第26話 恋人になろう

『ごめん、遅刻するからどこかで時間潰してて。終わったらまた連絡するね』


放課後すぐ、そんなメッセージの通知を確認して私はしばらく教室でとどまることにした。幸運なことに、今日はプレイをする日。

カバンの中には、昨日選び抜いて買った相馬くんへの誕生日プレゼントが潜んでいる。今日はそわそわと一日中落ち着きがない。謎の緊張感に胃の奥がうずうずとしていた。


そうだ。せっかく暇ができたから、部室から借りてた天体の本を返しに行こう。

そう思い立ったのが、そもそもの間違いだったのかもしれない。


どこも活動日ではないため、ひっそりと静まっているはずの文化部の部室エリアの方から話し声が聞こえた。とはいえ別に気にも留めず、私は平然と天文部の部室へ向かう。


「――からいいでしょ。お願い」


「だめだって」


途端に心臓が早鐘を打つ。聞き覚えのある二人の声――みやこちゃんと、それから相馬くん。

みやこちゃんも何かプレゼントを渡しているのだろうか。部室の横を通り過ぎ、音を立てないようにそっと声の方を覗く。


息を呑んだ。ベンチに座る相馬くんのその足元で、みやこちゃんがKneelの姿勢を取っていた。


おすわり。Domへの従属を示す、Subの基本体勢。いつもプレイの最初に相馬くんが私にそのコマンドを出す。

なぜ、みやこちゃんがそれを……。


嫌だ。見たくない。拍動に合わせるように、頭がズキズキと痛みだした。呼吸までもが速く、浅くなる。視界に入れないよう即座に目を瞑ったのは無意識だった。

踵を返して足早にそこを離れる。二人に気づかれないように音を立てず、なんてことは考える余裕さえもう残っていなかった。一刻も早くここから離れなければならない、ただそれだけ。



息も絶え絶えに、何も考えないまま辿り着いたのはいつもの空き教室。左手には返しそびれた天体の本がしっかりと握られていた。


どうやって呼吸をするのか、ただ吸って吐くだけのことが難しく感じた。肺が固まってしまったかのようにほとんど空気を吸い込むことができず、逆に吐くのだけは勢いがつきすぎて咳き込んだ。

涙で視界が滲んだことに一旦気付いてしまえば、あとはぼろぼろと涙が頬を伝って溢れた。


苦しい。胸の奥がぎゅっと締め付けられる。まともに息ができないのもそうだし、相馬くんの足元で跪く彼女の姿に吐き気を覚えるほどの嫌悪感を覚えた。私には相馬くんしかいないのに、相馬くんとプレイをしたいSubなんて山程いる。知っていた。十分に分かっていた。


彼は私のDomだと見せつけたい。そう思ったのは初めてだった。そのぐちゃぐちゃに渦巻く感情と欲が、相馬くんに従属する一人のSubとしてのものなのか、それともただただ相馬くんのことが好きだと胸の内に秘めているだけじゃ足りなくなったのか、あるいは両方なのか分からない。


「…相馬くん……」


「どうしたの」


世界一好きな声がすぐそばで聞こえて、私は思わず顔を上げた。…が、酷い顔をしていることを思い出してすぐに俯く。


「……」


「Look〈こっち見て〉」


見えない何かに強引に顔を上げさせられ、舌を噛みそうになった。


「…可愛い。二見さん…僕のせいで泣いてくれたの?」


相馬くんは心配するかと思いきや、恍惚とした表情を浮かべていた。


「やっぱりあれ見てたの、二見さんなんだね。ごめんね二見さん、大丈夫だよ。コマンドも出してないし、もちろんグレアを当てた訳でもない」


みやこちゃんが自らKneelの姿勢を取り、プレイをねだったらしい。ほんの少しだけ聞いた会話の断片を思い出してみれば、その言葉に嘘がないのは明白だった。

私の勘違いだったことが分かってもなお、涙は止まらない。


私はあの場面で相馬くんに声をかける権利もない、ただのクラスメイトでしかないことが悔しかった。確かに相馬くんは私の主人だ。しかしそれは二人きりの時、という限定付き。


相馬くんは私の濡れた頬や目元に、口付けを落とし始めた。なく流れる涙を拭うように、何度も何度も。

私は拒まなかった。そういうのはしないと宣言したのは私だというのに、ちゃっかり喜ぶ狡い自分に少し腹が立った。


「ふふ…可愛いね、二見さん。笑顔も可愛いけど、泣き顔も可愛いよ。ずっと見てみたかった。それが今日になる予定はなかったけど…」


唇同士が重ねられたのは久々だった。自分の涙のせいでしょっぱかった。


「ね、僕は二見さんだけのものだよ」


「それは…二人でいる、時だけっ」


嗚咽の合間にそう言えば、相馬くんは私の身体を身動きができないくらいきつく抱きしめて唇を押し付け、体重をかけてきた。

Kneelおすわりの体勢ではなく、膝を抱えて座っていた私は容易に後ろに倒れ込んだ。何が起こったのか咄嗟に分からず、覆い被さるような姿勢の相馬くんとただ視線を交わすこと数秒間。


先に口を開いたのは相馬くんだった。


「それじゃあ、恋人になろう」


愛おしそうに私を見つめている、栗色の瞳が蕩けていた。


「…なりたい」


「好きだよ、二見さん」


「うん。…うん、私も。大好き」


蕩けた瞳の中に星が瞬いたのは、きっと単なる私の幻覚。けれどその直後、私の頬に私のじゃない涙が零れたのは本当だ。


心の底から驚いた。多分今年に入って一番驚いたと思う。

私が恐る恐る相馬くんの目尻に指を伸ばして拭うと、その時になってやっと相馬くんは気づいたようだった。――自分が泣いているということに。


「ごめん。嬉しくて…ずっと好きだったんだ。ずっと、ずーっと、二見さんのことだけが」


胸がいっぱいで、何か言葉に紡ごうとしても涙ばかり溢れるのは私も同じだ。多分この先、生きていてもこれ以上の幸福には巡り会えないんじゃないかとすら思う。相馬くんの腕の中は温かくて、時が止まってくれたらいいのにと本気で願ってしまった。

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