第217話 これは偽善か、奉仕活動か?(前編)
「これまでの功績をもって、ヴェンデリン・フォン・ベンノ・バウマイスターに帝国名誉伯爵の爵位と解放軍参謀の地位を授けるつもりだが、諸卿のお考えは如何に?」
翌日。
再び開かれた会議の席において、テレーゼは集まった貴族たちに、俺を叙勲することと、解放軍内において正式な地位に任命することの是非を問い質していた。
「(反対多数で否決かな?)」
他国の貴族が上司になるかもしれないのだ。
嫌がるのが当然であろう。
「いえ……。特に反対意見などはございません」
「バウマイスター伯爵は、実際に功績を挙げておりますので……」
「両国の爵位の兼任など聞いたことがありませんが、名誉爵位ならば一代限りですし……」
「(あれ?)」
意外にも、貴族たちの中で反対する者はいなかった。
内心ではどう考えているのか知らなかったが、嫌だと思っているのなら反対意見を述べて俺の責任を減らしてくれ。
他国の貴族である俺が、解放軍の中で力を持つようになるのが気に入らないだろう?
我慢しなくていいぞ。
解放軍内で有力な戦力である俺たちを排除してしまうと、反乱軍との決戦で敗北してしまう可能性が高い。
だからご機嫌を取っているのかも。
間違いなく、心の中で複雑な感情がせめぎ合っているはずだ。
それなら、報酬を増し増しでも構わない……テレーゼには金がないから、名誉爵位と解放軍内での正式な役職というわけか。
「ところでフィリップ公爵殿、名誉爵位の任命はどうされますか?」
「と申すと?」
「帝都皇宮は、ニュルンベルク公爵が抑えております。本来、襲爵の儀は皇宮で行うのが決まりですので」
一人の老貴族が、唯一の懸念を口にする。
帝国において、爵位を任命できるのは皇帝のみであった。
その皇帝アーカート十七世帝は現在反乱軍に軟禁されており、彼を捕えたニュルンベルク公爵は勝手に皇帝を僭称している。
クーデター政権なので、反乱軍内でもニュルンベルク公爵はまだ皇帝ではないと思っている者たちも多く、彼の皇帝名はあまり浸透していなかった。
そこで、どうにか自分が皇帝だと認めてもらえるよう、これまでの戦いで功績があった家臣や貴族たちに、すでに死んだか、改易された貴族の爵位や地位を与え始めているそうだ。
これはハンゾウさんからの情報で、さらにクーデターのついでに始末したり、解放軍にぶつけて殺した貴族たちの爵位や領地を、ついには己の子飼いの家臣たちにまで与え始めたらしい。
「あの男がいかに皇宮を抑えて皇帝を自称しても、それは偽りのものでしかない。こちらは帝都を解放後、正式に叙勲すればよい。今は戦争の時間なので、仮の叙勲というわけじゃな」
「どのみち、我らが勝たねばその叙勲も意味がありませんか」
「そういうことじゃ」
このような話のあと、一代限りという条件で俺は帝国の貴族になった。
本当は王都の陛下にお伺いを立てないといけないが、例の妨害装置のせいで連絡の取りようがない。
阻害される魔法が限定的な分、その分効果範囲がとても広いようだ。
内戦開始から一か月以上も経つが、いまだ王国からなんの情報も入ってこない。
王国に使者を送ろうにも、帝国南部と中央は反乱軍のテリトリーなので辿り着けないだろう。
そういえば、帝都に置いて来てしまったシュルツェ伯爵たちはどうなったのであろうか?
