第363話 魔王様、奮闘す!(後編)
「どうだ? バウマイスター辺境伯。もうそれほど魔力に余裕もあるまい」
「……」
「沈黙は肯定と受けるぞ。お前の死はもうすぐだな」
この空間に飛ばされから、どれだけの時間が経過したであろうか?
ここには時間の概念がないので、段々と時間を感じる感覚が鈍ってきたような気がしてきて、よくわからない。
数分のような気もするが、数時間経ったようにも感じてしまうのだ。
ただ魔力の減りから考えると、数十分が正解か?
いや、それすら怪しいものだ。
「時間の概念がないのに、どうして魔力が減るんだ?」
「そういう空間だからさ。知りたかったら、あの世でこの魔道具を作った魔族の偉大な先達たちに聞くがいい」
時間の概念はないのに、ただここに浮いているだけで、魔力を普段の数倍も早く消費してしまう。
嫌な空間だな。
「辛かろう、自分よりも魔力量が多い敵に粘られてなぁ。ほれ!」
俺の魔力が早く尽きるよう、オットーは時おり魔法を飛ばしてくるようになった。
これが通常の空間なら、魔力を節約して回避するという手が使えた。
ところがこの空間では、『飛翔』による回避行動だけでも大量の魔力を消費してしまう。
下手に動けず、『魔法障壁』で防ぐしかなかった。
小さな『魔法障壁』で魔法を防ぐという手も使えなかった。
オットーが、わざと俺の体全体を襲う魔法を放ってきたからだ。
彼は俺以上に魔力を消費しているのだが、魔力量の差でまだ奴が圧倒的な優位にある。
予備の魔晶石で魔力を回復していたが、奴も魔晶石を持っていたので同じことができた。
オットーがどれほどの魔晶石を持っているかわからないが、やはりどう考えても俺の方が先に魔力が尽きてしまうであろう。
そのくらい、両者の魔力量の差は大きかったのだ。
「一か八かでケリをつけるか?」
「……」
俺は、オットーの誘いを無視した。
今の、まだある程度魔力が残っているうちにオットーに最後の勝負を仕掛ける。
勝率はゼロではないが、ほぼゼロに近いであろう。
オットーが逃走するか防御に徹すれば、早く魔力が尽きて俺の死が早まるだけ。
師匠なら速攻でケリをつけても勝率は高いが、今の俺ではまだ無理だ。
「(とにかく、今は待つしかない)」
外にはエリーゼたちがいる。
導師とブランタークさんもいて、ライラさんと魔王様もいるのだ。
きっとなにか対策を立てているはずで、ならば一秒でも長く魔力を保たせるのが一番生存率が高いはず。
ここで、オットーの挑発に乗るのは危険だ。
「若いのに無理はしないのか。年寄りみたいだな」
「……」
なにを言われても無視だ。
今は、とにかく時間を稼がないと。
それにしても、俺は今少し後悔している。
人間と魔族では考え方が違うのに、魔王様と器合わせをしなかったのは失敗だった。
もっと魔力があれば、ここまで追い込まれることはなかったのに。
俺は『郷に入っては郷に従え』を大切にする男だが、それが仇となるとは……。
今を無事に乗り切れたら、もう少し自分らしく生きるとするかな。
「まあいい。お前の死は、それほど遠い先でもないさ」
どれだけ時間が経ったであろうか?
俺の魔力は枯渇寸前で、段々と内心に焦りが広がってきた。
「バウマイスター辺境伯、その魔法の袋に入った魔晶石で魔力を補充してはどうだ?」
オットーの野郎、すでに俺の持つ魔晶石がすべて空なのを知って挑発してきやがった。
本当に嫌な奴である。
それでも、今は一秒でも長く魔力が枯渇するのを防ぐしかない。
「ふふふっ、もう少しだな」
そして、ついにその時が訪れた。
『飛翔』が保てなくなったのだ。
わずかに魔力が残っているので意識は失っていないが、もう落下は防げない。
「ひゃひゃひゃ! バウマイスター辺境伯の『飛翔』が切れたぞ! 私は勝利したのだ!」
俺は、上か下か右か左かもわからない真っ白な空間を落下し始めた。
どうやらこれで俺も終わりのようだ。
最後まで助けを待つという、俺の賭けは失敗に終わった。
この世界に飛ばされてから色々とあったが、今度も短命で死んでしまうとは……。
いや、俺はこの空間では死ねないのだった。
ただひたすら落下を続け、最後には気がふれてしまう未来か……。
こうなったら、完全に自我を失う前に自害でもした方がマシか?
