閑話20 チタ菜とトラウマと(その5)
「うわっ! 臭っさ! なんか気持ち悪くなってきたような……」
「ヴェル、剣がヌルヌルになったぞ」
「エルヴィン少年、某など拳がヌルヌルである! しかも臭いのである!」
「ヴィジュアル的にも最悪だな」
『ゴミクソ岩場』とは、小領主混合領域の中心から少し南寄りにある魔物の領域で、ここは、生息する魔物の種類が他とはまったく違っていた。
岩場だがあまり高低差もなく、地盤は安定しているので、町を作るのにちょうどいいはずだ。
なにより、ここには殊更利権を要求する業突く張りな貴族たちや、それに連なる一党もいないので、ここに町を作れば非常に安く済む。
この提案をしたら陛下は非常に乗り気となり、他の閣僚たちにも反対する者などおらず、『ゴミクソ岩場』開放作戦は実施されることになったが、その前に俺たちは偵察でここを訪れていた。
そして今、その決定を非常に後悔していた。
実は昨日のうちにみんなで魔導飛行船に乗って来たのだが、女性陣はほぼ全員お帰りになった。
その理由は、『ゴミクソ岩場』の魔物が厄介なほど強いからではない。
それなら、ルイーゼやカタリーナまで帰る理由がないからだ。
「今、ひっくり返ったアブラムシを見てしまった。足がワシャワシャ動くのを見ると気分が悪くなってくるな。焼き殺したら油でよく燃えるんだが、臭くて死にたくなるぜ」
元ベテラン冒険者ゆえに『ゴミクソ岩場』を知っていたブランタークさんだが、これも宮仕えの悲しさであろう。
ブライヒレーダー辺境伯から強制的に俺たちへの同行を命じられた彼が、心の底から嫌そうな顔をしていた理由がよくわかった。
この『ゴミクソ岩場』には、基本的に動物型の魔物は一切生息していない。
人間ほどの全長がある、黒くて、脂ぎっていて、足が六本あって、カサカサいっている、飲食店経営者が嫌う昆虫第一位であろう奴が、見えるだけで数十匹もいた。
一匹見れば三十匹はいると言われている奴らなので、ここには……どれだけの数が生息するのか考えたくもないな。
それをブランタークさんが順番に魔法で倒して焼いているのだが、焼くともの凄く嫌な臭いが周囲に立ち込めるので、ブランタークさんも含め、俺たちも同じように気分が悪くなった。
あんなに小さい奴でも見かけると色々と不幸な気分になるのに、全長が人間並みのゴキブリなんて、誰だって見たくもないであろう。
そして、どうしていちいち焼いているのかと言えば、この巨大ゴキブリに使える素材などまったくないからだ。
魔石は取れるから、ブランタークさんが体を焼いている。
なぜ焼くのかといえば、誰もゴキブリの死骸にナイフを入れて体内の魔石を取り出したくないからだ。
ただ、焼いたからといってゴキブリはゴキブリである。
誰が焼けた巨大ゴキブリの死骸から魔石を取り出すのか、それで争いになりそうな雰囲気であった。
少なくとも、俺は嫌だ。
巨大ゴキブリだけではない。
他にも、触るとダンゴになる虫の巨大版。
全長三メートルを超える、足が沢山ある長い虫。
地面を這うとヌルヌルが残る、カタツムリの中身しかない虫もいた。
これを直接殴ってしまった導師は拳にヌルヌルが、剣で斬り殺したエルはお気に入りの剣の刃に大量のヌルヌルがついてしまい、どうやって落とそうかと真剣に悩んでいた。
そして、このヌルヌルも異常に臭いのだ。
ゴキブリもダンゴ虫もムカデもナメクジも、そんなに強くないが殺すと出る体液が異常に臭い。
魔石の回収のためと、臭いのは燃やしている間だけなので仕方なく燃やしているのだが、正直風下に立っていたくなかった。
「これは、誰も討伐を引き受けないわけだ」
魔石しか素材が取れず、強くはないが気持ち悪い、臭い、繁殖力も尋常ではない魔物とのいつ終わるかわからない戦いを思えば、他の魔物の領域に行った方がマシだな。
「ヴェル、いつものように魔物の素材の使い道とか考えてくれよ」
「嫌だ」
それを知るために、俺にゴキブリやナメクジに触れと?
