短編小説 男狭穂塚古墳物語(上)

@nobuo77

目次


「妻国」由来

男狭穂塚古墳

高取山

髪長姫


「妻国」由来


 西都原台地の西に、ゆるやかな稜線を東方にのばしている高取山は、九州山脈の支脈のひとつである。稜線の中ほどから支脈は二股に分かれていてその空間に位置する大部分を田や畑が占めている。稜線のつきるところでは一ツ瀬川の川面がひかり、西都市街地の影を投影している。



 西都市は古代、投馬国と呼ばれていた。投馬国の由来は大陸からの渡来人が馬でやってきたからだとの伝承がある。第十二代景行天皇がこの地を巡行した折、案内した地元の首長が、

「ここは投馬国です」

 と説明したが、天皇は「妻国」と聞き間違えられた。首長は大あわてで天皇の後を追ったものの、すでに天皇は大勢の側近たちに囲まれて歩きはじめられていた。投馬国が「妻国」になったのは、そのときからだと言い伝えられている。



 投馬国の由来には、もう一つの言い伝えが残されている。魏国の冒険家が、当時の倭国にやってきて、対馬国・一支・などの島々を経由しながら、邪馬台国にたどり着いた。そこで仕入れた情報をもとに、魏国の冒険家が邪馬台国から南に陸行百里に投馬国ありと宣言してからのとで、こちらの伝言のほうが、妻の人々には受けがよかった。



 西都市の西の丘陵地が古代、斎殿原とよばれていた西都原である。東西約三キロ、南北四キロの広さがあり三世紀末から六世紀末ごろまでの三百年の間に四百基近くの古墳が造営された。古墳造営がはじめられた当初は比較的小規模な円墳がおおかったが、次第に規模の大きな古墳も造られるようなってきて、全長が百五十メートルを超えるような、巨大な前方後円墳も出現した。



 四百基近い古墳のほとんどは、丘陵地の周辺部をとりかこむようにして造られている。中央部の広々とした空間には、古代から現在まで、目立つような構造物が建てられた形跡がない。

 例外的に、五世紀後半になって、中央部の東南側に円墳形式の岩屋古墳が造られた。端麗な真円墳墓を真円の外周壁がとりかこんでいる。



 西都原の四百基近い古墳の埋葬者は、いまだに、ほとんどわかっていない。あの古墳にはこの人物が埋葬されていると、世の中にながされている情報は、ほぼすべてが推論であり、確証はない。西都原古墳の岩屋古墳にあっては、その特殊な形式に加えて、巨石をどこから運んできて、どうやって組みあげたのか、まだわかっていない。謎の埋葬者である。


 古墳とは、死者を葬るための墓のことである。古墳に埋葬されるような死者は生前、一定以上の身分を備えた支配階級者や、地元の豪族たちの墓であって、普通の人々の墓は、太古からつづく土葬にかわりなかった。



 人間が他の動物とちがうのは、死者への畏れを知ったことにはじまる。人類が誕生しておよそ四百万年。その間に徐々に精神活動が活発になり、人間が自分たちの屍を一定の手順で葬ることをはじめだしたのが、いまからようやく十万年前あたりからだと推測されている。



 埋葬方法は、土葬の他に風葬や鳥葬が考えられている。風葬とは死者を自然の中に放置しておくだけの埋葬だったろうか。屋内で亡くなったら、屋外に運び出して日常生活の目の届かない範囲に放置する。やがては砂漠で見かける朽ちた屍のような状態になって、土の中に還っていく。死体を鳥や獣たちのもてあそぶままにして放置しておくのが鳥葬や獣葬。そんな埋葬の仕方をつづけているうちに、人間には他の動物たちと違って、感情が発達し、死者への畏れがうまれてくるようになったはずだ。


 男狭穂塚古墳


 高取山の麓では現在、男狭穂塚古墳の造営が進行中であった。古墳の埋葬者は、今年四十五歳になられた諸県君牛諸井に決められている。諸県の君牛諸井の始祖は、都城での交易商人であった。代替わりをつづけているうちに、日向国を統治す日向国府長官にまでのぼりつめている。


 布冠をかぶり、長髪を耳の下で結び、ゆったりとした衣と袴の衣服を身につけている。腰に太刀をそなえて、手足の動きを助けるために、腕と足の太ももの下をひもでむすんでいる。そんな朝廷様式の姿をしている者は、日向国府内には牛諸井しかいない。ひきしまった丸顔をむけられると、おもわず、身がひきしまる。