いや、まだなにか脱出手段があるかもしれない。
そんなことを考えていたら、突然誰かに背中から体を支えられて落下が止まった。
「えっ? どうして?」
「どうにか間に合ったようだな。バウマイスター辺境伯、だから言ったであろう? 余の忠告を聞かぬからそうなる」
「陛下?」
俺を救ったのは、なんと魔王様であった。
俺は導師かライラさんが救援にくることを予想していたが、魔王様とは意外だった。
「よくライラさんが許しましたね」
「内心渋々だがな。この空間では上級でも活動時間が短い。ライラには空間をこじ開ける仕事があるからの。もう一つ、残念な知らせがある」
「なんでしょうか?」
「バウマイスター辺境伯を探すのに時間がかかった。もう余が潜ってきた入り口は消えておろう。オットーが持つ次元空間発生魔晶石を破壊するか、オットーを殺すしか脱出の手段がない。その前に……」
魔王様は声を小さくし、そっと俺の耳元で呟いた。
「(目を閉じよ。早く)」
「はい?
「(いいから、早く!)」
小声ながらも強く言われたので、俺は慌てて目を閉じた。
美少女に強く命令されると、素直に言うことを聞いてしまう。
そういうことって、割とあると思います!
「未練たらしく生き残った王家の残骸が、これより世界の王となる私の邪魔をしただと?」
「オットーとやらよ。多少弁が立ち、魔力も余に次ぐほどだが、そなたについてくる者は少なかろう。なぜなら小心で卑劣で、自分のことしか考えられぬ小物だからだ。そなたに、人を統べる資格などないわ。『フラッシュ』」
「あーーーっ! 眼がぁーーー!」
俺が言われたとおり目を瞑った直後、魔王様はオットーを挑発しつつ魔法で眩しい光を放った。
魔法名が、『ライト』ではなく『フラッシュ』なのは、魔族だからかな。
眩い魔法の光が目に直撃したオットーは、まるで某天空の城のア二メに出てくる悪役のように、目を押さえながらのたうち回っている。
それにしても、落下しないようにのたうち回るなんて、意外と器用じゃないか。
「よし! 少し離れるぞ!」
魔王様は、俺を抱えたまま『飛翔』でオットーから距離を置いた。
そして俺に、ある提案をする。
「わかっておろうな? もう躊躇する暇はないぞ」
「わかりました。ですが、俺は人間ですよ」
魔王様は俺と器合わせをしてその魔力を増やし、勝率を上げたいようだ。
彼女はオットーよりも魔力量が多いが、残念ながらオットーよりも戦闘力がない。
十三歳の少女に、ライラさんもそこまで厳しい訓練は課さないのだから当然だ。
それよりも、俺の魔力を増やしてしまっていいのかと、彼女に尋ねてしまった。
「バウマイスター辺境伯は、人間にしては魔力量が多い。あとどの程度増え続けるかわからぬが、そう長い期間ではなかろう。結局はなにも変わらぬ。それよりも今は、目の前の敵に対抗する力を手に入れる方が先だ。そなたは守らねばならぬものが多い。今回の暗殺事件、単純に魔族の仕業だと思うか?」
「いいえ」
王国、帝国どちらか知らないが、人間がお金を積んで俺の暗殺を依頼したかもしれない。
むしろその可能性の方が高いであろう。
オットーを捕えて尋問すればわかるかもしれないが、今はそんな余裕がない。
彼の視力が回復する前に、器合わせを始めよう。
「それでよし。予備の魔晶石も大量に持ってきた。少し魔力を回復させてから始めるぞ」
「はい」
俺は魔王様が持参した魔晶石で少し魔力を回復させてから『飛翔』で再び浮かび上がり、魔王様と対面して両手を繋いだ。
自分よりも魔力がある人と器合わせをするのは、師匠以来初めてのことである。
「さて、どのくらいまで魔力量が伸びるか……」
すぐに魔力量の限界がきてオットーに対抗できないという事態は避けたいが、こればかりは、神のみぞ知るというやつだ。
最悪、二人で攻撃すればいいので、オットーに負けることはないと思いたいが……。
「余はそんなに心配しておらぬぞ。バウマイスター辺境伯は、ちょっと普通の人間の範疇を超えているからな」
「それって、褒められているのですか?」
「当たり前だ。もしかしたら、バウマイスター辺境伯は余よりも魔力量が上かもしれないと思っておるぞ」
魔族の王よりも、魔力の量が多い人間って……。
もしそうだとしたら、それはやはり俺が別の世界の人間なのと関係あるのだろうか?