死んでもゴメン被る。
「自分が嫌なことを人に任せるのはよくないと思います」
そう言うと俺は、『岩棘』を一度に数十カ所同時に発動させ、大量の虫を串刺しにして殺した。
「臭せっ! 辺境伯様! 焼く時の都合も考えてくれよ!」
「そんな余裕ないですって!」
と、逆ギレしながらブランタークさんに反論しつつも、流れ出た体液の臭いが風に乗ってくると、臭くて気持ち悪くなってくる。
強くはないけど、とにかく困った連中だ。
「せめて、素材が金になればなぁ……」
もしそうだったら、臭くても冒険者は集まるはずだ。
一体一体が弱いってのも、戦闘力はなくても稼ぎたい冒険者には向いているだろう。
臭さに耐性があれば、かなり稼げるはず。
現実は、低品質の魔石が取れるだけだけど。
「そりゃあ、ハルカさんもエリーゼたちも帰るわ」
女性で巨大昆虫に抵抗があったからというのもあるが、特にエリーゼは俺のために我慢してしまうだろうから、無理やり俺が帰してしまったのだ。
『すみません。小さいのは大丈夫ですが、あんなに大きいと……』
よく台所仕事をするエリーゼは、『小さなゴキブリなら大丈夫だけど、大きいのは……』といった感じのようだ。
『ボク、あれを素手で殴るのは無理』
ルイーゼは、虫への嫌悪感はエリーゼよりも少なかったが、あれを素手で殴るのは我慢できないらしい。
気持ちはよくわかる。
『……無理』
『臭いから厳しい』
イーナは普通に虫が苦手で、ヴィルマは鼻が敏感なので、体液などの臭いが駄目だそうだ。
『……』
『ヴェル、カタリーナは立ったまま気絶しているわよ』
カタリーナに至っては、巨大ゴキブリの群れを見たらその場で立ったまま気絶してしまった。
よほど苦手なのであろう。
『臭い……うげぇーーー!』
『うわっ! ヴェル、カチヤが吐いたよ!』
相手に接近して切り裂く戦法を使うカチヤは、巨大な虫たちの体液を大量に浴びてしまい、あまりの臭さに吐いてしまった。
女性にゲロを吐き続けさせながら戦わせるのはどうかと思うので、カチヤも戦線離脱している。
『さすがに難しいの』
政治的な魑魅魍魎の類には慣れているテレーゼも、生まれのよさが祟って虫は苦手であった。
元々北方に住んでいたので、あまりゴキブリに縁がなかったというのも大きいと思う。
残念ながら、彼女もリタイアしてしまった。
そんなわけで、女性陣は全員がリタイア……全員ではなかった。
一人だけ大丈夫な人がいたのだ。
「あははっ! この臭せぇ腐れ虫どもが死ねよぉーーー!」
一人だけ、リサが虫たちにブチ切れながら、魔法を連発して虫たちを虐殺、死骸に火をかけ続けていた。
あのメイクと衣装をつけた状態なら大丈夫だそうで、なんというか、相変わらず難儀な性格をしていると思う。
俺のためにやってくれているので、感謝しなければいけないのはわかっているんだが……。
なお、普段のメイクを落とした状態だと虫は全然駄目だそうだ。
「三本目の剣が、もうヌルヌルだぁ……。これ、ちゃんと落ちるのかな?」
「今すぐ帰って酒飲みてぇ……」
「倒しても食えぬ魔物なので、やる気が起きないのである! 臭っ! なのである!」
エルは男だし、というか俺が絶対に帰さない。
ブランタークさんは、ブライヒレーダー辺境伯の命令なので帰れない。
導師も陛下に頼まれているから帰らないし、俺は帰れるわけがない。
とにかく、ここに町を作らなければ。
毎年、ウシャント卿にストーカーされるもの嫌だからな。
「ヴェル、結構倒したけど減った気がしないな。ボスを殺してしまおうぜ」
「駄目に決まっているだろうが!」
そんなことをしたら、あの巨大ゴキブリが小領主混合領域中に広がってしまうではないか。
とにかく虫は、一匹も残さずに殺すしかないのだ。
「そんな無茶を言うなよ!」
「そのくらいの覚悟でやればいいんだ」