 牛諸井には妻と娘がいる。妻の大原妃とは、牛諸井が大和へ上京しているときに出会った。年に二、三度の休日のある日、応神天皇の側近が1人の女性をつれてきた。天皇家と血のつながりがある女性とのことで、名を大原妃とよんだ。細長の顔に涼しげな目が微笑んでいる。髪に挿している櫛や両肩に掛けて左右へ垂らした長い布からは、いかにも高貴な女性の香りが漂ってくるようであった。


 半年後に会ったとき、二人は恋におちた。熱い一夜をすごした。一人娘は、諸県の牛諸井が、大原妃をともなって、日向国に帰ってき一年後にうまれた。幼い頃は父親ゆずりの丸顔だったが、成長につれて、やや母親似の細面になってきた。人々からは、髪長姫とよばれて愛された。


 この古墳の造営総責任者が木崎弥平という三十代後半の男だった。木崎は幼い頃から古墳造りの父に連れられて、各地の古墳造営の現場を渡り歩いていた。福岡板付、佐賀吉野ヶ里、壱岐、対馬の古墳造りが印象深く記憶にきざまれている。実家近くの西都原の在所に住みはじめて五年になる。



 牛諸井が木崎を造営の総責任者に任命したのは、木崎のこれまでの古墳造りの実績を見込んでのことだった。木崎弥平はつねに仕事着の衣と袴を着けている。顔の面積の半分をおおうばかりのあごひげだが、よく顔をのぞき込むと以外な童顔である。



 諸県の君牛諸井と木﨑の二人は冬の寒い時期から素案つくりをはじめた。木崎は二人の間の足もとの床に置かれている、大きな白木の板に、木炭で前方後円墳の絵図を描いている。

「このようにすれば、今までにないような古墳の姿になりましょう」

 前方の台形状の平面の先に、後円部の三段に区切られた円墳が描かれている。

「都の君ぎみの古墳にも劣らぬ雄姿になります」



 牛諸井は都の大君、応神天皇の要請で三年間ほど奈良の帝都で暮らしたことがあった。いまからおよそ二百年ほど前の景行天皇時代に、南九州一帯の熊襲、隼人征伐が行われていたが、いまの世になってもなを両国は、散発的ながらも、都の発する政策や人事に反発をつづけていた。

 外交に専念したい応神天皇にしてみれば、国内の不調和が悩みのタネであった。牛諸井は日向国の諸県君であったが、政治的な関心ごとには希薄な立場を貫いていた。諸県地方の都城は古代から熊襲、隼人の交易の交差点として発展を続けていた。

 牛諸井は先代が開発した両国の橋渡しの役割を担って、交易をつづけていた。牛諸井の名が示すように、和牛の生産と両国への流通はすべて牛諸井を通して行われている。牛諸井の名を聞いた大君は、隼人、熊襲平定の方策を探るために、伝令を派遣して、牛諸井を帝都に招集した。



 牛諸井は帝都で暮らしているときに一度だけ、大君のお供で古墳参りをしたことがあった。目的の古墳は帝都の南のはずれにあって、一日行程であった。

 翌朝、古墳参りをした。供の者があれは先代の眠る前方後円墳だと説明してくれた。後円部の高さは、見上げるほとに高々とそびえ、全面、ふき石におおわれている。そこへちょうど朝日がさしてきた。牛諸井の目の前で、ふき石の天頂部から底辺部まで、瞬く間に朝日の幕につつまれていった。磨きぬかれたふき石一つ一つが、まるで宝石のようにひかりかがやきはじめた。そのあまりにも神々しい姿に、牛諸井はしばらくの間、立ちすくんだまま動くことができなかった。


 牛諸井は床におかれた木版の絵図を見つめ、

「どうだ木崎。あのような古墳が、この西都原でも造ることができるであろうか?」

 と、たずねた。

「おそれながら、この木崎にお任せください」

 木崎は低頭しながらいった。

 その後、牛諸井と木崎は何度も話し合いを重ねながら、前方後円墳の素案を練り上げていった。


高取山


 工期を三年から五年。工費およそコメ俵換算一万八千俵。工事関係者は一日おおむね五百人前後とした。技術者や古墳造りの職人たちは、かって木崎弥平が仕事をしていた、福岡・板付や壱岐・対馬にも声をかけて募集してきた。人足たちは農閑期になると、妻周辺の農村はもちろん、日向国府内の首長たちにもひと声かけて、寄せ集めてもらうことにした。

