秋の白百合

月丘ちひろ

秋の白百合

 二十代の頃。オレは仕事に追われる日々を送っていた。在宅勤務であることは楽だったが、業務が立て込み、終業が日を跨ぐことが多々あった。そのせいで目元は黒ずみ、体にも贅肉がついていた。時間と気力と容姿は根こそぎ仕事に奪われ、異性に出会うことも叶わず、奪われた機会の対価をいつ使うか分からない金で支払われた。


 こうした束縛から解放されるために、オレは大金を叩き、ナイトギアを手に入れた。仮面の形をしたこのデバイスを装着すれば、意識と五感が仮想空間に接続される。もちろん容姿はエディットするため、オレは有名なデザイナーに金を払い、ぱっちり開く二重瞼と引き締まった肉体を手に入れた。


 生まれ変わったオレは仮想空間に出会いを求めた。仮想空間の中は、穏やかな微風が吹き抜けるように心地よく、華やかな衣装を纏った美女達が、自然と調和した町を闊歩している。


 そういうわけでオレは、ロールプレイングゲームの主人公のように片っ端から声を駆けた。


 ところが異性との交際経験がないオレは、異性を前にすると口がサビた戸のように動かない。せっかく笑顔で声をかけても会話が続かず、その場から逃げ去ることしかできなかった。逃げ場所はいつも中央広場の片隅に咲く白百合の前だった。


 何のために大金を叩いたのだろう。

 心に滲む悔しさにオレは下唇を噛んだ。

 傍らから声が聞こえたのはそのときだった。

 振り向くと、白いドレスを纏った女性がオレに微笑みかけていた。

 

 その女性の瞳は月光に照らされていた。雲一つない空のような青色の中には、背中を丸めたオレの姿が移っている。


 女性は目を細めて言った。


「こんなところに百合が咲いてたんですね」


 オレは女性から視線を反らした。

 だけど女性は気にする素振りもなく続けた。


「この花が好きなんです。中学校の合唱コンクールで歌った歌詞に描写があってですね」

「……オレも歌ったかもしれない」


 オレは彼女が指している歌詞を唱じた。すると彼女は大きな目をさらに開いて、当時のことをまくし立てるように話した。彼女の話には共感できることが多く、自然と会話を弾ませていた。


 こうしてオレと彼女は仲良くなり、仮想空間の中で毎日取り留めもない会話をするようになった。会話を重ねていく中で自分達が同世代の生まれであることがわかり、学生だった当時に聞いていた音楽が被っていたことや、読んでいたマンガが同じだったという話題で盛り上がった。


 自分のよく知る話題になると早口になり、ある程度話すと我に帰り、恥ずかしそうにはにかむのだった。そんな彼女にオレは好意を抱くようになっていた。そして彼女への気持ちは強くなり、ついに彼女に好意を打ち明けた。


「現実のキミを知りたい」


 彼女が体を硬直させた。


「ナイトギアの中なら理想の姿でいられるよ?」

「姿はきっと関係ない。どんな姿になっても、オレはオレだった。きっと、キミもキミだ。オレはそれを確かめたい」


 彼女は震える声で言った。


「……わかった」


 そういうと彼女は集合場所と時間を言った。

 そしてオレは彼女と別れ、現実の世界で言葉の通り、外の世界にでた。現実世界は肌寒い秋風が吹き抜けていた。


 向かった場所は某都心の広場だった。

 日中、この場所は数多の雑踏で溢れているのだが、現在は終電後ということもあり閑散としていた。そして待ち合わせ場所にはコートを着た男性が立っていた。彼はオレを見つけると、仮想空間の通名でオレを呼んだ。彼は彼女の兄で主治医であると言った。


 オレの心臓がドクドクと音をたてた。

 オレと男はタクシーに乗車し、彼女が本当に待つ場所へ向かった。タクシーが止まった場所は大規模な大学病院だった。男はタクシーをおりると、オレを名札が一つ付いた病室の前へ案内し、オレに一人で入るように言った。


 オレは一度息をつき、扉をノックした。そして返事があったのか、なかったのかもわからないまま扉を開けた。


 消灯した室内には病院独特の消毒液の匂いに混じり、甘い香りがした。棚の上に賞状を掲げる少女の写真が飾られ、隣のベッドにはニット帽を被った『彼女』が横たわり、窓の向こうを眺めている。


 オレはそんな彼女の横に立てられたパイプ椅子に腰を下ろし、彼女に語りかけた。


「この写真……合唱コンクールの時の?」


 少女は窓の向こうを眺めたまま言った。


「最初はまとまりがなくて音が外れてばかりだった。それが最後にはコンクールで入賞したんだ。それから、耐え抜けば困難も乗り越えられるって思ったの」


 それから彼女がいかにたくさんの困難に立ち向かったのかを聞いた。手をつけなかった勉強に励み、第一志望の高校に合格したこと。その高校で、女子のグループに陰湿な虐めを受けても屈しなかったこと。彼女達が通うことのできないような高い偏差値の大学に入学したこと。そして、病を患い、治療に専念していること。


 こうした困難との戦いを口にする程に彼女の口調は早くなり、掠れた声には熱が籠もった。そして彼女は自分が早口になったことに気づくと、顔をうつむかせ、


「でも、やっぱり耐えられないこともあるんだね……薬の副作用とかさ」


 そして彼女はオレに作り笑いを浮かべた。


「ごめんね、私のこと嫌になったーー」

「そんなことはない!」


 オレは彼女の言葉を遮る勢いで口を開いていた。


「ナイトギアの中であろうと、現実であろうとキミはキミだった。姿なんて関係なかった。オレはそれが確信できた!」


 そして気が付くと、彼女が目をパチクリさせていた。

 こうした彼女の反応に恥ずかしくなり、オレは窓の向こうを眺めた。

 窓の向こうには青白い月が輝いている。

 そしてオレは気恥ずかしさをごまかすように言った。


「……月が綺麗だね」


 しばらくして、上擦った声が返ってきた。


「谷間に咲いた小さな白百合みたいです」 


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秋の白百合 月丘ちひろ @tukiokatihiro3

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