魔法使いは数名殺されてしまったようだが、貴族に手を出すほどニュルンベルク公爵が愚かではないと信じたい。
もし皆殺しにでもされていたら、さすがに陛下も懲罰的な出兵を検討せざるを得ない状況になってしまうからだ。
損益以前に国家としての面子があり、長期的に考えれば帝国に対し懲罰を与えた方が利益になると考えるのも国家運営である。
綺麗事だけで済む世界ではないのは事実であった。
「密偵からの情報によると、ついにニュルンベルク公爵が自ら軍を率いるようじゃな」
「「「「「「「「「「おおっ!」」」」」」」」」」
テレーゼは、独自に反乱軍の情報を集めていたようだ。
二度の大規模戦闘で数万の屍を作り出した両軍であったが、このままだと埒があかないと思ったのかもしれない。
現在反乱軍は、大規模な動員をかけているとの情報であった。
対する解放軍も追加の援軍を呼び寄せ、できる限りの戦力を集めようとしている。
ただ、早馬を使った伝令が主力となったので、どうしてもリアルタイムで情報が入らない。
正確な情報を掴むのに、時間がかかる点がもどかしかった。
「それで、両軍の戦力比は?」
「反乱軍が十二万人で、我らが九万人ほどかの。毎度ながらの劣勢じゃ」
帝国の最大動員兵数など知らないので、俺にはこれが多いのか少ないのかが判断できなかった。
「これは限界ギリギリの戦力なのでしょうか?」
「両軍共に、そこまでの兵力を出せぬよ。金がないのでな」
「ですよねぇ」
帝国の人口で考えれば、百万人の兵士の動員も理屈では可能である。
だが、そこまで兵力を増やすためには、普段は農民や職人などをしている一般庶民を徴兵しないといけない。
ところがそれを行うと、その貴族の領地や帝国直轄地の生産力が落ちる。
徴兵された人たちの稼ぎが減って、税金を納められなくなるからだ。
兵士として徴兵された人たちは、最低限の衣食住こそ保証されているが、給金はお小遣い程度しか貰えない。
戦争で活躍すれば褒美が出ることもあるが、活躍できるほど強い人は元から職業軍人や冒険者になっているはず。
大半の徴兵された兵士たちは、残された家族のために死なないようにするのが精一杯であった。
勝利して生き残れば、臨時報酬が得られるかもしれない。
過去の戦争で略奪が認められていたのは、彼らの収入減を補う必要があったからだ。
女性への暴行なども、口の悪い奴に言わせると風俗代の節約らしい。
酷い話だが、戦争なんてこんなものである。
「なるべく生産力を落とさないように集められる、ギリギリの戦力というのが正解じゃの」
それでも、両軍共に頭の痛い問題であろう。
生産力の低下に、両勢力が互いに敵対勢力圏への流通を停止しているので、交通、流通の麻痺による経済活動の低下という問題もあった。
「妾たちは戦力不足で、ニュルンベルク公爵もクーデター政権ゆえ、想像以上に政権地盤の強化に苦戦しておる」
邪魔な貴族たちを解放軍に始末させる作戦はある程度成功したが、今度は敗戦のせいで、ニュルンベルク公爵の軍事的才能を危惧する声が上がっているそうだ。
先の戦いでも、戦略的には一度奪われた拠点をすべて取り戻しているので勝利であったが、戦術的には戦死者の数は圧倒的に反乱軍の方が多かったという事実がある。
今回の大規模動員は、その懸念を払拭するためのものらしい。
「ニュルンベルク公爵としては、思っていたよりもこちらの戦力を殺げなかったというわけじゃの。まあ、迎え撃つしかあるまいて」
テレーゼの作戦方針は、この野戦陣地での迎撃と、損害を蓄積させて敵軍の撤退を促すというものであり、これに異を唱える者はいなかった。
一か八かの決戦を主張する、勇ましい貴族はいなかったようだ。
向こうの方が数も多いからな。
「明日には配置などを発表するので、各々で準備を怠らぬように」
会議は、俺への叙勲と、反乱軍の迎撃を行うという二点の発表のみで終了した。
俺が部屋を出ようとすると、ニコニコと笑顔を浮かべるテレーゼによって拉致され、なぜか彼女の執務室で大量の書類と格闘する羽目になってしまった。
「なぜ? しかもこんなに沢山……」
俺の目の前には、大量の書類がうず高く積まれていた。
商社マン時代にだって、こんなに大量の書類と格闘したことなどない。
バウマイスター伯爵としてはって?
