日輪と共に散りぬ~大坂城五人衆異聞~

森林樹

紅蓮 ~真田信繁(幸村)編~

第1話 伝説の始まり

真田日本一の兵、古よりの物語にもこれなき由

 

***


 信州、上田藩。その藩主、真田信之のぶゆきは、頭を抱えていた。

「そろそろ、源次郎が酒を催促してくる頃か……」

 ここ最近、彼の父に連座して九度山に流罪となっている弟、源次郎――真田信繁のぶしげから酒の仕送りの催促が増えている。

「酒は用意出来るが……そろそろ量を控えるよう手紙を出した方がいいかもしれんな」

 聞けば、最近日中であろうとまるで取り憑かれたかのように酒に溺れているという。

 溜め息を吐き筆に墨を含ませたその時、家臣が息を切らして駆け込んできた。

「殿! 信繁様から……信繁様から書状が……!」

 ――その時点で、嫌な予感はしていた。

「……何だ?焼酎を送れとの催促ではないのか?」

 聞くと、家臣は周りを見渡した後、失礼します、と言って信之の目の前に座る。

報告を耳にした信之の表情が、見る見るうちに青ざめていく。

「源次郎が……大坂城に入城した……?」

 

***

 

 少し前。

 真田信繁――後に真田幸村と呼ばれる男は、虚空を見つめながら日中から辛い焼酎をあおっていた。

「信繁様、あまり飲み過ぎるとお身体に障りますよ」

 傍らに控える妻が、紐を組みながら猪口ちょこを引ったくる。

「いいんだお竹。体に悪かろうが、今更どうだっていい」

 信繁は小さく嘆息すると、猪口を手元に引き寄せ手酌で焼酎を注ぐ。

 お竹と呼ばれた妻は、もう、と小さく抗議しながらも、傍らにあった蜜柑みかんを剥いて夫の前に差し出す。

「……山に押し込められて不服なのは重々承知ですが、折角信之様に救われたお命、せめて有意義にお使い下され」

「有意義に、ねぇ……」

 焼酎のせいか妙に甘い蜜柑を頬張りながら信繁は再び嘆息する。

 彼の目の先では、真紅の彼岸花が紅蓮の炎の如く咲き誇っていた。

 すると、放っていた透破すっぱの一人が縁側より姿を見せた。

「どうした佐助。何か動きがあったのか」

「殿、客人でございまする」

「はて……」

 信繁は首を傾げる。通常の客人については概ね侍女が報告してくる。佐助ら透破が報告してくるなど異例中の異例である。

「なるほど……」

 虚ろだった信繁の瞳に炎が灯る。

「その客人を通してくれ。お竹はすまんが部屋を移ってくれ」

「……! 畏まりました」

 お竹も何かを察したのか、組紐台を抱えて部屋を後にした。

 佐助が連れてきた客人は、南蛮風の服装が目立つ信繁と同い年程の男だった。

 信繁は、その男に見覚えがあった。

「其方は……確か宇喜多秀家殿家臣の……」

「左様。明石掃部かもん全登てるずみでございます。今は宇喜多家も滅び黒田家も出奔しましたが」

「そうでしたな……。其方そなたも苦労されましたな……。どうぞ、信州の焼酎と、紀州の蜜柑でございます」

 お竹の分と用意していた猪口に焼酎を注ぎ、自ら皮を剥いた蜜柑と共に目の前に座った全登の前に差し出した。

「これはどうも」

 全登は小さく十字を切ると蜜柑の薄皮をちまちまと剥き始めた。

「これは失礼しました。白い皮は全て剥く派なのですか?」

「お気遣い無く、細かい事が気になってしまう性分なだけでございます」

 薄皮を全て取り除いた蜜柑を頬張りながら、全登が微かに笑う。

「して、本日はどのような用件で?」

 信繁が聞くと、全登は懐にしまった瓢箪を取り出す。

 注視していると、瓢箪の口より丸められた書状が顔を出した。

「こちらでございます」

 書状の署名を見るやいなや、信繁が小さく声を上げた。

「豊臣……秀頼……様?」

「左様でございます」

 文面を見ると、徳川家に対抗するため、志ある者は大坂城に集結せよという、檄文だった。

「……しかし、徳川と豊臣は決して関係は険悪ではないと伺っておりますが……」

「確かに表面上の仲は決して悪くはございませぬ。しかし、かつては天下人と言われた豊臣家も今や徳川家の傘下の一大名扱い。不満を抱く者は少なくなく、秀頼様も現状を不服としておられる。そこで、徳川の世で配石された牢人を探し出し、大坂城へとお連れするよう申し付けられた次第でございます」

 全登が、ずずい、と身を乗り出す。信繁は気迫に押され思わず後ずさる

「そして貴方は、徳川秀忠を追い詰める多大な武功を打ち立てながらも、不遇にもこの九度山に押し込められておられる。徳川打倒は悪くない取り引きかと思われますが、如何ですかな。秀頼様も、報酬は弾むと仰せでございます」

