第二十話 〜ヤマネコ婦人〜

「私のミーヤを泣かせた上に、別の女まで袖にしようというのね、ロン」


 ロンの警戒心が、一瞬にして最大値に達する。


「なんでここに居やがる!?」


 サヴァナ猫社会のボス。

 ヤマネコ婦人を敵に回すことは、ある意味では獅子長に睨まれるよりやっかいだ。


「あらあら、この私が許可証を持ってないと思って?」


 と言って婦人は、ヤマネコ面の下に妖艶な笑みを浮かべつつ、ひらひらと許可証のカードを振ってきた。


「エルフタワーには、行き着けのエステがあるの」

「でも、偶然ってわけじゃねえんだろ……」

「うふふふっ」


 婦人が、今この場所を狙い済ましてやってきたことは明らかだった。

 今朝から現在に至るまで、ロンは街のあちこちに猫の目を感じていたのだ。


「私のお気に入りの男を盗もうとしている女がどんなものか、見極めに来たのよ」


 婦人はそのままロンの横を通りすぎ、カプラの前に立つ。


「ひっ……」

「ウフフフ……」


 舐め回すような視線で見つめられて、カプラは小さく悲鳴を上げた。

 二人の背丈はほぼ同じ。

 ヤマネコ婦人はやや身を屈めて、カプラの首筋のあたりの匂いを嗅ぐ。

 そしてそのまま見上げるようにして、ジッとその表情を観察した。


「なかなかの女じゃない……」


 と言って身を強張らせているカプラから離れる。


「あなたが10の頃に出会ってたら、間違いなくこの手で引き取って育てていたわ……。良ければその変な獣面を外して、素顔を見せてくれないかしら?」

「そ、それは……!」


 カプラは両手でしっかりと獣面を掴み、一歩下がって身構えた。

 軽い獣化が始まりつつあった。

 カカポの獣面から首筋にかけて、鳥の羽が生え始めている。


「そうかいそうかい、見られちゃ困る何かがあるんだねえ……うふふふ。結構なものを手に入れたじゃないか、ロン」

「……なんのことだかさっぱりだな」


 ヤマネコは、すでにその正体を見抜いているようだ。

 しかしロンは、あくまでもしらを切る。


「お前は女には興味が無いのだと思ってたのだけどね」

「肉を食わせてくれるっていうから、付き合ってやっただけさ」

「それはミーヤを泣かせてまですることだったの?」

「アイツがなんだってんだ。あんまり変なことを吹き込まないでくれよ、こっちは迷惑しているんだ」

「あら、変なことって何かしら? あの子の相手はあなたしかいないのに……。私としては、大人しくくっついてくれると嬉しいのだけど」

「へっ、くっついてる場所を覗かれたりしなければ、検討くらいはするけどな……」


 言いつつロンは、ごくりと生唾を飲んだ。

 戦う力で言えば自分の方が上なのに、まるで勝てる気がしない。

 何をどうあがいても、ヤマネコ婦人の思うとおりに動かされていくようだ。


「うふふ……ネコに見られるくらいなんだと言うの? ミーヤはもうすっかり準備OKなのに……。あんな可愛い子に想われたら、流石の貴方も反応するのではなくて?」


 と言ってヤマネコ婦人は、素早い手の動きでロンの股間を撫でた。


「むがっ!?」


 思わず飛び跳ねる。

 足先から、冷たい感触が駆け上がってきた。


「なにしやがる!?」

「ほら、ちょっと大きくなってたじゃないか」

「だ、だからなんだってんだ!」


 ニヤニヤと物好きな笑みを浮かべる婦人を前に、ロンはただひたすら気色が悪い。


「想像したのでしょう? あの子があなたを受け入れる時の顔を……」

「悪いが全然してないぜ……。俺のこいつが大きいのは元からだ」

「まあ、そうなの! さっそくミーヤに伝えておくわ、きっと喜ぶから!」

「そうかよ……! あんたのせいで、とんだあばずれになっちまったな!」


 ロンがそう言うと、ヤマネコ婦人はあからさまに眉をしかめた。


「まあっ……さすがの私も怒りますわよ? あの子はとても純粋、あなたのことしか想っていないの。それをあばずれ呼ばわりなんで……。情けなくて涙がでてくる」


 婦人は懐から扇子を取り出すと、パッと広げて首元を扇いだ。

 そして流すような視線でカプラを見る。


「ねえあなた、どう思う? この男のこと」

「えっ? ええっと……」


 突然問われて目を泳がせる。


「欲のない男って、本当に困った生き物だと思わない? そういう男と一緒にいると、私たちはすっかり安心してしまう。そしてついつい警戒心を解いてしまう。そうして仲良くしているうちに、気付けば好きになっていたりする……」

