第268話

「……っ」


 目を見開いた直後、カナリアの作り出した小さな歪みが消えた。

 しかしその奥にある漆黒を垣間見た私は鳥肌が止まらず、くらりと、どこか酔いにも似た吐き気に襲われている。


 イメージをするのなら、崖や展望台から下を覗き込んだ時のような、しかしそんなものとは比べ物にならないほど底が見えない。

 深淵、とでも言えばいいのだろうか。人によってはそこに神を感じ、誰しもが絶対不可侵の領域だと本能的に悟るだろう。


「あれが……狭間……」

「ん? ああ、見たのか」


 魔力が世界を創ったというのなら、膨大な魔力が渦巻く狭間は全ての根源。

 なるほど、カナリアの言葉が理解できた。


「あまり直視すると飲み込まれるぞ。特に貴様は魔力と結合しやすい体質だからな、最悪自我が潰れる」

「……魔蝕と同じってこと?」

「まあそうだな。だが量が違う、あれは無数の世界の記憶が全て渦巻いている。僅かばかりなら麻薬にも似た神秘体験で済むがな」


 そんな神秘体験は嫌だ。不思議な体験をするなら綺麗な湖でとかにしてほしい。


 顔をしかめたのと同時、園崎さんの動きがピタリと止まった。

 彼女の手の上には、内部のページが全て千切り取られ、背中の部分と表紙の黒い部分だけが残った手帳。


 どうやら全て終わったようだ。


「紙とペンを」

「……はい」


 紙の山を手渡すと、園崎さんはそれを頭上へと放り投げた。

 彼女の指が紫電の如く走りまわり、空中を踊る紙たちへ無数の文字が記されていく。


 以前はもはや目で捉えることすら出来なかったが、なるほど、こうやって書かれていたのか。

 これはこれで一種の曲芸にも似ていて、探索者協会で働かなくとも、この力があれば彼女は何処へでもやっていけるだろうと思わせる。

 わざわざそこまで飛びぬけた報酬が支払われるわけでもない受付などやっていたのは、きっと……


「は?」


 地面へ広がった紙を一枚拾い上げ、ちらりと眺めたカナリアが不思議そうな声を上げた。


「なんだこれは」


 口をへの字に曲げた彼女が私たちへ紙を突き出す。

 これは……


「――いたずら書き?」


 私たちが見たのは、何とも真っ黒な誌面であった。


 文字の上に文字が重なり、更に様々な図形が書き込まれている。

 コピーした紙の上に、更に別のコピーを繰り返したように重なり、ずれ、もはやまともに読むことは叶わない。


 これはひどい。


 冬の夜にも拘らず背中に汗が伝う。


 園崎さんが泣きながら遺品を使って書き上げたのが、まさかこんな赤ちゃんが作った絵のようにぐちゃぐちゃの物だとは、ちょっと、その、やばい。

 え、どうしよ。園崎さんこれ真面目にやったんだよね? 本気だよね?


「おい園崎美羽、これはなんだ。この私を馬鹿にしてるのか? この状況で良い度胸じゃないか」

「私は視た通りに書いたわ。手帳に書かれていた文字を拡大し、この紙の上にそのまま書き写した。間違いなく」


 本気だったかぁ……!


 いたって真剣な顔の彼女からスッ、と目を逸らし、足元の紙を一枚拾い上げて眺めた。


 どう見たってなんかのいたずらか、暇つぶしに上からあれこれ書きまくっただけのように見える。

 しかし筋肉が消えた場所と手帳があった場所は直線的で、更に距離も離れていた。間違いなく、彼はこれが何かの役に立つかもしれないと、そう思って放り投げ隠したに違いない。

 彼が死に際に、無駄だけどとりあえず投げておこうだなんて考えられないし……意味があるはず。


 