さすがにそれはないか。
今の時点で魔王様の魔力量を超えても、彼女も魔力量は成長途上にある。
どうせすぐに抜かれるはずだ。
「これは予想以上だな。おおっ、バウマイスター辺境伯の魔力は心地よいの」
「そうですか?」
目の前で両手を繋いだ美少女からそういうことを言われると、少し恥ずかしい気持ちになってしまう。
それと、気のせいか少し魔王様の顔が赤いような……。
「陛下、大丈夫ですか?」
「うんっ、まあ気にするな。時にバウマイスター辺境伯は知っておるか? 魔族と人間にある数少ない差を」
「差ですか? なんでしょうか?」
「極稀にあることだが、魔族が器合わせをして魔力を通わせると、魔力の相性がよくてお互いに好意を抱くことがあるそうだ。まあ、滅多にないことだし、余は魔族でバウマイスター辺境伯は人間だからな。まずそういうことはないのだが……」
「それは珍しい話を聞けました。陛下」
「なあ、ヴェンデリンよ」
「はい……」
あれ?
どうして急にバウマイスター辺境伯から、ヴェンデリンなんて名前で呼ばれるようになったんだ?
「余とヴェンデリンもつき合いが長いからな。代わりに余のこともエリーと呼ぶがいいぞ」
「さすがにそれは……」
そんな愛称で魔王様を呼んだら、あとでライラさんになんて言われるか。
あの人は、もの凄い忠臣だからなぁ……。
「そういうことは気にするでない! 我々は同じ敵に立ち向かっている戦友同士であるし、余は王である! いくら宰相たるライラでも反論は許さぬ! よって、気にせずに余をエリーと呼べ!」
「はい、エリー様……」
「様はいらぬ。第一、ヴェンデリンは余の家臣ではないではないか」
「ですが、他国とはいえエリー様は王なので……」
「ヘルムート王国やアーカート神聖帝国ならいざ知らず、ゾヌターク共和国治世下の王など、さほど偉くもない。なにしろ実権がないからな。わかったら、エリーと呼んでみよ」
「エリー」
「それでいい」
エリーは、俺に対し満面の笑みを浮かべた。
こういう妹がいたら可愛くていいかもしれない。
じゃない!
