第70話

 父の宣告を耳にした女は、空笑いと共に、カサカサと四肢を動かしていた。その姿が、哺乳類を通り越して、ゴキブリのように汚らしかった。満足に動かない頭を必死に回して、彼女は逃走の道を思案しているようだった。

 狼狽える義母と目が合う。その途端、彼女は足を踏み出して、前のめりに食堂から走り出した。父はそれを止めることも無く、机の角に手をついていた。

 数秒、足音は遠のいた。そしてまた数秒、足音が近づいた。開いた扉の向こう、義母は廊下を壁伝いに"戻って"来たのだ。食堂の僕達を視認する。また彼女は走り出した。そうして、何度も、僕達の前には、義母が現れる。その度に彼女は奇声を上げて去っていく。

 義母が倒れ込むようになった頃、父は義母に向って歩き出した。震えて動かなくなった義母の頭を掴み、小さく口を開く。


「最後にやりたかったのはこれか」


 淡々と、事務的に言葉を繋ぐ。そこに慈悲も哀悼も無いことだけはわかった。


「嫌だ、何で、何で私なのよ」


 数分ぶりに、義母ははっきりと意味を口にした。彼女の意識には、微々たるあきらめが含まれているようだった。


「私、アンタの子供まで産んだのよ。あんな可愛げのない娘、アンタの子供だから育てたのよ」


 腫れた唇から鮮血と唾液を滲ませ、彼女はそう言葉を吐いた。義母の体液を浴びる父の表情は、僕の立ち位置からは観察出来なかった。


「私、だから、いっぱいがんばったの。貴方が、から、がんばったのに」


 幼い目線を父に向けたと同時に、彼女の頭蓋は割れた。ひしゃげた骨は、壁にこびりついていた。きっと、明日は掃除が大変だろうと、そんな感想だけが、右耳から左耳に流れた。自らの足で義母を踏み崩す父の姿に、僕は目を閉じた。


 ――――父の存在の、何処から何処までが真実なんだろうか。


 父は過去の傷から足が悪い。では今、目の前で力強く骨と脳を混ぜるあの足は何だ。義母の素性を僕は知らない。その彼女が弟と呼んだ父は、何者だというのか。


 次々と、偽りだけが露呈する。何もわからなくなっていく。元々、信頼などありはしない。反動のダメージは少なかった。それでも、包みを失った汚物こそ、鼻奥の苦みと嫌悪感を呼び起こすのだろう。

 手に、冷えた皮膚が触れた。目を開けてみれば、棗が僕に身を寄せていた。弱さであれば、義母とそう変わらないだろうに、この少年にだけは、やはり負の感情が湧きにくい。これも、望を愛している日比野が僕に混じってしまったから。それとも、美醜の差が成す生理現象かもしれない。

 一時間ほどを費やして、義母の頭部はひき肉へと加工された。肉と骨の違いが分からなくなった頃、父は静かに呼吸を入れた。満足したのか、もしくは本来の目的を思い出したのか、父は義母の身体を引きずって、僕の正面を陣取った。


「食え」


 小さな棗の頭を引き寄せて、僕は父を見上げた。


「嫌です」


 反射的に呟いた言葉は、床に落ちた。父はそれを拾い上げて、また小さく口を開いた。


「食え」

「嫌です」

「食え」

「嫌です」

「駄々をこねるな」

「僕がそんな子供にでも見えますか」

「子供だ。お前は私の子供だ。子供には親に従う義務がある」


 親子喧嘩の延長線、僕の口元は確実に緩んでいた。


「子離れも出来ない男やもめじゃ、次の義母は期待しない方が良いみたいですね」


 頭蓋骨が揺れる。それに伴って、今度は脳が揺れた。父に殴られたのだと気づいたのは、棗が僕を見おろしていたからだった。痛覚の後追いを待ったが、それよりも前に父の拳が感覚を奪いに来る。どんなに待ったところで、意識も失せることはなかった。父の十七発目を、僕は掌で受け止めた。


「もう一生、筆は取れなくなりましたね、父さん」


 指先でなぞる父の右手は、皮が剥がれ、筋繊維の隙間から骨の破片が飛び出ていた。それら固形物の一部が、僕の頬を切って、父の血液を埋め込んでいた。

 僕の減らず口にも、父はもう答える気力すらない。疲弊した父の顔は、土の如く生気を失っていた。


「お前の自由意志を、多少は守ってやるつもりだったのだが」


 父は一つだけ、そんな愛情を吐いて、僕の足を掴んだ。床に散乱した義母を擦りつけながら、僕は廊下を引きずられていった。

 瞬間、棗の手を突き放す。僕は逃げろと口を動かしたが、彼はその場に座り込んでいた。そもそも、義母に起きていた現象を鑑みれば、棗が一人でここから出られる筈がなかった。

 廊下のカーペットで、僕の背と腹が磨かれた頃、父は立ち止った。もう一方の手で運んでいた義母を放り出し、ドアノブにてをかける。父が開いたのは、僕の部屋の扉だった。ただ寝ることしかできない空間に、僕と義母を放り込む。


「少年もいっしょにしてやる。待っていろ」


 僕が状況を理解するより前に、父はそう言って扉を閉めた。父の姿が見えなくなった途端、脊髄がドアノブを押す。しかし、外から鍵がかけられていたらしく、扉が開くことはなかった。数秒後、足音が聞こえて、その場から離れた。扉が勢いよく開かれ、棗の身体がボールのように跳ねた。


「明日また様子を見に来る。


 父はそう言葉を落とし、再び扉を閉じた。ネジを捻る音に次いで、重い金属のぶつかる音が聞こえた。

 鉄格子のついた窓の外、未だ太陽の出ない暗闇だけが、精神を焼こうとしていた。

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