Day15「ボブディランは返さない」/オルゴール
二人で話がしたい、と由真が言ってきた瞬間に嫌な予感がした。そんなことは由真でなくても、良くないことを言わなければならないときにしか使わない言葉だろう。
第二区画の、カウンターしかない静かな喫茶店。ここで数滴ブランデーを垂らした紅茶を飲むのが好きで、使うカップはいつも棚の上から三番目、右から二つ目のブルーのものだ。由真が来るまでの間に注文したそれに手をつけられないでいるうちに、ドアベルが軽やかな音を立てた。
「早いね」
「……うん」
由真はいつものように私の隣に座った。この喫茶店を指定したのは私だ。カウンターしかないこの店なら、由真と向かい合って座ることはできない。今はまともに由真の顔を見られる気がしなかった。
由真はキリマンジャロを注文して、右の棚の上から二番目、左から三番目のカップを選んだ。
「……由真、コーヒー飲めたっけ?」
「最近飲めるようになりたいなと思って。種類とかよくわかんないけど」
こういうところはまだ子供だ。背伸びしたがるところは昔からあまり変わっていない。悪戯心と強がりでいつも事件を引き起こして。昔はよく由真を探してあちこち走り回った。
無愛想なマスターが静かにコーヒーを出してくるまで、私たちは何も言わずに、棚に並べられたカップを眺めていた。左の棚は紅茶用、右の棚はコーヒー用だ。
由真は運ばれてきたコーヒーを一口だけ飲んで、無言で角砂糖を入れた。おそらく苦かったのだろう。
こちらから話を切り出すべきだろうか。おそらく言い出しにくい話だろうし。けれどこのまま無言の時間が続けば、もしかしたら先延ばしにできるかもしれないとさえ思ってしまう。わかっているのだ。きっと由真と一緒にいられるのはこれで最後。
少し前から或果が姿を消していた。おそらくそれには由真が関係している。由真が或果に何かをしたわけではなく、或果が由真のそばにいたから巻き込まれたとか、おそらくそういうことだろう。それなら厳密には由真のせいとは言えないが、由真は実のところ、そういうことを気にしてしまう質だ。
ここで別れを告げるのは私を巻き込みたくないから?
でも、私は由真のためなら代わりに雷に打たれても構わないと思っていたのに。
「――梨杏」
響く、深い音色。
由真自身はあまり好きじゃないと昔言っていた、少し低い声。私は冷めた紅茶に映る自分自身の顔をぼんやりと見つめた。
「今日は、これを返しにきた」
テーブルの上に置かれたのは、手回しの小さなオルゴール。ハンドルを回すときらきら星の旋律が流れるだけのものを、由真に貸したのはもう十年くらい前の話だ。それは元々私の宝物で、でもあの日、私は由真に笑顔になってほしくてそれを貸したのだ。
何があったのかは覚えてないけれど、その日由真はマンションの陰に隠れて一人泣いていて、それを見つけた私は由真の隣にしゃがんだけれど何も言えなくて、沈黙を持て余した私はポケットに入れていたそのオルゴールの取っ手を回したのだ。その瞬間に由真が顔を上げて、だから私は言ったのだ。「貸してあげる。必要なくなったら返して」と。
今までは必要だったのだろうか。それとも十年も忘れられていたのだろうか。
「返してくれないと思ってた」
「梨杏にはいつでも会えるからいいや、って思ってて。梨杏が返してって言ったら返せばいいかなって」
それなのにこれを返すのは、いつでも会えるわけではなくなる、ということだ。
「……返さなくていい」
「え?」
「十年何にも言わなかったなら、それもういらないんだなってならない?」
「そうかもしれないけど、でも、梨杏の宝物でしょ」
だから返してほしくないのだ。私の宝物が由真の手の中にある。由真はそれを持っている限り私との関係を精算できない。精算なんてさせてやらない。
「……でも、もう梨杏とは会えないと思うから」
だからこそ、返してほしくない。もう二度と会えないのに、ここで私たちを繋ぐ糸が全部切れてしまうのは耐えられない。
「もう必要なくなった?」
「……わかんない」
「それなら持ってなさいよ。必要なときにないと困るでしょ」
由真が小さく頷いた。洟を啜るような音が聞こえたけれど、由真の方は見ないようにした。
「――もう行かなきゃ」
「うん」
どこに行くのか、なんて聞くことはできなかった。聞いてしまったら、きっと私は由真をここから出してあげられなくなるから。
「――或果のことは」
コーヒーを飲み干した由真が、カップをソーサーの上に置きながら呟いた。
「必ず助け出すから」
けれどそのために由真がいなくなってしまうなら、きっと或果は悲しむはずだ。けれど、それがわかっていてもなお、由真は選ぶ道を変えないだろう。だからこそ敵は或果に手を出したのだ。
由真が立ち上がって、私の後ろを通り過ぎる。
「――梨杏」
けれどその前に名前を呼ばれて、私は思わず振り返った。由真の顔をまともに見る前に抱き寄せられ、唇と唇が触れ合う。
それはただ触れるだけの、優しいだけのキスだった。
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