今は戦いに集中しなければ。
「と、これで器合わせは終わりだな」
結構時間がかかったが、今の俺の魔力量は……ほぼ魔力がない状態で器合わせをしたので、実際に魔力を補充してみないと増加量がいまいちわからないな。
「目くらましなど、舐めた真似をしくさって!」
しばらく『眼がぁーーー!』と言いながらのたうち回っていたオットーが復活したようだ。
彼は、自分に目潰し魔法を使ったエリーに対し、強烈な殺意を向けた。
「王など! 民を虐げ、その富を吸い上げ、贅沢な暮らしをしていた俗物でしかない! だから落ちぶれたのに、この私の邪魔をするのか?」
「お金で暗殺を受け請った俗物と語り合う舌など持たぬわ。お主はいちいち偉そうだが、要はただ自分がその俗物な王や貴族になり替わりたいだけであろう? 所詮は欲深い俗人、愚人でしかないのだと気がつけ!」
「小娘がぁーーー!」
エリーがオットーを挑発している間、俺は彼女が持参した大量の魔晶石で魔力を回復させていた。
その中にエリーゼの指輪も混じっている。
やはり、みんなで協力してエリーをここに送り込んでくれたようだ。
「バウマイスター辺境伯……貴様……」
「残念だったな、オットー。これで形勢逆転だ」
俺は、今のエリーと同じ魔力量まで成長したようだ。
しかも、まだ限界が来ていないような気がする。
それはあとで検証するとして、今はオットーを倒してこの空間を脱出しなければ。
「人間が、どうして魔王に匹敵する魔力を……」
「さあな、そんなことを俺が知るか。あの世で神にでも教えてもらえ」
いくらオットーとはいえ、俺との根競べで魔力量は四分の一以下にまで落ち込んでいる。
回復用の魔晶石も使い切ってしまっているようで、その状態でも魔力を回復させないのがその証拠だ。
それでも、器合わせをする前の俺の半分くらいの魔力量が残っているのか。
「どうする? 一か八かの勝負を……」
「死ねぇーーー!」
逆に追い詰められたオットーは、突然無属性の魔法を俺に向けて放った。
即応性、威力ともになかなかだが、残念ながら俺に不意打ちなど通用しない。
俺もカウンターで無属性魔法を放ち、二人の間で無属性魔法がぶつかり合い、眩い光を放つ。
「まだだ!」
「くぅ!」
俺は、無属性魔法の威力をあげた。
双方の青白い光が激突し、威力比べに負けたオットーの方に光の奔流が迫っていく。
彼は慌てて無属性魔法の威力をあげるが、魔力量が上がった俺には到底及ばず、ただオットーの魔力切れを早めさせるだけであった。
「あいつ、逃げるという選択肢はなかったのか?」
「ライラによると、これはあくまでも魔法訓練用の魔道具だそうだ」
殺人にも転用可能だが、それには条件がある。
一緒に空間に入った者を先に魔力切れにしなければならず、双方魔力が残っている状態で魔道具の効果を解くと、二人とも元の世界に戻ってしまうらしい。
「であれば、ここで魔道具の効果を解いたとしても、元の場所でヴェンデリンと戦うことに変わりはないし、外にはエリーゼ殿たちもいるからな」
それならここで、一対二で戦った方がマシというわけか……。
ただ単に戦闘経験のないオットーが、圧倒的優位から圧倒的不利に転落し、動揺のあまりヤケになって魔法を放ってきたという説も否定できないけど。
「ヴェンデリン、もっと魔法の威力を上げろ。オットーが死ねば脱出可能らしいが、なにがあるかわからぬ。余は魔力の大半をヴェンデリンに送るから早くケリをつけよ」
そう言うと、エリーは『飛翔』を切って俺におぶさり、自分の魔力を俺に送り始めた。
まさか、効率のいい魔力転送をブランタークさん以外に使える人がいたなんて。
「王は臣下にも民にも施しをする存在だ。魔力を分けることなど容易い」
魔族では、魔力移転は王族や貴族の魔法というわけか。
「余がおぶさり、男性であるヴェンデリンも色々と複雑な心境であろうが気にするな」