「いや……。父、昌幸まさゆきが存命ならいざ知らず、私は父の後ろに隠れていたようなもの、そのような大それた事が出来る器ではございませぬ……」

「何を仰せになりますか! 太閤様も、御存命の時には信繁殿を称賛されておりました! 貴方のその穏和な人柄の奥底には、紅蓮の炎が秘められておると!」

「買いかぶりか、もしくはお世辞ですよ……」

 信繁は俯くと、焼酎を一気に飲み干す。

「ともかく、急なお誘い故今すぐには返事は出来ませぬ。後日透破に返事を送らせます。申し訳ございませんが、本日はお引き取り下され。なに、他言は致しませぬ」

 全登は一度何か言いかけたが、口を噤んで引き下がった。

「……承知致しました。無理強いは致しませぬ。では本日はこれにて失礼致します。……ただし!」

 全登の眼光に、信繁が思わずたじろぐ。

「豊臣が勝とうと徳川が勝とうとこれこそ最後の大戦となるでしょう。この機会を逃すと言うのならば、貴方は徳川への反逆者として生涯この辺境で名を挙げられず悶々と燻ることとなる……その点は、御承知置き下さりますよう……」

 全登が部屋を出ると、信繁は庭の彼岸花を見つめ、焼酎を呷った。


「信繁様、なぜあの時お返事を先延ばしにされたのですか?」

 夜、縁側で焼酎片手に月を見つめる信繁の隣に、お竹が腰を下ろした。

「いきなりどうしたんだ、お竹」

「いえ、全登殿が来られた時、あんなに嬉しそうにされてましたのに、『急なお誘い故今すぐには返事は出来ませぬ』なんて言って」

「……聞かれてたか」

「ええ。私が隣の部屋で盗み聞きしていたら、大助や梅も部屋に来て。完全にばれてますよ」

「人払いしたはずなのになぁ……」

 信繁は苦笑すると、焼酎を飲み干し、床に置いた。

「お注ぎしましょうか」

「いや、もういいよ」

「あら珍しい」

「何だか、今日は酒を飲まずとも気分が良い」

 言うと、信繁は夜空を見上げ、息を吐いた。

「いや、本心ではすぐにでも全登殿について行きたかったんだがな、ふと其方や大助等の事が気にかかってな……」

「あら」

 お竹が、物珍しそうに夫の顔を覗く。

「正直な所、今の豊臣に勝ち目があるとは思えぬ。今豊臣方につくならば、豊臣家と心中する事になるだろうし、仮に生き残ろうとも、反逆者扱いだ。そうなると、其方は反逆者の妻、子供等は反逆者の子となるだろうな。肩身の狭い余生を送る事になるならまだしも、斬首や磔にされることも有り得る。私には、其方等をそのような危険に晒す覚悟は無い」

「……それならば、心配はございませぬ」

「…………え?」

 くすり、と小さく笑うお竹に、信繁は仰天して振り返る。

「私はそもそも関ヶ原で石田三成殿についた大谷吉継の娘、肩身が狭いのは元からでございます。それに、信繁様の為ならば、私は命は惜しくはございませぬ。……ほら、この子達も」

 気がつけば、傍らに子供達も集まってきていた。

「信繁様は、敗戦以降いつも鬱屈として、かつてはそれほどお酒は飲まれませんでしたのに、毎日気分を晴らすようにお酒を呷る日々……。本当は、例え命が絶えようとも、燃えるように生きたいのでしょう?」

「…………すまぬ。其方達には迷惑をかけてばかりだな……」

 信繁が、ばつが悪いと頭を掻く。

「有難う。お竹。私は大坂に向かう。今回は死出の旅だ。いつ命が果ててもおかしくは無い。それでも、良いか?」

「ええ、もちろん。何処までも、お供致しますよ」

 夫婦は肩を寄せ合って、明るく夜空を照らす月を見上げた。

 

***


『源次郎。其方は源三郎と違い、名に「幸」の字が入っていない事を気にしておったな』

『其方の名は、御館様――信玄公の弟君、武田信繁公より拝借した物だ』

『信繁公は、生涯に渡り御館様を守り続け、御館様を守る為に川中島で果てた、敵味方双方に賞賛された名将だ』

『其方には、信繁公の様に、主君を守り続ける勇将になって欲しかった。それで畏れ多くとも御館様の弟君の名を貰い受けた』

『もし儂が意気地でなく、時勢を鑑みて徳川についていたのならば、せめて其方を徳川につかせていたのならば、其方は勇将として名を残せたかもしれんな……。我侭わがままな父親ですまなんだ、源次郎……』


