幻の三階
下り階段の突端で、キャスロードは途方に暮れていた。
昇降塔の内壁を巡る螺旋階段は、五階に続く踊り場を過ぎて暫らくの所で、唐突に途切れていた。踏板の一歩先には何もなく、手摺の柵も途中で切られて宙に突き出している。
辺りには、施工用の資材らしき物が積まれていた。
「説明しようとしたのですが」
ようやく追いついたアディは、息を切らせながら、申し訳なさそうに説明した。
「三階に鍵はありませんが、階段が繋がっていないのです」
「そういうことは先に言え」
三人が一緒に声を上げた。うっかり先に踏み出せば、そのまま下まで落ちてしまうところだ。
そんな騒動をよそに、のんびりと、面倒くさげに、クランが階段を下りて来る。高さの異なる歪な段差は、下りの方が面倒だった。手摺に頼らねば転げ落ちそうだ。これなら上で待っていればよかった。
クランの通り過ぎた踊り場は、七階がベリアーノ・キリク・アーデルトの執務室、五階がラチェット・ロー・アズールの執務室に繋がっている。共に、モルダスを補佐する事務方だ。
アズールは真理の探求よりも現実に目が向いており、魔術師界の動向を窺う執政官の趣が強い。宮廷魔術師としては珍しい部類だが、協会を筆頭に、その手の魔術師もそれなりに数は多い。
塔に部屋を与えられた宮廷魔術師長の中には、一〇年来にモルダスが登用した者も多かった。術派を越える性格上、変わり者が増えたとの噂だ。その筆頭が
階段の先で頭を突き合わせる四人を見おろし、クランは途切れた手摺の先を覗き見た。昇降塔の向かい側に、その少し下に、階段のない踊り場が見える。あれが三階に繋がっているのだろう。
顔を顰めた。
中空の塔には斜交いがあり、吊られた滑車を介して、岩場の細い滝のような鎖が幾筋も垂れている。荷運び用の仕掛けだが、実用に耐えるかは定かではない。鎖の数が多く、仕掛けも妙に複雑だ。
「これは、俺への当て付けだな」
クランの呟きを耳聡く聞きつけ、キャスロードが振り返った。
「階段がないのは貴様のせいか」
「そんな訳あるか」
詰め寄るキャスロードに腰を屈め、クランは鼻の頭を指で弾いた。あう、と仰け反る王女の背中を、慌ててマリエルが下段から支えた。クランが横を擦り抜けて、途切れた階段を見渡した。
「跳ぶんだろう、きっと」
「ほぶ?」
鼻を押さえたまま目を寄せて、キャスロードがクランに繰り返した。
クランは塔の目の前に垂れた鎖を顎で指した。皆が揃って目で辿る。上に吊られた滑車には、斜交いに円の軌道があり、縁に寄るよう輪になっていた。見おろす先は三階の踊り場だ。
鎖は歩幅の先にある。ただし、下には何もない。
「いやいや」
コルベットが唖然と呟いた。
「そういうことか」
言うなり、キャスロードが階段を駆け下りた。えい、と掛け声ひとつで宙に跳び出す。アリエルとコルベットが悲鳴を上げた。揺れる鎖が弧を描き、下りながら内壁を巡って行く。
「おーう」
滑車と鎖の唸りの中に、はしゃいだ声が滑り降りた。
「ていや」
靴底が踊り場の床を打つ。キャスロードの笑い声が昇降塔に木霊する。
跳ねた鎖が歓声のように鳴っていた。
「着いたぞ、早く来い」
キャスロードが呼んだ。無邪気に見上げて、こちらに大きく手を振っている。責めるような視線がクランに集中した。仏頂面のマリエルがクランを突いて、つい、と鎖を顎で差した。
「冗談だろ?」
皆を見回し、クランは情けない声で呟いた。
渡り廊下の昼の光から、部屋の暗がりに目を慣らすように、皆は扉を背にして佇んだ。
主塔の三階には間仕切りがなかった。太い柱の影が縦に、明り取りの光の筋が横に格子を作っている。ただ、ただ広い広間だ。腰壁と床には板が張られており、油の管も生きている。
栓を捻れば燈が点いた。
仮止めされた灯りが階の全体を薄ぼんやりと照らすものの、正直なところ、皆は考えあぐねている。何も無さ過ぎた。痺れを切らしてキャスロードが走り出した。中央まで走って行って、振り返る。
「何もないではないか」
「見ればわかる」
ぼやいて、クランも歩き出した。
「行こうって言ったのは殿下だろ」
ぼんやりと辺りを見渡しながら、皆もキャスロードを追い掛ける。
「倉庫にでもなっているかと思いましたが」
「こんな所に倉庫なんか作るか」
アディの呟きにコルベットが突っ込む。
「荷物を運ぶたび鎖で飛ぶなんて、御免でしょ」
昇降塔を渡る際、最後まで抵抗したのがコルベットだ。従騎士の勤めとマリエルが突き落とし、踊り場で掴み合いの喧嘩になった。勿論、最初に突き落とされたクランには拒否権さえなかった。
「おかしい」
キャスロードが辺りをぐるぐると歩き回る。不服そうに口を尖らせた。
「ここに拐かされたサルカンがいたはずなのだ」
クランが鼻で笑う。
「こんな馬鹿な仕掛けを作るのは本人くらいだ」