いえ、今のエリーの胸の大きさなら背中に押しつけられてもさほど……。
うちには大戦艦エリーゼ、戦艦カタリーナなどがいるので、水雷艇エリーでは……。
「ええと……非常に残念ですが……」
「なっ、余も三年前に比べれば成長しておるのだぞ!」
「あと五年もすれば、エリーは絶世の美女になるだろうからさ」
「そうか。そうか」
オットーに向けて高出力の無属性魔法を放っている間、俺はエリーの機嫌を取るのに懸命であった。
やはり、年頃の女の子を子供扱いしてはいけないな。
「ふざけるな! この私を無視するな!」
オットーが吠えていたが、彼は一瞬でも気を抜けば俺の魔法で消滅させられてしまう。
もし無理やり魔法から逃れても、今の魔力量ではものの数分で魔力が尽きてしまうはずだ。
そうなれば、オットーを殺すなんて簡単なことだ。
「暗殺などという卑怯な方法で、俺の殺害を目論んだ報いだ」
「降伏する! 私はある人物に頼まれて暗殺を実行した。その後ろに人間もいるのだ。それを知りたくないか?」
このままだと殺されると判断したオットーは、突如降伏を口にした。
「だから、私を殺さないでくれ」
「ちなみに、俺を殺そうとした人間とは?」
「言えない。助けてくれないと言わないぞ! もう一つ、私は法によって保護される権利がある。弁護士の派遣と、ゾヌターク共和国で裁判を受ける権利が……」
「ヴェンデリン」
「そうだな」
こいつは、とんでもないクズだ。
暗殺を目論見、成功したらゾヌターク共和国に逃げ込み、王国の法で自分を捌く権利などないと言い張る。
魔族に対しては、自分は悪逆な貴族を討ち取った英雄だと言い張って名を売り、無罪を勝ち取るつもりなのであろう。
もし王国が抗議しても、野蛮な法を用いる人間の国に魔族を引き渡すなどあり得ない、そんなことをしたら政府が人権侵害をしようとしている、などと言って騒ぐつもりだったはず。
貿易交渉すら締結されていないのに、犯罪者の引き渡しなんてもっと難しく、そこまで考えての悪事か。
自分だけが安全圏にいると自覚しながら悪事を働くなんて、一欠けらの同情すら感じない。
こいつは、ニュルンベルク公爵よりも圧倒的に駄目な奴だ。
「お前はここで死ね!」
「バカな! 私は人間側の首謀者を知っているのだぞ!」
「大凡想像がつくし、外にいる連中に聞けば済む話だ。ちょっと痛めつければ吐くだろう」
「容疑者を私刑するなど、野蛮な人間めが!」
「だから、暗殺を目論んだお前が言うな! 王国の法では貴族と王族への暗殺は未遂でも死刑。生かして捕える必要もなく、そのまま処刑しても文句は出ない。自分の都合によってコロコロと言い分を変えるな! それにだ」
「それになんだ?」
「ここはバウマイスター辺境伯領だ! ここでは俺が法律なんだよ! 家族が巻き添えにならないだけありがたく思え!」
「やはり人間は野蛮な生き物だ!」
「だから、お前が言うな!」
もう聞く耳持たないと、俺は無属性魔法の威力をあげた。
すでに魔力がほとんどないオットーに青白い光の奔流が迫り、ついに彼の魔力が完全に尽きたその瞬間、俺が放った無属性魔法の奔流に包み込まれた。
高威力の無属性魔法がオットーの体を容赦なく溶かしていき、激痛のあまりオットーが断末魔の叫びをあげた。
「この私こそが魔族を統べ、人間すら支配して世界の王にぃーーー!」
最後にそう言い残すと、オットーの体は魔道具と共に完全に消え去ってしまった。
「ふう……なんとかなったか……。エリー、助かったよ」
ギリギリで救いに来てくれたエリーに、俺は改めてお礼を述べた。
「ヴェンデリンよ。ありがたいと思うのなら、一つお願いがあるのだが」
「聞けるお願いなら聞くよ」
「ちょっと疲れたので、おんぶじゃなくて抱っこしてくれないか?」
ええと……。
それは、お姫様抱っこというやつでしょうか?