大半を、ローデリヒに丸投げしていたからなぁ。
「そなたは参謀であろう?」
「それは、お飾りの役職では?」
「お飾りでも、妾の書類が減ればそれでいいのじゃ」
「その前に、書類の処理は参謀の仕事じゃねえ!」
「解放軍で一番偉い妾が命じれば、その瞬間から参謀も書類の処理をしなければいけないのじゃ」
「(なんという傲慢な思想……)」
当たり前と言われればそれまでだが、大軍が動けばそれだけ大量の書類が発生する。
反乱軍は帝都を抑えているので、協力的な中央の官僚たちに任せておけばいいが、解放軍はフィリップ公爵家の家臣たちに負担が重く圧し掛かる。
ミズホ上級伯爵家やバーデン公爵家も手伝ってはいるが、他の貴族たちはここまで大規模に集まって軍を編成した経験などない。
慣れない軍事行動に右往左往して、書類仕事を手伝える状態ではなかった。
「あまり役には立てないと思うけどね……」
それでも、サラリーマン時代の癖ですぐに書類を読み始めてしまう。
一緒に手伝えそうなのはイーナとエリーゼなので、分担して書類に書かれている内容から確認を始める。
「イーナ、ルイーゼは?」
「逃げたわ」
「だと思った」
頭は悪くないが、半ば直感で生きているルイーゼに書類仕事など不可能である。
性格的にもこういうチマチマした仕事は苦手で、すでに脱兎の如く逃げ去っていた。
「エリーゼ、ヴィルマは?」
「ヴィルマさんには難しいかと……」
ヴィルマは字は上手であったが、基本的に書類仕事など経験がなかった。
義父があの人なので、間違いなく教えてもいないだろう。
「カタリーナは? あいつは意外と大丈夫そう」
「他の仕事だそうです」
エリーゼによると、ブランタークさんと共に魔法使いたちに訓練を行う仕事を任されたそうだ。
今から魔力を上げるのは難しいが、ベテランのブランタークさんに指導させて効率よく戦わせたい。
テレーゼから頼まれたそうで、カタリーナは彼の補佐役だそうだ。
「導師は?」
「ヴェルは、本当に導師様に書類仕事を任せたいの?」
「あなた、伯父様には一番不向きな仕事だと思います」
二人に真顔でそう言われると、俺は黙って頷くしかなかった。
確かに、導師がテキパキと大量の書類を処理する様子なんて、頭の中に思い浮かべるだけでもおかしいと感じてしまう。
すぐに面倒になり、その書類で鼻でもかみそうなイメージだ。
「伯父様は、陣地の外に馬除けの溝を掘りに行っています」
前回の防衛戦でも役に立った、騎馬隊を近づけさせない溝を増やす工事に駆り出されているらしい。
しかしながら、イメージ的には一番導師に似合っている仕事とも言える。
ガテン系の格好をして、溝を掘っている導師の姿が容易に想像できた。
「それでこの三人か……」
一番真面目に勉強しているイーナに、完璧超人のエリーゼと。
三人で簡単そうな書類から見ていくことにする。
「軍編成への具申? ローザス伯爵とハイネン子爵は仲が悪いので近くに配置しない方が……。シンジェロルツ子爵からの具申書類?」
「現在、九万人を三つの軍団に再編成しようと考えておってな」
テレーゼの作戦案では、自らが中央の軍団の大将となり、左右のどちらかをバーデン公爵公子に任せる計画らしい。
「残り一つは、ミズホ上級伯爵ですか?」
「いや。中央軍に組み込む。あの家は特殊だからの。いきなり上位指揮権を与えても、下にいる貴族たちが反発するであろう。逆にミズホ伯国軍とて、顔も見たことがない貴族に指揮されるのは嫌であろう」
貴族の諸侯軍を纏めて指揮することの難しさがここにある。