「うっ……」


 婦人は言いながら、カニ歩きで擦り寄っていく。

 カプラはすっかり身動きが取れない。


「それでもその男は欲が無いから振り向いてくれない。私達の心は宙ぶらりん。ああ、なんて罪深いのかしら、無欲な男!」

「…………」


 酷い話だと思いながら、ロンは話を聞いていた。

 欲があっても罪。なくても罪。

 これではまるで、生きていること自体が罪のようだ。


「あなたも大変ねえ……」


 婦人は最後に、同情するような視線をカプラへと送った。

 改めてロンに向き合い、手にしていた扇子を閉じる。

 そしてピシリと相手を指しつつ告げた。


「最後通告ですわロン! あなたは今すぐこの女と別れて、まっすぐ私たちの館に向かいなさい。別館の特別室でミーヤが待っています」


 もはや言葉もなかった。

 これはある種の暴力だと、ロンは思った。


「もし、この通告に従わなかった場合、あなたと、そしてこの女の身に、想像を絶する惨事がふりかかるでしょう。うふふふっ……覚悟を決めるのですロン。男らしく……ね?」


 そして婦人は背を向ける。


「うふふ、楽しみですわ……楽しみですわね!」


――オーッホッホッホッホ!


 フロア中に高笑いを響かせながら、婦人は去って行った。


「くそ……!」


 ロンはその後姿を見送りながら、きつく拳をにぎりしめる。

 先ほど食べたステーキがすべて鉛に変わったかのように、胃の底が重かった。


「ろ、ロン……」


 カプラが不安げに歩み寄ってくる。

 例えようのない屈辱が胸の底からこみ上げて、いつの間にか獣人化していたロンは、その牙をガチガチと鳴らした。


「ふざけやがって……!」


 そしてエスカレーターに乗って下に降りていくヤマネコ婦人の背に向かって、渾身のサムズダウンを振り下ろす。


「誰がてめぇの言いなりになるかっ!」



 * * *



 すっかり気分が悪くなってしまったロンは、カプラに付き合うのをやめて、すぐに店に戻った。

 カプラはロンから少し離れた位置を歩き、遠慮がちについてきた。


 戻る途中、ロンは多くのネコに睨まれているのを感じた。

 屋根の上に、建物の隙間に、ゴミ箱の陰に、無数の生きた監視カメラがうごめいている。


 ロンはすでに覚悟を決めていた。

 こうなったら徹底的に反抗してやる。

 無為な日々を送ってきたロンにとって、それは新たな生存目標になっていた。


「クソッたれだぜ!」


 店の軒をくぐるなり、ロンはそう吐き捨てた。


「ぶほっ!? 喧嘩でもしたの?」


 調理場で雑誌を読んでいたマスターが、驚いて振り向く。


「……ヤマネコのババアだよ」


 ひったくるように帽子を脱ぐと、ロンは席に座りこんだ。

 遅れてカプラも入ってくる。


「ねえロン、やっぱりミーヤちゃんの所に行ったら? このままじゃ……」

「いかねえよ!」


 心配そうに提案するカプラに対して、ロンは吼えるように否定する。


「ま、まさかロン……。ヤマネコさんに逆らったの?」

「そうだよ」

「ぶ、ぶふほーっ!? それは困るよロン! 僕までとばっちり食うじゃない!」


 ネコの復讐は執拗にして残忍である。

 その者の棲家の前に死体を運んできて並べたり、ありったけの糞尿をぶちまけたりする。

 もし、この店がそのような目にあえば、経営が立ち行かなくなること必至だろう。


「あきらめてくれ」


 だが、ロンは冷徹なまでにそう言った。

 イノシシのマスターは、両手を頬にあてて悲鳴を上げる。


「ひどいよロン! 毎日ツケでご飯食べさせてあげてるのに!」

「今回ばかりはマジでキレちまったんだ。悪いな……おっさん」

「ぶふふーっ!? も、もうこうしちゃ居られない、何とかしなきゃ……!」


 マスターは立ち上がると、エプロンを脱いでいそいそと出かける準備を始める。


「どうするってんだ?」

「決まってるじゃん! ヤマネコさんとこに行くんだよ! やるならロンだけにしてくれってお願いしてくる!」

「私も行くわ、イノシシさん! 私にも非はあるのだし……」

「ううーん、でもどうかな……。余計話がややこしくなるかも……」


 それに、カプラの素性を問われた時に、一体どう答えるのかという問題もある。


「でも、私がここでロンと二人だけでいるのも……その……ちょっとまずいと思うし」

「それもそうだけど……うーん」

「けっ、じゃあアンタ一人で留守番でもしてるんだな!」


 と言ってロンは、カウンター席から立ち上がった。


「しばらくここを離れるよ。そんなにあのババアに頭下げたいなら好きにしやがれ!」


 ガンッと椅子を蹴っ飛ばすと、そのままロンは外に出て行ってしまった。


「あああ……」

「ロン……」


 残された二人は、ただ途方に暮れる。

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