見上げたゲームにおちていく

 帰宅。僕の下宿先は小さなアパートだ。大学に入り一人暮らしのために借りた物件だ。学校と駅から遠く、だいぶ歩かないとコンビニも無い場所だがその分家賃は安い。ワンルームだが、どうせ布団と机ぐらいしか置くものも無いので、見た目よりは広いと感じる。

 鞄をベッドに放り投げ、ネクタイを緩める。部屋着に着替えるのは面倒くさい。椅子にどかっと座り、PCの電源を入れる。

 しばらく適当にネットサーフィンをしていたが、どうも頭の中を今日のことが掠める。どうにもこうにも気になって、何にも集中できない。画面を漠然と見つめるだけで、その情報が脳に入ってこない。


「ハァ……ふざけた部活だった」


 文芸とは真逆の存在。エロゲを作る部活。それだけならまだしも、変人と変態だらけの集団。実に馬鹿馬鹿しくて、碌でもない。

 本気でふざける、という言葉の意味が理解できない。今までの人生の中で体験したことのない言葉。本気であることとふざけることは二律背反なのだと、僕の脳には登録されているはずだった。


「……やるか」


 どうせ家でやることもない。受け取ったUSBメモリをパソコンに繋げ、中のファイルをインストールする。後はファイルを開けばゲームのタイトル画面だ。

 『レディ、レディ、レディ』。それがこのゲームのタイトル。


「ふふっ、チープだな」


 オープニングムービーも主題歌も無い。女の子の絵が一枚あるだけの簡素なタイトル画面。素人作品ならこんなものだろう。


 オートモードにして画面を眺める。後は自動的に文章と音声が流れてくれる。まあ暇つぶしにはなるだろう。後は明日、適当な感想を言えばいいだけだ。

 そんな考えは三十分もしないうちにぶち壊された。


「なんだこれ……」


 面白い。ここまで物語に引き込まれた経験はほんの数度しかない。そのうちの一回がこれだ。世界に吸い込まれて逃げられない。

 出来の悪い小説だと何度も栞の位置を入れ替える必要がある。中座したり、途中で飲み物を取りに行ったりという作業を何度も行うからだ。中々物語に集中できず、すぐに別のことに意識が移るのだ。

 だがこれにはそれがない。引き込まれた。

 喉の渇きも、疲れも、尿意すら気にならない。視界の中央に画面が収められたまま動かない。

 昔、引っ越しで別れてしまった幼馴染と再開して、再び友達になって、親友になって、そこから恋人になってというよくある話だ。似たような話はそこら中に転がっているだろう。手垢のついた設定だ。

 深い考察があるわけではない、大きな伏線があるわけでもない。世界観なんて考えるまでも無い。

 だが、そんなことは関係ない。文章のテンポが、バランスが心地いい。読み取るのが苦痛じゃない。ただただ脳にするりと入ってくる。


「なんで面白いんだ……!?」


 目新しさはない。どんでん返しも無い。けれども目が文章を追うのが楽だ。心の中に登場人物の心情が簡単に入る。感情移入が楽で、そのくせ中々解けない。世界観から脱出できない。

 面白さの仕組みは分からない。使い古されたUI。素人の少ないボイス。目新しくも無い設定。少ない一枚絵。しかしどれもこれも魅力的で、僕の心を掴んで離さない。


「ちくしょう可愛いなこのヒロイン」


 使い古された設定のヒロイン。しかし柔らかいタッチの絵が雰囲気と合っている。それ以上に一つ一つの表情が細かく動き、彼女の心理描写を補填する。

 基本だが単純ではなく、柔らかいが軽くはなく、ゆっくりだが遅いわけではない。ただただ緩やかに作品内で時間が流れる。


『あなたのことが……好きです』

 声優の声もすんなり耳に入る。雰囲気に合った柔らかい声が心をくすぐる。


「エロゲ、甘く見てたな……。あーくそ! 腹立つな!」


 気づいたころには日付が変わっていた。BGMと共に流れるスタッフロールの人間の少なさは、これが素人作品だということを嫌でも理解させる。

 約五時間近く、僕の視線を画面から逸らさせなかった。トイレに立とうとすら思わなかった。スタッフロールが終わってタイトル画面に戻り、初めてまだ晩飯を食べていないことに気付いた。

 一息つき、ウインドウを閉じる。面白い作品に出会った後特有の読後感というか達成感というか、何かで心が満たされていた。


「僕より面白い物を作るなちくしょー! 作家志望の立場がないだろ!」

『ドン!』

「すいません壁ドンやめて」


 隣の部屋の人に怒られてしまった。流石に日付変わった後に叫ぶのは駄目だった。小声で謝りながら、身を縮こませる。

 たかがエロゲだと、たかが素人の作品だと馬鹿にしていたが、間違いなく自分の小説より面白い。勝っている要素がないと我ながら確信している。そしてその差は媒体の差ではない。

 ファイルから自分が昔書いた作品を開く。ラノベ新人賞に送って一次落ちで返って来た。これとは雲泥の差だろう。実際数ページ読むだけで恥ずかしさが込み上げてきた。さっき濡れ場シーンを見ても恥ずかしくなかったというのに。