「ならばここに逃げ込んで、」
かつん、と硬い音がした。キャスロードの足許から何かが飛び出し、床を滑って行く。音の先を探って、マリエルが追い掛けた。蹴られた物を拾い上げる。拳ほどある黒い石だった。
夜のように黒く、硝子のように透き通っている。断面は複雑な虹色に反射する。はて、どこかで見たような、そう呟くマリエルの手元をコルベットが覗き込み、ぎゃあ、と声を上げた。
魔晶石の塊だ。術式と施術を記憶し、再現できる、魔術装置に必須の石だ。
「なにこれ、この大きさ」
コルベットが目を剥いている。
魔晶石は天然の石でなく、今は生成の方法もない。稀に遺跡で発掘されるが、大半は再精製と再利用品だ。魔術師にとっての価値は計り知れず、協会が厳しく流通を管理している。
「いくらになるんだろう」
マリエルが顔を顰めてコルベットから魔晶石を遠ざけた。魔術師のくせに価値観がずれている。
「何があったのだ?」
「キャス、そこを動くな」
駆け寄ろうとしたキャスロードを無意識に制し、クランが歩いて行く。竦んだように突っ立つキャスロードの足許を、無遠慮に調べた。ふと、ピクリともしない王女に気づいて目を上げる。
「もう動いていいぞ、殿下」
「お、おう」
キャスロードは目を逸らして飛び退いた。頬が朱い。
「何かありましたか?」
マリエルとコルベットの魔晶石騒動を抜けて、アディがクランに駆け寄った。誰が魔晶石を持つかで、マリエルとコルベットはまだ揉めていた。
クランはアディの用意したランタンを借りて、床を辿った。床板には、彫られてできた筋が走っている。一部を切り欠いた同心円だ。キャスロードがあっと声を上げ、円弧の数をかぞえ始めた。ワーデンの者ならすぐに思い至る。これは市環だ。
「まて、
キャスロードは足早に端の小さな円弧に戻り、一歩ずつ前に出た。
「
「ほら、ひとつ多い」
「いや、
「あれは四〇〇年も前になくなったぞ、地図にも載っておらん」
「でも、どうしてこんな所にワーデンの観光地図があるのでしょう」
アディが呟く。
「あんたがわかんないのに、あたし達にわかる訳ないでしょうが」
コルベットが皮肉を返した。マリエルに魔晶石を渡して貰えず、少し臍を曲げている。
「あ」
キャスロードが気づいてクランの傍に駆け寄った。その足下の線を数える。
「殿下?」
マリエルが訊ねる。
「
キャスロードが立って跳ねる。アディは円弧の中央に立つと、手を伸ばして中心線を探った。中央大路の当りをつけると、キャスロードの位置に目を遣って、実際の場所を探ろうとする。
「西翼の、商工会の辺りでしょうか、筋の上なら用水路かも」
「中央帯の水路は
マリエルが呟くと、コルベットも思い出したように付け加えた。
「浄水橋のあるところだ、若手が施術の更新をさせられる場所だよ」
「でも、そこに何が?」
問い掛けるアディに、クランは肩を竦めて見せた。
「知るもんか」
言い捨て、再び皆の憮然とした表情に気づいた。頭を掻きながら面倒くさそうに応える。
「だが、そんなでかい石を、意味もなく転がしておく訳もないだろう」
確かに、とアディが呟く。
これ以上ここにいても無駄だとばかりに、クランは帰還を促した。実のところ、そろそろ腹の空き具合が気になり出している。アディも察して苦笑いした。
「何にせよ、その魔晶石と一緒に、ここを調べて貰った方がよさそうですね」
「私が見つけたのだぞ」
手柄を取り上げられるのが不本意なのか、慌ててキャスロードが口を挿んだ。
「そうだ、殿下もそう仰っている」
未練がましく魔晶石を目で追いながら、コルベットが囃した。
「では、殿下ご自身でご報告されるのは如何でしょう」
マリエルの発案にキャスロードが顔を上げ、顔を輝かせる。
「殿下があんな無茶な冒険をされたことは、女官次長にも届くと思われますが」
エレインの名が出たとたん、萎れるように顔を顰めた。恨めしそうに睨むも、マリエルは素知らぬ顔をした。床の図形と魔晶石に目を遣りながら、キャスロードはひとしきり唸った。
「よい、この件はアディに預ける、その代わり、エレインには内密にするのだ」
プチプチと泡の音ような声で呟く。
「そいつは何より」
聞いているのかいないのか、クランが適当な相槌を打った。
「ところで」
昇降塔の方を顎で指し、皆の顔を眺めた。
「あの鎖は戻る方にも動くのかな? 誰か確かめた?」
夕刻も近い頃合いになって駆け付けた衛士が、魔術師塔の渡り廊下で手を振る四人を発見した。王女の戻るはずだった時刻がとおに過ぎ、痺れを切らした宮廷侍従が使いを寄越したらしい。
キャスロードの望みも空しく、エレインは、アディも含めた全員に罰を課した。
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