率いている諸侯軍の数や練度はバラバラで、上位指揮官を置くにしても、あまり特定の諸侯軍ばかり消耗させてしまうと、これはのちの諍いの種になる。
その前に、上位指揮官がわざと仲の悪い貴族の諸侯軍のみを消耗させようとしたり、逆にそれに気がついた貴族が上位指揮官の命令を聞かなかったりと。
解放軍はすべて諸侯軍からなっているので、編成案を考えるだけで頭の痛い問題であった。
「反乱軍の方が楽であろうが、程度の問題じゃな」
仕方なくニュルンベルク公爵に従っている貴族も多いので、下手に苦戦すると戦場で裏切られる可能性もある。
それに警戒した編成にすると、今度は軍の強さや指揮の効率が落ちてしまう。
反乱軍であてになるのは、ニュルンベルク公爵家諸侯軍と一部帝国軍だけであろうとテレーゼは予想していた。
「ただ、それでも数も練度も反乱軍の方が上じゃ」
「帝国軍がいますからね」
常設とはいえ、実戦経験は治安維持くらいであろうが、定期的に集団で訓練は受けているのでマシな部類に入るからだ。
田舎貴族の諸侯軍なんて、大半が素人集団なのが普通なのだから。
「結局、フィリップ公爵家諸侯軍と、ミズホ伯国軍だけが頼りか……」
先の具申書類など、困難の一部でしかない。
組み合わせの配慮が多すぎて、約九万人の軍勢を三つに割るのに三万人ずつにならない。
中央ばかり四万人になってしまい、一番少ない二万人ほどの軍団が苦戦すれば援軍を出す羽目になるであろう。
放置すれば、野戦陣地の土壁に取り付かれてしまうのだから。
「他にも、食糧の備蓄状況に、備品購入リスト……。なんでこんなに高いんだ?」
素人の俺でもわかるほどに、日用品の売買なのに仕入れ値がもの凄く高かった。
「こういうネズミは多いの」
テレーゼは、俺が見つけた書類に朱で印を付けると、すぐに呼び鈴で担当の家臣を呼んで責任者を処罰しておくように命じる。
人間が十万人近くも集まっていると、一定数の悪事を働く人間が出てくる。
他にも、部隊内での窃盗事件、兵士同士の喧嘩、陣地を訪れた行商人に金を払わなかったとか、数名で近隣の村に侵入して強盗をしたり村の娘を犯したりと。
これら犯罪の判決もテレーゼが出さないと駄目で、彼女の顔には疲労の色が浮かんでいた。
「この困難を乗り越えてから、あのニュルンベルク公爵との決戦がある。とはいえ一度で終わるはずもなく、帝都とニュルンベルク公爵領を落とすのにどれだけの犠牲が出るか……」
どうにか勝利できたとしても、すぐに新皇帝を選出しないといけない。
ほぼテレーゼで決まり……というか、他の候補者はいないけど……だが、即位すればボロボロになった帝国の立て直しでまた苦労することになる。
可哀想だとは思うが、ここで変に同情するとテレーゼが既成事実の履行でも求めてきかねないからなぁ。
ここは心を鬼にして、ビジネスライクに動くべきであろう。
つまり、この大量の書類の処理を黙々と行えばいいのだ。
「ようやく終わったか……」
「ヴェンデリンは、領主としても十分にやれそうじゃの」
「今も一応は領主だけどね。お飾りだけど」
そういえば、ローデリヒは上手くバウマイスター伯爵領の開発を進めているであろうか?
情報がまるで入ってこないことが、これほど不便だとは思わなかった。
「そういえば、エリーゼ殿は救護所に行かぬのか?」
「今日は、怪我人が出たら伯父様が担当するそうです」
テレーゼは、エリーゼを本来の担当である野戦救護所に行かせて、その間に俺を口説こうとでも考えているのであろうか?
