キャンドルスピン
月島真昼
キャンドルスピン
炎を見たのはたまたまのことだった。なにげなくつけた深夜のテレビ。フィギュアスケートの特集をやっていた。
リプニツカヤが回転している。片膝を曲げてもう片方はまっすぐに伸ばした低い姿勢で、ものすごい勢いでスピンしている。そのまましなやかに腕を伸ばして花が咲くように体勢を変えていく。最後は右足を背中にぴったりと添うまで持ち上げて立ち上がり、足を頭よりもずっと高い位置へとまっすぐに掲げる。頭の先にエッジの火を生やしてリプニツカヤが回る。回る。回る。
人間の体ってあんなにやわらかくなるんだ。
キャンドルスピン、という名称は解説のアナウンサーから聞いた。蝋燭みたいな一本の線になるリプニツカヤの白い体。19歳で引退してしまったあざやかに輝いた細くて鋭い光。
あとに出てきた選手たちもすごかったはずなのに番組が終わったとき、私はリプニツカヤのことしか覚えていなかった。彼女のスピンは他の誰とも違った。誰にもあんなに高くまっすぐに足を掲げることはできなかった。美しかった、とても。
時々、自分は誰なんだろうと思う。答え、誰でもない。
固有名詞は長篠明。性別は女。
イテモイナクテモイイソンザイ。
ドコニデモイルイッパンジン。
「おまえの代わりなんてどこにでもいる」というのはきっと私のためにある言葉だ。あるいは、私のためにある言葉なんてのはどこにもない。どうしてそうなったのか。たぶん、なにものにもなろうとしなかったから。昔、絵を描いてみたいと思った。実際に描いてみて私はあまりの下手さに絶望し絵を描くのをやめた。文章を書いてみようと思った。あまりの下手さに絶望し私は文章を書くのをやめた。歌を唄ってみようと思った。あまりの下手さに絶望し私は唄うのをやめた。スポーツは試すまでもなく得意ではなかった。
私は自分の才能のなさを思い知った。
私は特別な人間ではなかった。
そのことを当時付き合っていた男の子に話してみると彼は「あきより上手いやつだって最初から上手かったわけじゃないんじゃねーの?」と言った。なるほど、たしかに、なんもわかってないないくせに知った風なクチ聞いてんじゃねーよ、と思い内心でブチギレて私は後日アツシくんをフッた。
そして私は無趣味な人間となり、派遣社員として小さな会社でお茶くみをしてコピーを取っている。言われた通りに無難な書類を作成し、個性を必要としない生活をしている。
でも今日は仕事中でも頭の中でリプニツカヤがぐるぐると回っていた。
頭の後ろから高く足を掲げてエッジの炎をくゆらせる。十五歳で世界と戦ったリプニツカヤ。幼少期からの訓練で得た特殊な柔軟性を武器にして後頭部に太ももがくっつきそうなくらいに足を掲げて一本の美しい線になる。ジャンプだってステップだって素晴らしいけど、他の選手と明確に違うのは体のやわらかさを生かしたスピン、そしてスパイラルと呼ばれる滑走しながら足を高くあげて姿勢を保つこと。
十九歳で引退。
引退後のことは意図して調べなかった。拒食症というワードがすぐに出てきて、世界で戦える素晴らしい技術を持ちながら拒食症になって引退した人が、その後のことまで暴き立てられることを望んでいるとはとても思えなかったから。
私は二十五歳だ。私はもうリプニツカヤにはなれない(勿論、他の誰も彼女にはなれないけれど)。私は幼少期からの訓練によって獲得した特殊な柔軟性を持っていない。ジャンプとステップを日常的に訓練していない。十五歳で世界と戦うことはできない。演技を見た浅田真央と高橋大輔からなにかを囁かれることはない。(「すごいね」と浅田真央が言い、「やばいわ」と高橋大輔が答えたようなクチの動きだった)
ああ、なにものかになりたいな、と私は強烈に思った。
私には才能がない。継続して取り組んできた何かがあるわけじゃない。退屈な女だ。でも何者かになりたい。少なくとも代用できないものになりたい。キャンドルに火が灯るのは、遅すぎたのだろうか。もっと早くリプニツカヤに出会っていれば? それもまた言い訳な気がした。「サイショハミンナヘタダッタンジャネーノ」そりゃそうだ。
仕事帰りの難波駅で人がごった返す中、私はホームを抜け出して駅の構内にある本屋さんに向かう。それを選んだのは、あと四十年はできると思ったから。文字だったら、六十五歳になっても書ける。
「小説の書き方」……1500円。
普段なら絶対しない無駄遣い。こんなものを買うくらいならちょっといいランチを食べる。でも私の頭の中ではリプニツカヤがくるくると回っている。頭の後ろに掲げたエッジの炎をくゆらせて、その炎をそっと私に近づける。
キャンドルスピン 月島真昼 @thukisimamahiru
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