『信繁や、信繁や。其方は誠に利口な男子おのこよの』

外様とざまの子に言う事では無いかもしれんが、其方はきっと将来良き武将になるぞ。将来が楽しみじゃな』

『…………こんな老いさらばえた爺を見舞いに来てくれるとは、誠に其方は利口な男子よの……』


「…………夢か」

 月明かりに照らされ、信繁はとこから身を起こす。

「……何故今になって父上と太閤様の夢を見るかな……。それに、全て現実に言われた言葉だし……」

 夢に出てきた二人の生前を思い出し、少し苦笑する。

「死出の旅に後押しされているような気もするが……。悪い気はしないな」

頭を掻くと、彼は再び床に就いた。

 

***


 翌日。

「奥方様、お荷物の整理が出来ました!」

「有難う。では、今宵はよろしく頼みますね」

「殿、例の準備が整いました!」

「すまんな。では今日は手筈通り頼んだぞ」

 早朝より、お竹や側室達、佐助達全国より帰参した十人の家臣達が慌ただしく動き回っている。

 その中で信繁は、十五年を過ごした草庵を見渡した。

「これが最後か……」

「何だか変な気分です。生まれてからというもの、此処ここから出た事は無いので」

 嫡男の大助が応える。思えば、大助達子供等は、九度山以外を知らない。

「思えば、村人より良くしてもらい、貧しいながらも平穏な暮らしであった。……何、寂しがる事は無い。いずれ、其方にも大坂を見せてやれるだろう」

「大坂……どの様な場所ですか?」

「大坂は、此処よりも人が多く、賑やかで、大きな家もある。大坂の城も大きく豪華で、絢爛な衣を着た者もいたな」

「私も早く大坂を見てみたいです、父上!」

 大助が目を輝かせる。

「殿、村人達への酒宴の誘い、完了しました」

「奥方様、お酒全て準備し終えました」

「お砂糖と、塩とお醤油…これだけあれば足りますね」

「余興もばっちりですぞ」

 おおよその準備が整い、酒宴に興じる料理を作ろうとなった、その時だった。

「おや、信繁様、えらい騒ぎでございますな」

 九度山の村長が訪ねてきた。

 村長と言っても、実質的に信繁の監視を担当する立場の男だ、あまり『準備』は見られたくはない。

「いや、今宵の酒宴の準備でございます」

「ほほぅ……では、その妙に片付いた部屋と大荷物は何ですかな」

「げっ」

 思わず声を上げてしまった信繁を押し退けて、お竹が進み出る。

「お気になさらす。大掃除です。ほら、うちの夫は不精ですから、定期的にお掃除しないと汚くて」

「…………成程、貴方様も大坂に行かれるのですな……」

(ばれた……!)

 お竹が困り果てたように夫の顔を見つめる。信繁も困り果てて目を逸らす。

 凍り付いた空気の中、村長は寂しげに微笑んだ。

「いえ、いつかこの様な日が来るだろうとは覚悟しておりましたし、出陣される折には村民一同信繁様を邪魔立てせずお見送りする心積もりでおりました。しかし、村民も命は惜しい。それ故、もし徳川に問い質された際は『酒宴の隙に脱出された』という事にさせて戴いて宜しゅうございますか?」

 信繁の顔が安堵に包まれる。

「有難うございます。元よりそのような手筈を取る予定でした」

 しかし、と、彼の笑顔が曇る。

「恐らくこれが今生の別れとなるでしょう。今までお世話になりました。どうか、私が果てた後も息災で」

「信繁様……」

「信繁様ー! お料理の手伝いをして下さいまし!」

「私蕎麦がきをねるくらいしか出来ないよー?」

 妻達に呼ばれ立ち去る信繁の背中に、村長は涙を浮かべた。

「本当に、戦の世に殉ずるには惜しいお方だ……」


 その夜、予定通り酒宴が執り行われた。

 お竹達は舞い、十人の家臣達は芸を披露し、村人達も酒に酔って踊り騒ぐ。

(これも最後か……)

「どうされましたかお殿様」

 少し目が潤んだ信繁に、村人達の一人が声を掛ける。

「いや、酒に酔っただけだよ」

「えーお殿様ったら湿っぽいなー! もっと楽しみましょうよー!」

「おいこら信繁様の肩を抱くのやめろ!」

「お前酔ったらいっつも信繁様に絡むなぁ!」

「信繁様でなければ打ち首物だぞー!」

 村人達が手を叩き大声で笑う。どちらかと言うと物静かな信繁だが、村人の軽い乗りはとても心地良かった。


 しばらくすると、酔い潰れた村人達がいびきをたて始めた。

「……そろそろかな」

 信繁達は、眠っている村人達に衣を掛けると、音を立てないようそろりと草庵を出る。

 草庵の門を出た所で、村長が待っていた。

 一行は、深々と頭を下げる村長に一礼すると、藪の中の闇へと消えて行った。

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