その考えが透けて見えるからこそ、エリーゼは俺の傍から離れなかった。
「導師がか?」
「実は、最近『聖治癒』魔法を覚えまして……」
「あの者は、魔法界の常識を色々と覆すの」
テレーゼが驚くのも無理はない。
普通なら二十歳前後には止まる魔力の成長が、四十歳を超えた今でも続いており、これまでわずかに発動していた程度の『聖』魔法が完全に使えるようになったのだから。
ただ、攻撃も治療も相手に抱きつかないと効果がないので、導師の練習も兼ねた治療は兵士たちに不評であった。
普通の人なら、エリーゼに治癒魔法をかけてもらいたいと思うだろう。
『エリーゼ様に治してもらいたいだ』
『オラもだ。効果は同じでも、導師様とは……大分違うよなぁ……』
『ちゃんと怪我は治るんだけど、体が軋むのがなぁ』
兵士たちの気持ちはよくわかる。
俺だって、もし治癒魔法で治療してもらうのであれば、絶対にエリーゼの方を選ぶであろう。
誰だって、四十過ぎで筋肉ダルマの、ヤクザも真っ青な強面をした導師に抱きつかれたくはない。
「俺は、ある程度自分で治せるけど」
師匠が言うにはかなりの才能らしいが、俺の治癒魔法は『水』魔法なので、エリーゼや導師のとは少しだけ違う。
怪我が治るという結果に違いはないので問題ないのだけど、なかなか練習する機会がないので不慣れな点だけが心配であった。
「近々、大規模な戦闘があるから練習しようかな?」
「それがいいと思います。私も手伝いますから」
「それは心強いな」
エリーゼの治癒魔法は、本当に優れていた。
前に治療を見たことがあるのだが、怪我人も病人も、軽傷ならば所持している魔法効果拡大の魔法陣が記された特殊な敷物の上に集め、一気に治療してしまうからだ。
魔力も上がったので一日に対応できる人数も増え、兵士たちの間でエリーゼは大人気となっていた。
『聖女様』と呼び、中には崇める兵士までいたが、それに比例して俺の評判は落ちている。
『エリーゼ様と結婚しているバウマイスター伯爵は死ね!』と、主に独身の兵士たちの間で悪口が広まっていた。
もう一つ、『他に四人も綺麗どころばかり、嫁を連れて来やがって! やはりバウマイスター伯爵は死ね!』という批判もあった。
勿論表だって言う者はいないが、世界は違えど、男の嫉妬には根深いものがあるようだ。
俺も昔は向こう側で、モテる同性に嫉妬の炎を燃やす側だったんだけどなぁ……。
人生、なにがあるかわからないものだ。
「私たちは夫婦なのですから当然です。共に、治癒魔法も使えるという共通点もありますから。誰かさんとは違って」
エリーゼの発言には棘があった。
間違いなく、テレーゼに向けて言っているのであろう。
「確かに、妾には魔法は使えぬ。じゃが、エリーゼ殿は『聖』魔法で、ヴェンデリンは『水』の治癒魔法。素人でも大分違うとわかるぞ」
しかし、エリーゼに負けじとテレーゼも言い返していた。
「素人のテレーゼ様にはわからないと思いますが、系統が違っても同じ治癒魔法です。イメージの仕方や魔力のコントロールなど、共通する事柄も多いので」
「それは知らなんだ」
「では、そろそろ失礼します」
エリーゼはそう言うと、俺と腕を組みながらテレーゼの執務室をあとにする。
エリーゼが露骨に腕を組んだので後ろのテレーゼがどんな表情をしているのか気になったが、怖いので絶対に後ろを見ないようにした。
「(私、なにも言えなかったわ。怖くて……)」
「(俺も怖いけど……)」
イーナが俺にだけ聞こえるように呟き、俺もその意見に賛同する。
エリーゼとテレーゼのぶつかり合いに、イーナは退室するまで静かに書類の整理を続けていた。
あきらかに巻き込まれたくないのであろう。
俺だってそうだけど。
「あの方は、油断なりません」
「結局、ヴェルを帝国貴族にしてしまったものね」
一代限りとはいえ、貴族は貴族である。
報酬を誤魔化される可能性も考慮したのだが、テレーゼはそれを理由に断られると考えたのか?
