第9話 十七人斬り
◆
雰囲気が暗くなったのは、太陽に雲がかかったからだけではないだろう。
「まだ二十歳やそこそこの時、戦がありまして、私はただの農民の三男坊でした」
二十年以上前なら、確かに戦が数多くあった。乱世と呼ばれる時代、その最中だっただろう。
「槍と剣で、殺せる限りを殺し、逆に殺されそうにもなりました。ただし、敵の足軽大将を切ったことで、運命が変わった。オリカミ様の目に止まり、農民から侍となることを許されたのです」
「それは、誰もが羨む、という奴ですね」
「オリカミ様は、家臣に対して私に剣術を習うように指図されましたが、新興の武家であるオリカミ家でも、武家のものが農民の若造に従うわけもない。そうして初めての決闘があったのです」
「お家の中で、ですか?」
ええ、とヒロテツが頷く。声の重さに対して、顎は簡単に引かれた。
「そうなりますね。お互いにまだ若かった。そして手加減など考えなかった。私は相手を切った。オリカミ様は私に銭を与え、私に屋敷から離れるお許しをくだされた。本当は屋敷を与えるとおっしゃったが、それは断りました。余計な恨みを買いたくなかったのです。それでこの長屋に入ったのです」
「それでも、恨みは残った?」
「オリカミ様の配下の者で、腕に覚えのあるものが挑んできました。私を切れば指南役になれる、という願望でしょう。最初の三年で、五人を切りました。一人でやってきたのが二度、三人同時が一度ということです」
三対一は、さすがに躊躇われる状況だ。もし自分だったら逃げるか、一対一を強制できるように策を練るだろう。もちろん、相手は数で押そうとするのが自然だが。
「三人を相手取った時、足を切られた。右足です」
反射的に彼の足を見るが、もちろん、失われているわけではない。
「それからは、右足が不自由になりました」
「しかしまだ、六人しか切っていない。あと十一人はどうしたのですか?」
「不自由な足でも、剣を振るのは腕ですからね」
からかうような響きがあるが、とても笑えない。
足が思うままにならないのに、上半身だけで戦うのは困難だ。
「腕も不自由にお見受けしますが、それでも剣を振れるのですか?」
「腕は二本ありますからね」
そう言ってくすくすと笑うが、やはり笑えるような内容ではなかった。
剣術の道を進むものとしては、片腕と片足が万全ではない状態で、相手を切って自分が生き残るのが至難だということは、日を見るより明らかだ。
剣を知らないものは理解しないが、剣術とは上半身と下半身の釣り合いと、その繊細な制御の上で剣を繰り出すものだ。
片足と片腕が不自由で、では、どんな剣が振れるのか。
しかし実際に、ヒロテツはこうして生きてもいる。
「それで、十一人を不完全な体で、切ったと?」
「腕が不自由になったのは八人目として切った相手に、肘の少し下を断ち割られた時です。半年は動かせなかった。その間に九人目が挑んできて、片目をやられた」
「左目ですね。見えないのですか?」
「全く見えません。しかしやっぱり、目も二つある。人間とは面白いものです」
この初老の男性が十七人を切ったことは、どうやら事実らしい。
しかし、疑問の中でも一番大きなものは、不自由な片足と片腕、半分の視界で、どうやってそれだけを切ったのか、になる。
剣術というものは、ある種の理論で組み立てられている。合理的に勝利を目指す筋道である一方、非合理を取り入れて勝利を目指す働きも併せ持つ。
ただし、両手で剣を振るう技術の持ち主が、いきなり片腕だけで剣を振るうなど、どんな剣術でも想定していない。足もそうだ。片足の動きが鈍いのでは、それまでの自然な足捌きが根本的に使えなくなる。
ヒロテツが言うには、十人目からの八人を切っていく時には、万全とは程遠い体になってしまっていたことになる。
いきなり猫の鳴き声がしたかと思うと、長屋の裏へ一匹の白猫が入ってきた。ヒロテツが舌を鳴らすような音を出すと、その猫が近づいてきて彼の膝に飛び乗った。
その猫を撫で始めるヒロテツの腕が袖から覗いた時、そこにも無数の傷跡があることに気づいた。
「宿のものが」やや声がもつれてしまった。「血まみれだったと、話していました」
ちらりとヒロテツがこちらを見てから、猫に視線を落とし、その意外に整っている毛並みをゆっくりと撫でる。
「赤の夜叉、そう呼ばれていましたね?」
「そう呼ぶものもいました。私が傷を負っているからでしょう。血で汚れないところはないほどでした」
どういう意味か、捉えるのが困難だった。
ただ、やはり想像はできるのだ。荒唐無稽な想像だとしても。
「傷を受けることで、相手を倒したのですね?」
ああ、とヒロテツが猫から顔を上げ、こちらを見た。
その表情にあるのは、満面の笑みだった。
「スマ殿は正しい目をお持ちだ。その通り、相手の剣は、避ける必要がないものは避けないのです」
「それで、臆病の話を……」
そこで思わず声につまり、それきり声が出なくなっていた。
ヒロテツという剣士の剣術は、まさしく臆病を克服した精神力、そうでなければ臆病を完全に制御したその精神力から来るのだろう。
相手の剣を受けることを躊躇なく容認することで、タルサカに話したような、十回のうちの一回の勝利を招き入れる、狂気じみた剣術か。
そんな技を扱える素質の持ち主など、ほとんどいないだろう。
恐怖を感じない人間が極めて稀だからだ。
「それでもだいぶ工夫しましたよ」
猫が眠り始めたのを見下ろしながら、剣を実際に見ずともそうとわかった、超人じみた剣術家は、淡々と言う。
「剣を振れなければ相手を切れませんし、足を使わなければ、やはり相手を切れません」
ええ、それは、としか答えられなかった。
ヒロテツが眼を細める。優しいとも言える視線だ。
「昼食を食べていったらどうだね。タルサカは剣は平凡でも、料理はうまい」
「では、お言葉に甘えて、頂戴します」
「豆大福は久しぶりに食べたが、美味かった。ありがとう」
人を斬る話は、終わってしまった。
それから仕事の合間にタルサカが用意した食事を、三人で食べた。タルサカがこの時だけは饒舌に旅のことや剣術のことを聞きたがったので、かいつまんで説明した。
一番手強い相手は誰だったか、という質問が最も答えづらかった。
「次にぶつかる剣士が、一番手強いでしょう」
そう答えると、タルサカは目をパチパチさせ、その様子にヒロテツが小さく声を上げて笑っていた。
縁側の方で、猫が鳴いているのに、ヒロテツが食事の中の一品の干魚のひとかけらを縁側へ投げた。
(続く)
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