 うーん、これは……『魔』かな、その上に『ク』、次の文字は『法』と点『レ』……あ。


「これ落書きじゃないよ、ほら。ここは『魔法陣』、こっちは……『クレスト』」


 直後、カナリアの手で紙が奪い取られた。

 じろり、じろりと紙の上を行き来する瞳。

 暫くしてから彼女は空を見上げ目を閉じ、とんとんと指先で机を叩きながら口を開いた。


「なるほどな……もしかしたら、戦闘前後で何度か時を戻されたのかもしれん」


 つまり、時を戻される度手帳の文字は消える。そしては当然それを察知することが出来ないわけだから、その上にまた新たな文字を書きこんでいく。

 時を戻されたことで行動がほんの少し変わり、書き込む文字も当然変化していくので、結果……


「えーっと……もう少し協力してもらえる?」


 結局のところ文字や図形が無数に重なっていて、さっぱり読むことが出来ない。

 間違いなく意味のある文がここには書かれていたし、何やら重要そうなものもいっぱいあるらしい。

 どうやら魔法陣らしきものも描かれているが、これも重なっていてもはや黒く太い円にしか見えなかった。


 解読に時間がかかりそうだなぁ……



「ふぃー、疲れましたねぇ」


 琉希が倒れたコンクリートの壁へ寝転がる。

 遠くの空では小さな星が輝きを始め、烏たちが騒がしく鳴きながら遠くへと消えて行った。


 あれから三日。

 警戒していた蒼の塔は未だに沈黙を続け、町は町で震災後の片付けに勤しんでいる。


 いくら探索者の力が一般人と比べ離れていようとも、数が少なすぎてそう簡単に片付けが終わる訳もなく、怪我の少ない人が中心に、出来ることから行う日々。

 正直身体はくたくただ。


 そんな中、琉希がふと、避難所の方へ顔を向けた。


「なんかあっちの方が騒がしいですね」

「ああ、あれは……」


.

.

.



「はいはい押さないで! 子供が先だよ、皆の分もあるから落ち着いて!」


 中心にいるのは一人の、少し太った男性だ。

 小豆のどこか青臭く、しかし甘い香りをまき散らし、人々が押し合いへし合いしつつも列になって並んでいた。


「あれは?」

「前会った和菓子屋の人覚えてる? ママの病院に行く途中の。崩れた在庫倉庫の中にまだ小豆と砂糖が残ってたらしくてさ」


 周りの瓦礫に人々は座り込み、顔をほころばせ紙コップの中身を啜っている。

 陰鬱な雰囲気が立ち込めていた避難所であったが、わずかながらもプロの技術が詰まった甘味に舌鼓を打ち、少しだけ明るい雰囲気と人の話し声がここにはあった。


 そう、今日は年末。

 昨日の夜、突然彼が会議の中にやって来たのは驚いたが、なんとこの状況で甘味を振舞い人々を励ましたいとの申し出があり、今朝から仕込んでいたのだ。

 本人曰く本当は甘酒と言いたかったそうだが、残念ながらこめこうじ? とやらが手に入らなかったらしい。


「そうですか……あの人も生きていたんですね、よかった」

「うん」


 希望の実による食料不足の補いは未だに続いており、現状は夕食だけが炊き出しになっている。

 これでみんなのストレスが少しでも和らいでくれたらいいのだが。


「琉希ちゃんお疲れ様」

「ママ!」

「フォリアちゃんもお疲れ様。お汁粉ここに置いとくわね、私は炊き出しの方に行ってるわ」


 ことり、と机の上に小さな紙コップの中には、少しだけ薄いお汁粉が注がれていた。


 味はしないが、それでも味わいようはある。

 舌触り、香り……まあ、味を感じられないせいでどれもはっきりしないけど。

 まるで探索者になったばかりの頃のようだ、あの時もケーキの甘みに思いを馳せていたような気がする。


「あの……」

「どうしたの?」


 飲み干しコップを置き立った直後、琉希がおずおずと声をかけてくる。


「……いえ、何でもありません」


 しかし彼女は何か目を巡らせた後、伏せ、静かに首を振った。


 何かを我慢する様なその態度に少し後ろ髪を引かれたが、しかしそれも気のせいだと思い、部屋を出る。

 今晩もあの手帳の中身を解析しないといけないからだ。


 さて、園崎さんはどこへやら。


 ふらりと部屋を出た後ろ姿をじっと見つめる琉希に、私は気付かなかった。

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