まあ、さすがに『ゴミクソ岩場』にいるすべての虫を殺せるとは思わないが、粗方始末しておかないと、開放後に色々と大変だからな。
あんなデカイ虫に迫られたら、普通の人は一生物のトラウマを背負ってしまうだろうから。
「役割を分担するのである!」
「それがいいな」
導師の提案にブランタークさんも賛成し、俺たちは分業制で虫を始末することにした。
俺、ブランタークさん、導師がとにかく虫を殺しまくり、リサが死骸に火をかける。
そして、燃え殻から魔石を回収するのがエルの役目という事になった。
「臭い……」
「火をかけている私の方が臭いんだ! 男なら我慢しな!」
「はいっ! 同じ人なんだよなぁ……」
派手な衣装とメイクのリサに叱られ、エルは普段と違う彼女の言動に困惑していた。
最初に出会った時はこちらだったので、単純にエルが忘れているだけだと思うけど。
「じゃあ、エルが虫を殺すか?」
近接戦闘主体のエルの体に殺した虫の体液が飛び散って臭いし、エルの剣はさらに粘液等でヌルヌルになるけど。
「魔石を取り出す係でいいです……」
こうして分業での虫駆逐作戦が始まったが、とにかく虫の数が多くて辟易する。
それでも、通常の魔物の領域なら魔物は素材になるのでお金になったが、『ゴミクソ岩場』の虫は魔石しか取り出せない。
挙句に、体液も粘液も臭く、燃やすとやはり臭い。
だが、放置すれば死骸が腐ってもっと臭くなる。
さらに……。
「リサ! 急いで火をかけろ!」
「もう嗅ぎつけたのかい!」
虫の死骸を放置すると、すぐに巨大ゴキブリがそれを漁りにやってきてしまうのだ。
死骸が食べられてしまうと、それは新しいゴキブリの栄養になるわけで、数を減らすには殺して燃やし続けるしかない。
「『ゴミクソ岩場』の噂に恥じない酷さだな」
「臭いのである!」
「しかし、ここを開放しないとなにも始まらないですから」
「辺境伯様、人を雇おうぜ」
「それがですね……」
実は、冒険者バウブルク支部に依頼を出したのだが、『ゴミクソ岩場』だけには行くなと、冒険者たちの間では不文律になっているそうで、誰も応募してこなかったのだ。
かといって、巨大な虫たちは一応魔物であり、冒険者でもない人たちを『ゴミクソ岩場』に入れるわけにいかない。
「エリーゼたちと入れ替わりで、うちの警備隊員たちが来ると思うから……」
エリーゼとローデリヒなら、きっとそうしてくれるはずだ。
「お館様も、援軍くらいは送ってくるはずだし……」
もし『ゴミクソ岩場』の開放に失敗すると、毎年収穫が終わる度に条件闘争のための紛争を仕掛けられて迷惑を被るからだ。
紛争を仕掛けられるのはバウマイスター辺境伯家だけど、ウシャント騎士爵家はブライヒレーダー辺境伯の寄子だから責任ゼロというわけにいかない。
「そんな理由で、町を作るために魔物の領域を開放するなんて前代未聞だけどな」
「理由はなんにせよ。王国のためにもなるのである!」
だから導師も作戦に参加しているのだけど、本人は食えもしない臭い虫たちに辟易しているのがわかった。
陛下のお願いなので、途中で帰るような真似はしないだろうけど。
「これ、何日で終わるんだ?」
「さあ?」
「さあって……」
「俺が教えてほしいくらいだ。数ばかり多くて、見た目もキモイし、臭くて堪らんのだから」
臭いのを我慢しつつ、『ゴミクソ岩場』で虫の掃討作戦を開始してから四日後、ついに待ちに待った助っ人がやってきた。
エリーゼたちを戻した魔導飛行船に、バウマイスター辺境伯家警備隊の兵士百名が乗っていたのだ。
「お館様、お待たせしました……臭っ! 申し訳ありません!」
警備隊員たちを率いていたゾルフという若い指揮官は、出迎えた俺たちを臭いと言ってしまい、失礼に当たると慌てて謝った。
しかし、そんなことを気にする必要はない。
なぜなら……。
