海抜0mの深海

あっぷるピエロ

第1話

 がしゃん、と古びたタイヤのチェーンが踏み込んだペダルに合わせて大きく鳴った。

 じりじりと肌を焼く日差しは朝だというのに夏さながらで、風を切って自転車をこいでいるのにちっとも逃げられない。

 僕は夏らしい真っ青な空を見上げて、緩んだスピードに抵抗しまたペダルをこいだ。暑い家から逃げ出してコンビニに向かう最中だ。隣の道路を車が一定間隔で走り抜けていく、平凡な休みの日。

 道の沿ったカーブを曲がってコンビニまでもう少し、といったところで僕は『彼』に気付いた。

 ――深海族だ。

 道路を挟んだ向かいの歩道を、互い違いの方向に歩く、灰色のスーツの男。普通の会社員のように、鞄を提げ、ネクタイを締め、革靴を履き、そして頭にゴーグル付きのシュノーケルをかぶっている。

 ふつうの日常的な服装に、そのシュノーケルはひどくシュールな光景だ。

 深海族。

 何らかが原因で息が詰まってしまい、地上で息を吸うことが出来なくなった人々。シュノーケルを付けた彼らを、僕らは深海族と呼んでいる。

 すれ違った彼を横目に見て、僕は何事もなかったようにペダルをこぐ。彼もまた、額の汗をぬぐい鞄を持ってバスに乗り、当たり前のように会社に行くのだろう。


 深海族が社会の一般認識にいつなったのか、僕は知らない。

 病気なのか、そう言う社会現象なのか。とにかく、今はもう珍しくない。彼らは何かしら頭から息を吸うための物を身につけているだけの普通の人たちだ。ただ、彼らからシュノーケルを奪うと、彼らはたちどころに『地上』で『溺れて』しまう。地上で呼吸が出来ない。まるで海の中にいるような呼吸器を付けていれば生きられる。だから深海族。未だに原因は解らないが、空気ボンベをつけている人まで見ると、彼らにはここが水中に見えているのだろうかと思う。


 コンビニにたどり着いて、涼しさを満喫しながら本を立ち読みした。まんが雑誌。三種類読んでアイスを買った。

 バニラの外側にチョコのついた棒付きアイスをコンビニの前で立ち食いしながら、これからどうしようか考える。と、僕の前を深海族が通りかかった。灰色のスーツの男性。行きに見た人と同じかと思ったけれど、かぶっている物が違う。今度の人は、顔を覆う軍とか警察の特殊作戦で使うガスマスクみたいな物をかぶっていた。口に空気缶がくっついていて、頭からまるごとかぶり増すの端が肩に掛かっている。暑そうだ。あと中身(顔)がまったく見えない。

「おいしそうだね、それ」

 僕が見ているのに気付いたのか、そのスーツの男性は立ち止まって声をかけてきた。目を反らしたつもりだったけど一足遅かったらしい。溶けそうになるはしをくわえて申し訳程度に首をぺこりと動かす。

「いいなぁ、外ではなかなかそういう立ち食いが出来ないのが辛いよ」

 マスクのせいで声はくぐもって聞こえてきた。まるで海の中のレポーター。テレビでやってる、シュコーシュコー、ごぼり、と音をさせて海中を実況中継する人。

「立ち食い、できないんですか」

 何歳かどんな人かもわからなかったが、調子が気さくな人だったので思わず返事をしていた。棒の上でアイスがずるりと動いて、あわてて口に放り込む。

 そんな僕を(たぶん)羨ましげに見て、深海族の男性はマスクでもわかるぐらい大きくうなずいた。

「外で外したら、溺れてしまうからね。マスクは、きちんと息が出来るところでしか取れないんだ。外だとご飯なんて食べられないよ」

 水面から出ない限りね。そういって彼は何もない上を指さした。僕には雲が浮かんでいる真っ青な空しか見えないけど、彼には遠い水面が見えているのだろうか。

「深海族は珍しいかい?」

 マスクが首を傾げる。何だか愛嬌のある動きだった。

「ううん。クラスにもふたりいるから。学校じゃ五人いる」

 珍しくないというのは、そういう意味だ。日常にとけ込んでいる。

 そのクラスメイトとは親しくないので、実のところ深海族についてはほとんど知らなかった。そういう人たちがいて。そういう道具をつけてないと呼吸が出来ないということ以外。

 ふと、興味が湧いた。

「……息、ホントに出来ないの?」

「んー、ぼくは少しなら平気だけど、無理な人はダメだよ。うん。外だと本当に息が出来ないんだ」

「じゃあそれ外せないの?」

「建物の中なら外せるよ。けど、外と通じる穴があるとダメだね。いつも開くコンビニとか会社、学校はまずアウト。ぼくの場合、家ならセーフ。ちょっと高層のアパートだから底より安心。部屋でも用心のためつけてる人も多いけどね」

「用心?」

「いきなり浸水して溺れたくないから」

 コミカルな動きで肩をすくめて、彼はコンビニの屋根の日陰に入ってきた。僕の隣。

 浸水。溺れる。深海族はそういった言葉を当たり前に使うらしい。シュノーケルを始めとした潜水道具に頼っているから、その見た目が深海族だったはずなのに、彼らは今本当に水の中にいるみたいに振る舞う。

 それはいったいどんな感じなんだろう。

「深海族になるというのはね、水の中に落ちる感覚だったよ」

 心を読んだように彼がつぶやいた。

「……」

 仮に、水の中に見えているとしたら。

「……魚はいないの?」

 舐め終わったアイスの棒を見る。はずれ。あたりは今日も来ない。

「いない。底まで日が差しているから明るいけど、見渡せる範囲には何にも泳いでいないし、水面は遠い」

 彼が空――いや、水面を仰いだ。つられて首を仰向ける。魚もヒコーキもいない。

 あとから調べて知ったことだけど、海洋学という部門では海面から二千メートル以上の深さを深海と呼ぶらしい。そして、深海には日が差さない。水面が見えるはずもない。

 よくわからないから、別のことを聞いた。

「泳げる?」

 マスクの中で彼は笑ったようだった。

「泳げない。だから溺れるのさ」

 深海族の治療法は今も研究されている。心意的な物か、身体的な物か。まだその研究は実を結んでいないし、一応生活の解決法は出ているから切迫した命の危機もなく、その歩みは遅いという。

 アイスの棒を捨てて僕はつぶやいた。

「なんで息が詰まるんだろう」

 深海族は――

 地上で息が詰まって呼吸ができなくなった人たち。

 深海族は――

 地上を水中のように体感してしまった人たち?

「何でって、決まってるじゃない。水の中だからだよ」

 大げさに彼が腕を広げて声を上げた。

 軽く眉を顰めた僕に、素顔の見えない彼は目の部分のガラス板からぐいとのぞき込むようにして、当たり前のことを指摘するように言った。

「知らないのかい? もうとっくに、地上は海に水没してしまっているのに」

 ――その瞬間、僕は海に落ちた。

 足下が水面の膜一枚だったのを忘れていたかのように、膜がぱちりと弾けて体が落ちる感覚がした。浮遊感。ないはずの水音が鼓膜を叩いた。

 ごぼり、と空気の泡が口から漏れていく。クラゲみたいに繋がって、空へ、目を凝らしても見えない水面へ逃げていく。

 僕の目の前は空と違う色の透明な青で真っ青になって、住んでいる町並みは水中都市かアクアリウムのようになり、このときようやく僕は世界は水に満たされていると知った。

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