「余は魔力がなくなりそうだからな。眠くなってきたのでおぶさるのも辛いのだ」
「わかりました」
そう言われては仕方がないと、俺はエリーをお姫様抱っこした。
「楽になった。余は満足だ」
エリーがそう嬉しそうに言ったところで、真っ白な空間に罅が入り始めた。
オットーが死に、彼が持つ次元空間発生魔晶石が破壊されたので、この空間が維持できなくなったのだ。
次第に空間に入る罅が増えていき、ついに砕けてその破片が地面へと落ちて行く。
白い空間がなくなった場所には、青い空が見えていた。
「どうやら無事に戻れたみたいだな」
「そうだな」
数十秒ほどで完全に白い空間が砕け落ち、俺はエリーをお姫様抱っこしたまま空に浮いていた。
その場所は、オットーにより別空間に引きずり込まれた場所からそう離れていなかった。
「おおっ! 無事であったか。バウマイスター辺境伯! よかったのである!」
「辺境伯様、無事でよかったな」
俺とエリーを見つけた導師とブランタークさんが、『飛翔』で俺たちの傍まで飛んできた。
「それにしても、バウマイスター辺境伯も隅に置けないのである!」
「それが誤解ですよ。エリーは魔力切れなので、俺が抱っこしているだけです」
「それにしては、どうしておぶらないでわざわざお姫様抱っこなんだよ?」
ブランタークさんが、怪しいぞという視線を向けてきた。
「エリーがそうしてほしいと言ったので。エリーは命の恩人ですからね」
もし彼女が間に合わなかったら、俺は永遠にあの空間で落下し続けていたであろう。
死ねずに永遠に落下し続けるなんて、死ぬよりも最悪だ。
それを思えば、疲れたから抱っこしてほしいという可愛いお願いくらい、聞いても罰は当たらないと思うんだ。
「そんなわけです」
「他意があるわけではない。ブランターク殿よ、気にするな」
「本当ですか? 魔王様」
「余がそうだと言っているのだ。気にするな」
「そうですか……。俺はどっちでもいいんですけど、下の連中がどう思うかな?」
「下?」
ブランタークさんに指摘されて下を見ると、なぜか俺が生還して大喜びのはずが、エリーゼ以下女性たちはみんな怒っていた。
「あなた、ご無事の帰還をお祝いいたします」
エリーゼは口ではそう言っていたが、その表情は冷たく羅刹のようであった。
「あのぅ……。エリーゼさん?」
「妻でもない女性をそのように抱っこするのは、感心できません! 陛下も未婚の淑女として不用意ですよ」
「エリーゼ殿、これはほぼすべての魔力をヴェンデリンにくれてやったから、余が疲れてしまっただけのことだぞ」
「なら、もういいですよね?」
「余は体がダルいぞ。ヴェンデリン、もう少しこのままにしておいてくれ」
「はい」
「ヴェル、あなたね!」
「イーナ、俺は悪いのか?」
イーナが非難めいた言い方をしたので、俺は思わず反論してしまう。
「ライラさんが怒るわよ」
「ライラ、気にするでない。ただ魔力切れで疲れただけだ」
「畏まりました」
「ライラさん、そこは強く怒らないと駄目ですよ!」
「私は陛下の臣下ですので、このくらいのことでいちいち目くじらを立てる必要はないかと」
ライラさんは、俺がエリーをお姫様抱っこしても気にならないようだ。
魔族の世界は令和日本に近いので、キスをしていたわけでもないし、ということなのであろう。
「まあまあ、イーナちゃん」
「ルイーゼは気にしていないの?」
「だって、陛下が特別な意味がないって言っているからね」
「そう。陛下が自分でそう言うからには、きっと本当になにもない。魔族の王たる者が嘘をつくはずがないじゃん」
「それもそうね。陛下はあくまでも疲れたから抱っこしてもらっているだけだものね」
「まあな」
エリーはイーナの言い分に口では納得していたが、なぜか目が泳いでいた。
「それよりもさ。陛下はどうして急に旦那を名前で呼んでいるんだ?」
「ヴェンデリンさんにも、自分を愛称で呼ばせていますわね。私はむしろそちらの方が気になりましたが……」
カチヤとカタリーナも、俺とエリーに色々と言いたいことがあるようだ。
それにしても、女性は鋭い。
すぐに、エリーと愛称で呼んでいることに気がついたのだから。
「お姫様抱っこ、羨ましいです……」
「姉御は年を考えて……すみません。なんでもありません」