「どうせ一日でみんな臭くなるから」
「本当ですか?」
「やればわかるさ!」
「わかるのですか?」
「事前に言っておく。すごい貧乏クジな任務だから」
人数が増えたので、うちの警備隊員たちも虫の駆除に加わった。
虫はよほど油断しなければ、ちゃんと訓練している警備隊員たちなら普通に倒せたからだ。
「げぇーーー!」
「吐くな! その吐いたものに虫が寄ってくるだろうが!」
「重たいし、臭い……」
「我慢するのだ! お館様はもう四日間もこの作業を率先して行っているのだぞ!」
人数が増えて倒せる虫が増えたので、倒した虫を一カ所に集めることにした。
リサが効率的に虫を焼くためである。
「あはは……よく燃えるねぇ……」
あまりの臭さに、リサは現実逃避しながら虫を焼く方法の獲得に成功した。
ただし、傍から見ているとただの危ない派手な女性にしか見えない。
「いつ終わるんだろう?」
燃え殻から魔石を回収しているエルは、このいつ終わるかもわからない作業に心が折れかけていた。
それでも順調に作業が進み、翌日にはブライヒレーダー辺境伯も援軍を送ってくれたので、さらに作業効率は早まった。
彼らも、虫と臭いの洗礼を受けて精神にダメージを受けていたが。
「粗方やったのである?」
「みたいだな」
元々『ゴミクソ岩場』は、それほど広い魔物の領域ではない。
その割には随分と虫の密度が高かったが、それはこのろくに食べ物がない『ゴミクソ岩場』では虫たちが共食いで生きているという、事情を知るとさらに気分が悪くなる事実があったからだ。
そのため、不注意な警備隊員たちがちょっとゴミや食べ残しを放置していると、そこにワラワラと押しかけてくる。
汚い話だが、排せつ物も燃やすか、領域の外に出すしかなかった。
なぜなら、便所を作るとそこに殺到してくるからだ。
そういう事情も、余計に警備隊員たちの心を折ってくるのだ。
だが、そんな悲惨な日々もついに終わる。
あとは、この領域のボスだけ……上空から魔法で念入りに『探知』したから大丈夫であろう。
特にゴキブリは、一匹見たら三十匹はいると思った方がいいので、念入りに『探知』して駆除していた。
「じゃあ、行ってくる」
「頼むぞ、ヴェル」
「お館様、もう終わらせましょう!」
エルと警備隊員たちの声が、随分と必死な感じがした。
もうこれ以上、虫の処理は嫌なのであろう。
ブランタークさんによると、『ゴミクソ岩場』のボスは中心部に逼塞しているそうだ。
そこで、リサは……。
「あはは、まだ燃やすものがあるね」
「ありませんから! リサ様!」
ちょっと休養が必要だと思うので、俺、ブランタークさん、導師の三人だけで現場に飛んで行くことにした。
ブランタークさんによると、『ゴミクソ岩場』のボスはまったく強くないそうだ。
「ボスらしくないのである!」
「こんな、特殊な魔物の領域だからな。ボスも特殊なんじゃないのか?」
「どんなボスなんです?」
「見ればわかる」
現場に到着すると、そこには小さな岩山にビッシリとしがみ付く、数千匹はいると思われる全長五メートルほどのゴキブリの群れがいた。
その体は黒光りしており、目撃した多くの人たちの体も心も恐怖に陥れることは確実であろう。
現に俺も、背筋が凍る思いだ。
強いとか弱いとか以前に、ただ生理的な嫌悪感しか抱けない。
「あれですか?」
「ううっ……。俺も現物は初めてみた。『グレート・オブ・コックローチ』は、このように数千匹の群れで一匹のボスみたいな扱いとなるわけだ。全滅させないと、倒したことにならないが、大きいだけでそんなに強くはないそうだ」
見た目が気持ち悪いだけで、他の虫と同じく弱いのが救いか。
これで強かったら最悪だよな。
でも、繁殖力に能力を全振りしていると考えれば……。
強いゴキブリってのは、前世で見た漫画くらいなのか?
