことを言った。
「お気遣い、ありがとうございます」
「案外、あんたを切るのが俺かもしれないぜ」
立ち上がったまま、まだ座っている酔漢を見る。やっぱり酒気が濃密なのに、料理の器を持つ手も箸を持つ手も安定している。
「スマと申します。貴殿のお名前は?」
酔漢がチラッとこちらを見上げる。
「リイと言うものだ」
「リイ殿、貴重なお話をありがとうございます」
「感謝するな。お節介だったとこちらが恥ずかしくなる」
二階に上がり、自分の部屋の畳に寝転がった。すでに朝という時間ではないが、昨日のヒロテツとの約束は反故にするしかない。ハカリの存在がやはり気になった。
非論理的だが、この社会において正しいとされることは、観念的に正しいことだけではない。
剣をもって押し付ける正しさ、というものがある。
それはその場限りの暴力による強制に見えて、実は社会自体をより悲惨にさせてもいる。
誰かが死ねば、それに連鎖して新しい死が現出する。その死はまた別の死を、と終わりなく続く、報復に次ぐ報復がそれだ。
なら最初の動きを止めれば、それでどうにかなるのだろうか。
ヒロテツのことは心残りだが、もうイチキの街を出るべきかもしれない。
そうと決まればすぐ行動するべきだろう。荷物をまとめて一階へ降り、番台で手続きをした。
「そんなに急いで、どちらへ行きなさる? この時間では隣の宿場に着くまでに夜になってしまいますよ」
「わかっていますが、やや揉め事がありまして」
「犯罪、という雰囲気でもないですね。良いでしょう。提灯でも持って行きますか。差し上げますが」
丁寧にしてくれた番頭に礼を言って提灯をもらう。折りたたんで、火種ももらった。
そのまま旅籠から真昼の往来へ出て、イチキの真ん中を走る道を通り抜ける。食事として茶屋で饅頭を買おう。
「あら、スマ様じゃないですか」
その茶屋に入ったところで、危うく額を手で押さえそうになった。
その茶屋で女中として働いているのが、ミツだったからだ。
身を翻そうとするより前に、ミツが駆け寄ってきた。
「お父様と将棋をするお約束では? もう終わったのですか? 旅装束なんて着て、出て行くのですか?」
「そう」急いで店を出たい。「饅頭を六つほど、貰いたい」
「店の中でお待ちくださいね」
どうするべきか判断するのが困難で、仕方なく流される形で店に入った。
本当に参ったな、これは。そう思いながら、饅頭が出てくるのを待つ。すぐに包まれた饅頭がやってきた。
「世話になりました。ヒロテツ殿とタルサカ殿によろしくお伝えください」
礼を言って店を出たが想像通りのことが起こった。
往来で、二人の剣士が立ちふさがり、刀を抜いたのだ。
(続く)
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