お姫様抱っこが羨ましいと純粋に感想を述べたリサに対し、カチヤが年を考えろと文句を言うが、彼女の目が一瞬で座ったをの見てすぐに謝った。
この辺の危機回避能力はさすがというか……。
「ほほう、そういうことか。ヴェンデリンも豪胆よな」
テレーゼ、フィリップ公爵時代のような目つきで思わせぶりに俺を見るのをやめてくれ。
「旦那、あたいたちも頑張ったんだから、公平にしてくれよな」
「なるほど、それはいいアイデアですね」
カチヤのトンチンカンな意見に、なぜかエリーゼが納得してしまった。
「あなた、また妻が増えるのは仕方がありませんが、私たちに心配をかけたのですから、公平にお姫様抱っこをしてほしいです」
「いいアイデアね。エリーゼ」
「ボクもそれでいい」
「ヴェル様、陛下だけにズルイ」
「だよなぁ。姉御もそう思うだろう?」
「そうですね。こういう時に不公平な扱いをすると、あとで家庭不和の原因にもなりますから」
「リサの言うとおりじゃぞ。ヴェンデリンの腕が翌日大変かもしれぬが、死ぬわけでもない。頑張れよ」
「わかりました」
それでエリーゼたちが納得するのであれば……。
どうにか暗殺から逃れたのに、奥さん全員をお姫様抱っこする羽目になるとは……。
みんな、どれほどお姫様抱っこに憧れているのやら。
「おっ! 生きていたか、ヴェル。ハルカさんと近隣の警備隊を纏めてきたんだが、必要なくなっちまったか。それにしても、お前、魔族の嫁を貰うのか?」
「それはない」
人間が魔王様を嫁にするには、色々とハードルが高いような気がするのだが……。
「私たちも間に合いませんでしたが、連絡をしたアグネスさんたちも間に合いませんでしたね」
「それは仕方ないよ。アグネスたちは遠方で他の仕事をしていたから」
ハルカと救援に間に合わなかったアグネスたちの話をしていると、バウルブルク方向から三つの魔力反応が近づいてきた。
導師から教わった『高速飛翔』で、俺の救援に向かっているアグネスたちで間違いないだろう。
「先生、間に合わなくて申し訳ありません」
「先生、無事でよかったです」
「先生……。私は先生に奥さんが増えても気にしませんから」
到着するなり、アグネス、シンディ、ベッティの三人は俺に声をかけてきた。
そして、お姫様抱っこされたままのエリーを見て羨ましそうにしている。
この三人。
俺を『先生』って呼べる妻は自分たちだけだと、俺を先生と呼ぶのをやめなかった。
「ところで先生、下手人は?」
「主犯は倒した。残りは全員拘束されている」
「間に合っていれば、私もご褒美が貰えたのに……」
「残念です。でも、いいなぁ……」
「陛下、気持ちよさそうですね……」
アグネスたちは、羨ましそうに俺にお姫様様抱っこされたエリーを見ていた。
「魔力が回復するまでは仕方ないではないか」
「立つくらいできますよね?」
アグネス眼鏡の奥が光り、エリーに対し厳しい指摘をする。
「他にも色々とあって疲れたのだ。余は魔力が異常に消費される空間にいたからな。体もダルイのぉ……」
「本当ですか? 陛下」
「嘘は言わぬ。あーーー、本当にダルイのぉ……」
「「「むむっ……」」」
アグネスたちは、エリーに対し不審の視線を向けた。
「まあまあ、三人とも落ち着いて」
俺が慌てて宥めるものの、アグネスたちはエリーに対し不審な視線をやめなかった。
「アグネスさん、シンディさん、ベッティさん。お三人も懸命に駆けつけたのですから、きっとヴェンデリン様がご褒美をくれますよ」
「それもそうですね。エリーゼ様」
「わーーーい、お姫様抱っこだぁ」
「一度本で読んで羨ましいと思ったんですよねぇ」
というか、この世界の女性はどうしてそこまでお姫様抱っこに拘るのだ?
まさかその理由を聞くわけにもいかず、俺は家庭の平和のために奮闘し、翌日両腕が筋肉痛になった。
暗殺未遂事件で怪我はなかったが、それだけが唯一の被害であった。
「バウマイスター辺境伯もまだまだである! 某が妻たちをあのように抱っこしたとて、腕は筋肉痛にならないのである!」」
「えっ? 導師が『お姫様抱っこ』を?」
「昔はよくしたのである!」
導師が、お姫様抱っこを?
翌日、それに一番驚いた俺であった。
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