今の報酬体制の継続も認めての、この条件だ。
財政状態の関係で、俺たちへの報酬はどうせ戦後になってからであろう。
テレーゼが内乱に勝てれば、帝国政府や取り潰すニュルンベルク公爵領の資産があるので十分であろうし、負ければ借金など考慮する必要もないわけで、こういう部分がテレーゼが貴族であると実感する部分であった。
「どうせ、爵位は受けざるを得なかった」
「そうですね……」
先のターベル山地砦への出兵は、俺たちが傭兵でなければ断れていた。
一体どういう意思決定をするとああいう命令になるのか不明であったが、今の俺は帝国伯爵で解放軍総大将であるテレーゼの参謀の一人で側近だ。
彼女が俺を傍においておけば、無謀な命令で使い潰される可能性は少ない。
その分、エリーゼは誘惑が増えると思っているようで、実際にそうなりつつあったが。
「ヴェルの今の状況を正確に把握していて、参謀職を受けざる得ないのを理解して言っているから悪辣よね」
イーナの言うとおりで、俺への名誉爵位授与は、テレーゼのみならずお互いに利益があるので受けざるを得ない。
同じ土俵にあがってしまえば、貴族であるテレーゼの手腕に完全に翻弄されてしまう。
半端貴族でしかない俺には面倒な話だ。
「これ以上気にしても仕方がない。導師の元に行こうか?」
「そうね、患者になった人たちのショックが容易に予想できるけど」
イーナの予想は当たり。
俺たち三人で野戦救護所に到着すると、そこには全身から青白い光を発しながら、次々と患者に抱きつきながら治癒魔法をかけている導師と、悲鳴をあげる患者たち
の姿があった。
「ぬぁーーー!」
「大した怪我ではないのである! 男がそれくらいで悲鳴をあげてはいかんのである!」
「(ただ単に、導師に抱きつかれるのが嫌なんだと思うけど……)」
それと、導師は軽く抱きついている認識なのであろうが、兵士たちからすれば万力で絞められたような感覚を味わっているはず。
骨折患者たちから、『逆に怪我が酷くなってしまうのでは?』というイメージを抱かれても当然であろう。
治療を待つ兵士たちは一ヵ所に集まり、まるで子猫のように震えていた。
「導師、代わります」
「バウマイスター伯爵、大丈夫であるか?」
「エリーゼ先生に教わりながらやりますから」
「ならば、安心である!」
導師はそう言うが、俺はそこまで治癒魔法が下手ではない。
少なくとも、発動させるため患者に抱きついたりはしない。
導師と交代すると、三度始まった野戦陣地工事で負傷した兵士や病人などが十数名がいた。
このところ戦闘がなかったし、先に導師や他の治癒魔法使いたちが治しているので患者はそこまで多くなかった。
早速、腕に切り傷を負った若い兵士の治療から始める。
傷口を蒸留酒で消毒してから、軽く治癒魔法をかけると、すぐに完治してしまった。
「軽傷患者ならこんなものか……」
続けて、木材の下敷きになって骨折をしてしまった患者を治療する。
単純骨折なので折れた部分を添え木で固定してから治癒魔法をかけると、これもすぐに治ってしまった。
「ありがとうございました」
残り十数名の患者たちを次々と治していくが、重傷者はいないのでそれほど苦戦しなかった。
「教えることがありません」
「そのうち、ちゃんと教えてもらうことがあると思うから」
俺は、結局教えることがなくて拗ねていたエリーゼへのフォローも行う羽目になってしまった。
「あんまり、治癒魔法の練習にならなかったなぁ……」
「それでしたら、巡回治療に参加されませんか?」
「巡回治療?」
「はい、この近辺の小さな町や村に治療へ赴くのです」
野戦看護所を管理する初老の神官から、巡回治療なるものを勧められた。
戦争で迷惑をかけているので、普段は治癒魔法使いなどいない村や町などを訪問して無料で治療を行いつつ、解放軍の支持率を上げていこうという意図もあるらしい。
テレーゼなら考えそうなというか、ある程度目端の利く貴族なら誰でも考えることだ。
「目的地が遠くなければ行きます」
「ここから往復で半日ほどですよ。馬を使ってですけど」
乗馬と治癒魔法の練習になるし、戦闘よりははるかにマシだ。
俺たちは、馬に乗って巡回看護へと向かうのであった。
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