「では、某が一気に片づけるのである! 我が渾身の炎柱を見るのである!」
「導師、そんないきなり! 『グレート・オブ・コックローチ』を殺すのに炎は……」
これまで、どの虫も最後に焼き払っていたせいであろう。
実は精神的に追い込まれていた導師がブランタークさんの話をすべて聞かず、『グレート・オブ・コックローチ』の群れ全体を火の柱で包み込む『ファイナル・バースト・ギガ・バーニング』なる初めて聞く魔法で、『グレート・オブ・コックローチ』を岩山ごと焼き払った。
「言うほど威力はないのかな?」
広範囲に犇めく『グレート・オブ・コックローチ』なので、それをすべて火柱で包み込んだようだ。
威力はさほどでもないが、『グレート・オブ・コックローチ』はすべて炎に包まれているから、ブランタークさんが心配する必要はないように思えてきた。
一度火がつけば、巨大ゴキブリは自身の油で燃え尽きてしまうのだから。
「ブランタークさん、別に炎で焼いても問題ないみたいですよ」
「心配しすぎなのである!」
「全部燃えていますし、これで終わりですよね」
「戻ったら、王都で豪華な飯と酒である!」
「俺も、エリーゼの手料理を食べたいな」
その前に風呂に入って、体が臭いのをどうにかしなければ。
そんな風に思いながら導師と話をしていると、ブランタークさんの顔色が一気に真っ青になった瞬間を見てしまった。
「ブランタークさん、どうかしましたか?」
「聞いたとおりだ……『グレート・オブ・コックローチ』は、炎で倒してはいけない。死骸を焼くのみにすべし。なぜなら、『グレート・オブ・コックローチ』は、そのしぶとい生命力が特徴の魔物で、焼かれてもなかなか死に至らず、自分に火をかけた者に全力で向かってくるからだ」
「えっ?」
そんな話、今初めて聞いたけど。
炎に包まれた数千匹の巨大ゴキブリが、一斉にこちらに向かってくる?
燃えた時に出る臭いと共に。
なにより、あのガサガサが数千匹も、しかもそれは全長五メートルを超える巨大ゴキブリなのだ。
「導師、ちょっと俺から離れてください」
「そうだな。これは、導師が俺の話をちゃんと聞かないからこういうことになったんだ。責任取らないとな」
「なにを言うのである! バウマイスター辺境伯、ブランターク殿。某たちは、これまでいくつもの困難を乗り越えた仲間にして、年は離れているが真の親友なのである。一蓮托生なのである」
いつの間にか導師は、俺とブランタークさんのローブを掴んで決して離さなかった。
意地でも、三人で一蓮托生ということにしたいようだ。
「さあ、一緒に『魔法障壁』を張るのである」
「導師、恨むからな!」
「恨みますよ!」
「あとで飯でも奢るのである!」
「「割に合わねえ!」」
それ以降のことは、あまり詳しく語る必要はないと思う。
容易に想像がつくし、正直あまり語りたくないというか……。
火達磨の巨大ゴキブリ数千匹が、導師目掛けて一斉に襲いかかり、『魔法障壁』にぶつかる度に手足がもげ、体が焼けて強度が落ちている個体は胴体が裂け、その体液が飛び散って『魔法障壁』に飛び散り、あの気持ち悪い足やお腹側の見たくもない動きが『魔法障壁』越しによく見えた。
「導師ぃーーー!」
「すまん、なのである!」
「早く死んでくれぇーーー!」
それから十分ほどで、火がついた『グレート・オブ・コックローチ』は全滅した。
別に命の危険は一切なかったが、その十分間で俺たちは一生忘れられないトラウマを、その心に深く刻んでしまうのであった。
「ううっ……『ぶーーーん』って火がついたゴキブリが一斉に向かってきて……」
「あの節ばった黒い光る足がガサガサと……」