「く、黒歴史……」

 恐るべし文芸部。わずかばかりのプライドが粉々に破壊された。これに比べれば自分の作品のなんとつまらないことか。媒体こそ違うが、そんなことは言い訳にならない。

 曲がりなりにも作家志望の自分の方が優れているなどという考えは簡単に打ち砕かれた。月とスッポン、釣り鐘と提灯。


「ぐおお……自己嫌悪……!」


 頭を抱えて額を机に載せる。自分の作品の駄目さ加減を考えると恥ずかしさに近い何かが込み上がって来て顔を上げられない。


「あーもう、僕の心が弱すぎる」


 作家志望は心が弱いのだ。こういう風に実力差を見せつけられると挫折しそうになるのでやめていただきたい。いや、悪いのは実力が無い自分だということは分かっているのだけれど。

 とりあえずふて寝でもして硝子のハートを癒そうかと思った瞬間、携帯電話の着信音が鳴り響いた。こんな時間に誰だ? 画面を見ると知らない番号からである。間違い電話かと思いつつ耳に当てる。


『もしもし。これはうちの部員である橋上友樹の電話番号であっているかな?』


 聞き覚えのある声。女性にしてはやや低い、柔らかいアルトボイスを持つ人間は僕の知己では限られている。


『もしもし? ボクだよ。文芸部部長の柳田香苗だ。夜分遅くにすまないね』

「……分かってますよ」


 電話帳に登録されておらず、なおかつ今日かけて来そうなのは彼女ぐらいだ。


「何の御用ですか柳田先輩」

『おいおい、せっかくの楽しい部活なんだ。下の名前でいいよ。もちろん僕だけでなく、他の全員にもね。ボクも君のことを下の名前で呼ぶから。嫌ならあだ名で呼ぶよ。そうだなぁ……橋上友樹だから……ステファニーなんてどうだ?』

「下の名前でお願いします」


 独特のネーミングセンスだなこの人。僕のどの辺にステファニーっぽさを感じたのだろう。女性名だし、音も一文字たりともかぶってないのに。


「それで香苗先輩、何の御用で?」

『単刀直入に訊こう。君に渡したゲーム、どうだった?』


 その言葉が何について尋ねられているかを訊き返す必要は無い。僕はちらりとパソコンの画面を見る。


「……面白いです。悔しいですけど」


 悔しい、という感情では言い表せない。自分の身近な人間が自分より高みにいる。それを数字や賞の有無ではなく、作品で見せつけられた。その差は歴然で、嫌でも自分の無能さを知ってしまう。

 こんなに面白いのは久しぶりだった。それを電話口でどう伝えるべきか、上手く言葉にできない。とにかく面白くて、女の子がかわいくて、目が離せなくて。そんなボキャブラリィの乏しい言葉でどうにか感想を伝える。そんな僕に部長は文句を言わず相槌を打ってくれた。


『それで、興奮した?』

「それはノーコメントで」


 流石にシナリオを買いた本人に対して興奮したかどうかなんて言えない。どんなプレイだ。羞恥心というものが僕にもある。男友達ならまだともかく、今日会ったばかりの年上の女性に語るにはいかんせん荷が勝ちすぎる。


『射精した?』

「ノーコメントって言ってんでしょ!」


 そんなに僕の下半身が気になるのかこの人は! 教える気なんてないに決まってるだろ!


『ボクとしては素直に感想を聞きたいのだけれど……ま、青少年は複雑だからあまりつっつかないことにするよ。で、ここからが本題だ』


 こほん、と電話口で上品な咳をした。そこから一息を置いて、部長はゆっくりと話し始める。


『君はライトノベル、ボクはゲームシナリオ。道は違うとはいえ、根本的な部分は一緒だ。楽しそうだろう? 君もやらないか?』


 それはとても魅力的な提案で、僕は反射的に承諾の返事をしようとした。しかし、脳裏にあの部室の光景がよぎる。積み上げられたエロ本、性癖を晒す部員たち。やっぱりやめとこう。


『ボクらの作品を見て、作ってみたいと思わなかったかい?』


 思った。思ったに決まっている。あんな面白い物を見せられて、自分もと憧憬を抱くのは当たり前だ。だけど、それを素直に声に出せるほど僕は素直な人間ではないのだ。


『君にもそれを作ってもらう。ライターが変わって質が落ちたなどと思われないよう努力することだ』

「僕まだ入るとは言っていないですけど……」

『入らないのかい?』

「……」

『君も物書きの一人、クリエイターのはしくれとして興味がないわけじゃないだろ? 自分の作った作品がゲームになり、実際に売られる。飛びつかないわけがない』


 今すぐにでも飛びつきたいと思っている。自分の作品が商品になり、値段を付けて売る。そんな経験、滅多にできるものではない。しかも作家志望の僕にとっては自分の文章を売るなんてことができるチャンスだ。


「……だけど僕、必要ですか?」

『それは我が文芸部のプロジェクトに君が入る隙間があるかという質問かい? それとも思春期特有の答えの出ない自己啓発かい? 後者であればボクに訊くのはやめた方が良い』

