第43話

 遠くなっていく。別荘があった広く深い山はポツンと、車両の背部から見える程度のものとなっていた。途中、着の身着のままだった僕達に、先生は一着ずつコートを買い与えた。僕も匡香もさほどサイズの違いはない。適当に選んだ黒のコートを、嫌に冷気が充満した車内で羽織った。フードを被れば、一瞬、誰かもわからなくなる。窓に映った僕は、まるで子供のようにも見えた。


「これ、何処に向かってるんですか」


 匡香が先生の後頭部を睨む。先生はハンドルを握ったまま、振り返りもせずにポツと零した。


「葬儀屋」


 言葉が、僕の鼻先に浮いた。

 隣でただ目を丸くする、何もわかっていない匡香を置いて、僕の口は開いた。


「僕の夢について、何か、解決法がわかったんですか」


 もとよりその約束である。夢について、わかれば――――解決するのなら、教える、と言ったのは、あの八百原という女社長だった。


「それも含めて、だ。お前の知らないお前のこと。そしてお前が気付き始めている小清水のことを共有する」


 やはりしっかりと、先生の口からも、彼の名が吐き出された。気付いていたのは僕だけではない。


「先に問う。お前は小清水の本名をわかっていて"小清水"と呼んでいるのか」

「違います。でも、本名を覚えてはいるんです。わかるけど、わからない」


 解説をせずとも、言葉の通りだった。■■■■という名をハッキリと小清水に結び付けることは出来る。けれど、その字面、音、意味を、僕は唱えられないでいる。きっと先生も同じなのだろう。それに気づいたのだ、今、僕達は。


「あのさ、アンタ達突然何言ってんの」


 ただ一人だけ、匡香だけは、共有が出来ずにいた。無理もない。この狭い空間において、彼女だけは今の所、当事者ではないのだ。


「お嬢さん、小清水の下の名前言えるか」


 先生の問いに、匡香は反抗の口を開いた。好いた人間の名だ。言えない筈がない。けれど、彼女のその唇は、それ以上動かなかった。


「わかん、ない、です」


 彼女は口元を抑えた。その横顔は、まるで夢から醒めた少女のようだった。


「良いか、お嬢さん。何も私達は小清水を問い詰めに行くとか、加害する気は一切ない。貴女が心配する事象は一つも起こらない。私達は、彼が今までどうして、どうやって、私達に存在を偽っていたか、知ろうとしているだけだ」


 そうだろう、と、先生がこちらへ僅かに目線を合わせた。僕は深く、息と共に頷いた。


「知って、どうする気ですか」

「まあ、少々な、七竈の身辺問題に関わっている可能性がある。その辺りを解決するにあたって……」


 先生は言葉を濁す。加害する気はない。だが、何かしらつもりはあるらしい。


「とにかくだ、七竈の"夢"に関して、正負はわからないが、影響は出ていた筈だ。それに、アイツは色々おかしい」

「何かあったんですか。その、僕らの地元を調査するって、前に言ってましたけど」


 僕の口から零れたものを、先生は短い舌打ちで拾い上げた。


「――――存在しなかったんだよ、"小清水"なんて家名は。あったのは七竈ななかまど和泉いずみ葦屋あしや鬼頭きとう藤座とうざの五家だった」


 記憶を探す。脳をまさぐりながら、僕は数年前の視点を問うた。確かにそこに、小清水の姿はある。けれど、その名は無かった。指が震えた。


「当初は犯罪に関する線を考えた。立花、知ってるだろ。アイツに色々調べさせたんだ。だが掠りもしない。だから、悪いが、お前の関係した事件を当たらせてみた。そしたら、何だ」


 手が、先生の首に向きかかる。唇を噛んで、四肢を制する。大丈夫、この人は、多分、僕を陥れようとしているわけではない。僕は言葉の続きを待った。


「誰だよ、■■■■って」


 僕と同等か、少し弱い程度の違和感。口に出来るのに、認知できない。何かがねじ曲がっている。一つだけ、歪んでいる。


「名前だけ、なんですよ」


 おかしいのは、それだけだ。僕と小清水の記憶は正しい。現実だった。夢は一つもありはしない。ただそこに"小清水"という名前は存在しないだけだった。


「名前を偽るのには理由がある筈だ。普通なら、社会的に隠れるだとか、後ろ暗いものがある。だがアイツは平気な顔で大学に通っている。存在そのものを隠す必要は無いんだ。とすれば、重要なのは■■■■という名だ。そして、それを誰にも違和感なく偽るという異常性」


 先生の中では、それらが、一つに繋がっているらしい。匡香は隣で口を半開きにして、視えない話を聞いていた。正直、僕の中でも、情報同士が浮いている状態だった。そっと、僕は先生の結論に耳を澄ませた。


「■■■■は怪異だ」


 意識の表層を掠める。自分の中の何かが、カリカリと引っ掻かれる感覚があった。


「認知の上書き、真名の偽造、怪異から影響を抑える特性……全体として見れば、既に行動も存在も人の範疇は超えている」


 先生の語調が強まっていく。鼻奥から何かが漏れ出す。血だった。僕の中身は、破裂する寸前だった。


「怪異は自分より弱い怪異の影響を上塗りする。■■■■は殆どの怪異の上を行っていたんだ。最初から、全部、本当はお前も怪異が視えている筈だった。なあ、そうだろう、"七竈ハラヤ"」


 名を呼ばれる。それは確かに僕の名だった。先生の細い首筋に、粘液を保った、頭足類の腕が視えた。視界に、血が這って行く。和泉が僕の肩に頭を置いて、笑っていた。冷たい、息で僕の耳たぶを撫でていた。


「お前は怪異なんだ、生まれた時から、今に至るまで、ずっと、人では無かった。それを覆い隠したのは、■■■■だ」


 違う――――とは、声が出なかった。


 言葉が、否定される。身体が僕の脳を、意思を、ブチブチと引き裂いて鼻の穴から捨てようとしている。


 車外に、葬儀屋の小さなビルが見えた。既に血塗れだった僕の手を、匡香が引き摺り出した。熱いアスファルトに、零れた赤血球が焼き殺されていった。美味しそうな匂いがした。

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