「火達磨でも、体が半分にモゲても生きているのである!」
「大丈夫、三人とも」
「ヴェル君、おかゆだけど食べられるかな?」
「伯父様が寝込むなんて、初めてのことだと思います」
「導師に寝込むってイメージがないよね」
「お師匠様もですわ。歴戦の元冒険者なのに……」
無事、『ゴミクソ岩場』の開放に成功した俺たちであったが、導師の先走りのせいで『グレート・オブ・コックローチ』たちによる死の洗礼を受けた俺たち三人は、屋敷に戻ると熱を出して寝込んでしまった。
怪我をしたからとか、ゴキブリが不潔で持っていた病原菌に感染したからとかではない。
『魔法障壁』越しながらも、次々とこちらに襲いかかり、炎で焼かれて、千切れ、体液を吹き出しながら、節くれだった黒い足をバタバタ動かすゴキブリたちのせいで精神的に参ってしまったのだ。
あの導師ですら寝込んでしまい、エリーゼが熱を出して寝込む彼を見たのは初めてだというのだから、よほど酷い惨状だったというわけだ。
臭いも二~三日くらい取れなかったし、とにかく酷い目に遭った。
もう二度と、巨大昆虫の相手なんてゴメンだ。
「バウマイスター辺境伯、導師、ブランターク、大丈夫ですか?」
そこに、俺たちの代わりに『ゴミクソ岩場』の後始末をしてくれたブライヒレーダー辺境伯が見舞いに訪れた。
「お館様、どうなりました?」
「やはり少し残っていたようですね。王国軍の連中が泣きながら始末していましたよ」
ボスの討伐で無事に開放された『ゴミクソ岩場』であったが、やはり隠れていたゴキブリたちがいたそうだ。
その始末は、新しい都市を作るため先に到着した王国軍の仕事となり、彼らもゴキブリの洗礼を受けて心に深いダメージを負ったらしい。
「クソッ! あれだけ念入りに潰したのに、まだ残っていたのか」
「台所でも、思わぬところにいるものね」
とはいえ、それは普通のゴキブリだ。
あの巨大なゴキブリがどこに隠れていたのか、正直疑問なところもあった。
「岩の間に隠れていたそうです。到着した王国軍が不用意に食料などを野積みにしたそうで……」
夜に兵士たちが寝静まった頃、野積みされた食料を目当てに一斉に顔を出したわけか。
「兵士たちは夜中に叩き起こされて、みんなでゴキブリを倒して焼いたそうです。焼かないと死骸が食われて新しいゴキブリが生まれますからね」
そんな散々な目に遭いつつも、王国軍は『ゴミクソ岩場』の整地とまだ少数残っているゴキブリの駆除に当たっているらしい。
それが終われば町の建設を始めるそうだ。
俺たちはもう任務をまっとうしたので、あとは王国に任せて問題ないであろう。
というか、もうあそこには行きたくない。
「あっそうだ。バウマイスター辺境伯と導師に報酬を貰ってきましたよ」
「報酬ですか」
それは出て当たり前というか、トラウマのせいですっかり忘れていた。
「新しい町を建設するので、王国政府は建設債券を発行しました。バウマイスター辺境伯にはその二割、うちと導師には一割ですね」
王国直轄地なので権利の譲渡は難しいが、王国が起債して集める予定の債権をくれるというわけか。
「償還に三十年かかって、年利5パーセントなので悪くないですね」
三十年間、額面の5パーセントの金額を貰えるからだ。
王国は金持ちなので債権など発行する必要はないのだが、俺たちへ褒美を渡すためにルックナー財務卿あたりが考えたのであろう。
お金を出してもいない債権でそれだけ貰えるのであれば、まあ悪くはないのか。
「ケチなルックナー財務卿にしては珍しいのである!」
「虫の駆除と、岩場の開放の経緯を聞いた者の中で、文句を言った人はいませんでしたね。そもそも『ゴミクソ岩場』に行こうと考える人なんていませんでしたから」