 都の大君からは稲作拡大のために、新田開発がさかんに奨励されていて、日向国内においても、各地で規模の大きな新田開発がすすめられているが、今回の墳墓造りは、その新田開発の規模をもこえそうだった。


 春になると木崎弥平は、前方後円墳の場所選定に取りかかった。西都原台地には、すでに四百基をこえる古墳群がひしめいている。大は全長百メートルを超える前方後円墳をはじめ、そのまわりの倍塚や円墳、方墳などで、この古墳団地内に、あらたに百五十メートルをこえるような、規模の大きな前方後円墳を造営するだけの空き地をどこに確保するか、木崎は高取山の山頂に立ちながら悩んだ。



 足もとの西都原台地の中央部の広々とした空間は、昔から祭祀を行う場所として、古墳造営はさけられている。周辺部で空き地といえるような場所は、高取山のすそ野ぐらいしか見当たらない。

 しかしそこは、岩石が露出しているうえに高低差もあり、どう見ても古墳造営の適地ではない。

「古墳師木崎弥平ともあろう者が、はじめから、そのような弱音をはくとはな」

 牛諸井は木崎の話を途中でさえぎるようにしながら、しかった。



「壱岐・対馬にあっては、大岩を組んで大王の墓を造っていたと話していたではないか。ホラを言うでないぞ。岩ぐらい、何で恐れる」

 父親につれられて壱岐・対馬の古墳造りをしていたときには、たしかに大岩屋古墳を何基か造った。壱岐も対馬も海上に浮かぶ島国のために、巨大な前方後円墳をつくるだけの平地には制限がある。その代替え案として大岩屋古墳が発達した。



 大岩屋古墳の造営は、山肌から切りだした大岩を、箱状に組み立て、その上に土をかぶせて、碗を伏せた形にして成形する。今回、牛諸井が造ろうとしている前方後円墳とは、形状のまったく違う古墳方式だった。

「邪魔な岩を取りはらって、盛り土は高取山から運べばいいではないか」

 牛諸井の丸顔に光る二つの目が、ギョロリと、木崎弥平を射る。

「はっ」

「取りのぞいた大岩で、弥平自らの墳墓をつくるがよかろう」

 牛諸井はそういい終わると、目を庭にむけた。



 手入れの行きとどいた築山には、いまを盛りとツツジが咲きそろっている。築山越しに見える高取山が、威圧的に木崎弥平にせまってくるように思える。いつの間にか、植え込みの木陰から、二人の女性が歩いている姿が、木崎弥平の目にとまった。

 一人の女性は目鼻立ちがキリッとして気品を感じさせており、連れ添っているもう一人の若い女性も、見目麗しい姿であった。木崎弥平がはじめて目にする姿であったが、牛諸井の妻、大原妃と娘の髪長媛であることはすぐに察しがついた。



 大原妃が肩にかけた幅ひろのカラシ色の布が、ゆったりと泳いでいる。

束ねた髪にさしたクシ、衣に巻いた帯が大原妃を上品に仕立てている。

大原妃の一、二歩後ろをあるいている髪長媛は、17、8歳の女性で、身長は大原妃と同じぐらであった。

二人は時時立ちどまって、花を愛でている。部屋まで声は聞こえてこないが、二人の表情は和やかで美しかった。

 大原妃は鬼道に長けていて、農作物の鬼道占いなどで、牛諸井をささえている。髪長媛は海路の安定する七月には、奈良の都へ上京し、大君に仕えることになっていた。



 牛諸井は木崎弥平に食事を進めた。陽はまだ十分に高かった。別間にうつると、先ほど庭を歩いていた二人の女性が座って待っていた。木崎は戸惑いながら、挨拶する言葉が思い浮かばなかった。頭を垂れながら末席にすわった

 二人の女性はやわらかな微笑みを木崎にむけている。

「二人とも初めてであろうな」

 木崎に向かって牛諸井がいった。木崎は無言で頭を下げた。

「妃と娘」

「この度は君殿の永遠の館をお造りだそうだが」

 大原妃はすんだ音色の声でいった。

「ははっ」

 木崎は低頭しながら、妃の口から発せられた、古墳を永遠の館という表現に、自分との身分のちがいをおぼえた。妃の横に座っている髪長媛は終始無言だったが、不思議な精気と気品が感じられた。