「前者ですよ」

『シナリオライターが現在ボク一人しかいない。一人では限界があるんだよ、分量も、速度もね。当然、内容もだ。一人より二人だ』


 あんな面白い作品を僕に作れるだろうか。少なくとも自分の作品を見て、あんな引き込まれたことはない。自分で書いている作品なのだから展開も伏線も分かっている、なんて言い訳は通用しない。僕の作品より断然クオリティは上だ。


『世の中の人間はエロゲのシナリオなど誰でも書けるというが、誰でも書けるならこの商売は成り立っていない。外注に頼んで使えるか使えないか分からない人材を引っ張るより、生え抜きをつきっきりで育てた方が安心安全だ。なんせ君は一応、作家志望なのだろう?』

「一応、という枕詞は余計です」


 僕は正真正銘の作家志望者である。だから文芸部という名のエロゲ制作部に迷い込んでしまったのだ。


『まあ君が小説の賞に出すのに忙しく、シナリオなんて書いている暇がない、というのなら別に断ってくれて構わない。ボクらも人の夢を邪魔してまで自分の意見を通そうと言うほど傲慢ではない。ぜひ一人で夢を追いかけてくれたまえ。君には君の用事があるだろう。是非入って欲しいのだが、そういうことなら涙を呑んで応援しよう』

「……」


 なんて断りにくい言い方をしてくるんだ。これだと入らないと言い辛いじゃないか。


『入ってエロを書くのは嫌かい? かといって入らないのは惜しいと言ったところかな。三国志の鶏肋みたいだね』


 鶏の肋骨の肉は美味いがわずかしか量が無く手間で、しかし捨てるには味があって惜しい。そういう意味だったと思う。

 あの変な部活に入るのは嫌だ。しかし、彼らが創り出した作品にまで文句をつける気はない。あれは正真正銘の傑作だ。あんな作品を作ってみたい、作品を作った人たちと色々と話してみたい。そんな気持ちが僕の中に芽生えていた。

 しかし、しかしだ。そのためにあの部活に入っていいのか。いやいや入ってでもノウハウを得るべきだ。考えが頭をぐるぐる回る。


『今すぐ結論を出せとは言わないよ。ゆっくり考えてくれたまえ。明日で良い』

「期限明日までなんですか!? ゆっくり考えていいのに!?」

『一日あれば十分だろう。一日考えて決まらないことは一か月考えても決まらないさ。優柔不断な人間は考えるんじゃなくて先延ばしにすることの方が多いからね。そもそも入部するかどうかなんて長々と考えることじゃないだろう。他の部活との二者択一で迷っている、なんてことなら別だが、うちの部活に一番に来たんだからそんなこともないはずだ』

「うぐっ……」


 そう言われると言い返せない。僕の悪い癖をこんな短時間で見抜かれたかと思うと少し恥ずかしい。僕が他の部活に興味を向けていないことまで知られている。


『言い忘れていた。明日、今まで書いた作品を持ってきたまえ。そうだなぁ……昼前ぐらいに来てくれ。シナリオライターの目線から色々とアドバイスしてあげよう。ついでに入部記念に昼飯ぐらい奢ってあげよう』


 ではまた明日、と彼女は電話を切った。画面を見ると通話していたのはほんの数分だったが、とても長い時間会話していたような気がした。


 ふぅと息を吐いてベッドに倒れ込む。頭の中では『レディ、レディ、レディ』の余韻が残っていた。あれぐらい面白い作品を作りたい。そのチャンスが今目の前に転がっている。小説とゲームシナリオは違う。もしかしたら僕がやろうとしていることは作家への道の遠回りかもしれない。

 だが、それでもなお面白い作品を作りたいという欲求には勝てない。ゲームを作る中で、自分のレベルアップができるはずだ。今の僕のつまらない作品から、面白い作品へ。明日作品のアドバイスももらえると言っていたし、入部するのは悪くない。


「って作品を見せる!?」


 僕はベッドから急いで起き上がり、パソコンの中のファイルを開く。どれもこれも賞に送ったが落選した物。クオリティは最悪の物ばかりだ。自分で見るのも嫌になるのに、人に見せるなんて考えたくない。


「こんなもの見せるわけには……!」


 焼け石に水ではあるが、今から急いで修正するしかない。このまま見せると恥ずかしさで僕の顔が真っ赤に染まることになる。


「見てろよこの野郎! 僕の作品で腰抜かせたらぁ!」


 今日は徹夜するしかない。ほんの少しでも作品を上方修正する。あんな面白い作品を見せられた後に駄作を出すわけにもいかない。笑われてしまう。


「ぐっ、駄作と分かっている作品を読み直すのは、いくら自分の物でも……いや自分の物だからこそキツイ!」


 半ば黒歴史と化している物が大半で、まともな物はない。正直なところパソコンの肥やしにしたいところだが、直視しなくてはならない。今更小説家志望ではないと言い張ることもできないにだから。


「やってやるぞ!」


 つまらないものをつまらないこともないレベルにしなくてはならない。僕は目を見開かせ、封印していた過去の作品を取り出した。

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