誰もが嫌がる虫天国を無事開放した俺たちへの褒美をケチるのは、さすがに人間としてどうなのだと思われたのかもしれない。
どれだけ強くても、さすがにあそこに行くのだけは嫌だという冒険者や貴族ばかりだからこそ、『ゴミクソ岩場』は解放されずに残っていたのだから。
「とにかく、あそこに新しい町ができれば南部はさらに発展しますしね」
「多少利便性もよくなるから、ウシャント卿も大人しくなると思います」
「彼に関しては、もう大人しいというか、バウマイスター辺境伯が二度と会うことはないと思いますよ」
「えっ? どうしてですか?」
「それは拙者が説明しましょう」
ちょうどここでタイミングよく、ローデリヒも俺たちの見舞いに顔を出した。
そういえば、いまだ終わっていないウシャント騎士爵家との交渉は彼が継続して行っていたのであった。
「ウシャント卿は、残念ながら王都送りになりました。先を見据えた結果、奇策を打ったのはいいのですが、奇策は常道ではありません。よほど非常の時でない限り、それは己に跳ね返るもろ刃の剣なのです」
「つまり、領地を取り上げられたと?」
俺はローデリヒに、彼の末路を問い質した。
「左様です。ウシャント騎士爵領のみなら王国も取得を躊躇うでしょうが、近くに町ができるのであれば、直轄地にしても赤字は少ない。彼は思い切った策を打ちましたが、それで偉い方々の怒りを買うこともあるのです」
大げさかもしれないが、ウシャント卿は貴族制度に公然と反旗を翻したようなものだからな。
もし『ゴミクソ岩場』が開放されなければ放置されていたかもしれないが、元『ゴミクソ岩場』が新しい町になる以上、零細騎士に容赦はしないというわけか。
「当然役職ナシで、最低でもあと数代は職を得られないでしょうね。年金生活の零細法衣騎士に降格というわけです」
「そうなのか」
ウシャント卿は領地を取り上げられ、王都に送られて法衣貴族に格下げとなったわけか。
だが俺には、一つ腑に落ちない点がある。
王国の大半の貴族や王族は、ウシャント卿は罰を受けたと思っている。
だがそれは、ウシャント卿以外の貴族たちの価値観であり、彼自身はそう思っていないかもしれないのだ。
「お館様、貴族が領地を失うなど恥もいいところ。考えすぎではないでしょうか?」
「そうかなぁ?」
その後、発熱と体調不良は精神的なものが原因だったので翌日には回復し、普通に食事がとれるようになった。
朝、朝食の目玉焼きの横に、ほうれん草ではなく、見たこともない菜っ葉の炒め物が添えられていた。
「あなた、これが旧ウシャント騎士爵領特産のチタ菜だそうです」
「これがねぇ……」
早速試食してみるが……。
「普通の菜っ葉だよね、エリーゼ」
「そうですね。普通の菜っ葉ですね」
それ以外の感想は一切出なかった。
それでも、王国直轄地になった旧ウシャント騎士爵領では次第にチタ菜の栽培量が増えていき、主に『ゴミクソ岩場』の跡地に作られた町『ロックブルク』で主に消費されるようになるのであった。
「はぁーーー、領主としての義務から解放され、毎年なにもしなくても年金が貰える。面倒なつき合いも、凶状持ちのうちなんてしばらく相手にされないし、贅沢しなければ一生ノンビリすごせる。最高だな!」
そして、とある在地貴族から職ナシ法衣貴族になった男は、働かずに暮らせるようになって一人喜んでいた。
これら一連の騒動の中で、実は彼が一番の勝ち組かもしれない。
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