奇妙な女
松長良樹
サングラスの女
夕暮れだった。霧にけぶる沖合に異国の汽船の影が浮かんでいた。
私はその風景を眺めながら公園の側道をとぼとぼと歩いていた。知人に紹介された哲学カフェに行き、その帰りにいつもの飲み屋で一杯飲んで帰宅する途中だった。
すると鮮やかな青い傘が目に留まった。辺りを霧雨が濡らし始めていて、側道の街路樹の下で若い女が何かを待つように立っている。サングラスをかけ、深紅のコートが印象的だった。
私はすぐにその女が哲学カフェにいた女だと思い当たった。彼女は円形のテーブルを囲んだ連中のいちばん外側にいて、ほとんど発言もしなかった女性だ。
目鼻立ちに整った色白の女。私は彼女が哲学議論の最中に退出したのを知っていたから、何だろうと思った。私は軽く会釈して彼女の前を素通りしようと思ったが、彼女の方から声をかけてきた。
「ねえ、すいません。わたし、あの席でどうしても訊きたかった事があるのだけど、とうとう訊けなかった」
そう言いながら女は私に近づいてきた。
「……」
私はただ黙っていた。
「それをあなたに、ここで訊いてもいいですか?」
私は多少面食らったが表情はほとんど変えなかったと思う。
「なんでしょうか?」
私は小さな声でそう答えたていた。彼女が美人だったせいもあるかもしれない。
「猫が椅子を見た時、猫にはその椅子が椅子だと分かるでしょうか?」
奇抜な質問だったが、彼女が哲学カフェにいたという事もあって私は真面目に答えていた。
「猫ですか? 猫には椅子なんて言う概念がないから椅子とは認識できないでしょうね。だぶん、木の棒と板とか……。いや、そうじゃないな。木も板も人間の概念だから、猫にはただの物体にしか見えないのでしょうね」
「そうよね。その通りよ!」
彼女の眼が輝いたので私は少し驚いたが、言葉は続いた。
「椅子なんて、人間の概念がつくったものなのよ。本当は別の物なの。わかる?」
「……」
「あなたから見るとわたしは若い女に見えるでしょう、でもそれは概念なのよ。本当は違うもの」
「違うもの……」
「ええ、人はみんな概念の色眼鏡を掛けている。思い込みの色眼鏡とも言えるわ、そうでないと困るからよ」
私は黙って聞いていた。
「色眼鏡は人にとって大切な物だけれど、それを外してあげましょうか?」
私はかなり前の時点で彼女の話についていけないと感じていた。
「わたしの掛けているこのサングラス。これってその色眼鏡をクリアにできるサングラスなの」
私は返す言葉さえ失っていた。
「掛けてみて」
彼女はそう言うと自分のサングラスを外すと私にそれを素早く掛けさせた。そして私は彼女のエメラルド色の瞳をみて息をのんだ。
だが、次の瞬間には彼女の姿はその場からかき消えていて、空に赤い雲が流れていた。いったい、どうしたというのだろう。
上空に骨だけの鳥のようなものが飛んでいた。
了
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