 給仕が牛諸井と木崎の膳に、酒肴をならべている。あぶった山女魚と焼き筍である。木崎は須恵器の受け口を額の上にささげ持って、牛諸井の酌をうけた。

 牛諸井の屋敷を辞する頃には、陽はすっかり落ちていた。夜空は満天の星がかがやいている。


 翌日から木崎弥平は、信頼できる部下数名を西都原の空き地に建てていた仮小屋に集めて、作業手順の説明をした。古墳全体の作業をとり仕切る監督、一ツ瀬川の川原から水洗いしたふき石を採取し、西都原の広場に集積しておき、古墳の盛り土の進行状態を見極めながら敷きつめていくふき石監督、古墳の威厳を保つのに欠かせない埴輪造りの指揮官。一日あたり五百人前後の作業員確保を担当する者。炊飯担当者、医療など事前準備にはかなりの日数と費用が必要であった。



 日向国内にあっては、ここ数年、農作物の収穫が順調である。特に稲作にあっては、現大君の時代になってから、大幅に耕作方法が改善されていて、いままで以上の豊作がつづいている。

 日向国府に税として収められる農産物の量は、かってないほど次々と妻やその周辺の高倉に運びこまれていた。牛諸井にとって、いまの好景気がつづいているうちに、大原妃のいうような永遠の館を造営しておきたかった。


 木崎弥平はたびたび高取山の山頂に立った。一人の時もあれば、何人かの部下をひきつれて登ることもあった。いまはただの雑木林にすぎない足もとの土地に、これから自分が指揮して造営する巨大な古墳の姿を描きつづけている。



 そんな木崎弥平には、このところ心配が絶えないことがある。考えはじめると、夜も眠れないほどだ。腕のいい古墳造営業者の不足である。彼らの大方は、手間取りのいい奈良や大阪の墳墓造営に出はらっている状態なのだ。一時代前までの生目古墳造営や、国富の古墳造りをしていた業者までが、都周辺に出かける有様なのだ。

地元にあって、いまも小形の古墳をつくている者といえば、働き盛りをすぎた老人や一癖あるような職人たちが多い。



 木崎弥平はそんな古墳造りの男たちのもとに足しげく通って、協力を頼みまわった。

「まだこんな老いぼれを使ってくださるか」

「弥平さんが頭を下げなさるんなら、協力しなければなるめえ」

 都行きに乗りおくれて自棄酒を食らっているような職人たちまでが、木崎弥平の頼みに協力してくれるようになった。職人たちの配下につく人足たちは、在郷からかきあつめることにしている。農閑期が中心になるために工程もそれに合わせなくてはならない。



 古墳の表層部に立てならべる埴輪造り職人も、当然ながら人手不足であった。木崎弥平は生目古墳造営の時に、埴輪製作に経験のある職人の男を、西都原に連れてくることにした。彼から近郷の農家の女たちに埴輪造りの手ほどきを受けさせる。農閑期の女たちにとっては、臨時収入になるのでありがたい。

 木崎弥平は、連れてきた職人につぼ形埴輪を大量に造らせることにしている。つぼ形埴輪は、胴長で開口部が朝顔の花弁状に大きくひろがった形状になっている。


 梅雨があけると西都原は連日、真夏の焼けつくような暑さがつづいた。作業する男たちの中には、木の小枝を網状に編み、それを頭にかぶって日よけにしている者もいた。日がかげる頃になってようやく、日向灘や一ツ瀬川からの冷気が西都原に吹き上げてくる。


 諸県君牛諸井の姿を、このところ西都原に見かけない。髪長媛の上京が近いので、その方が多忙のようであった。木崎弥平が高取山の頂上に立つと、一ツ瀬川の湊にはいつもより多くの舟が浮かんでいる。


髪長姫


 日向国府内においてはこのところ、髪長媛の上京のうわさ話が絶えない。国府内から髪長媛を護衛して上京する人数は、五十名をうわまわるだとか、牛諸井の夫人、大原妃も付き添うらしいなど人々の言いあっている。

 十二代景行天皇の時代、日向国府長官に豊国分君が赴任してから、日向国と中央とのつながりが急に濃くなった。さらに髪長媛が応神天皇に召し抱えられれば、日向国と大和政権との関係は揺るぎないものになる。



 諸県の君夫婦にとって、皇室との姻戚関係が、いっそう深まる。畏れおおいことであった。その名をけがさないためにも、今回の古墳造りの失敗はゆるされないものであった。

 木崎弥平は、高取山のふもとで始められている、基礎工事の現場をみまわる日がつづいた。農家はいま田植えの準備に忙しく人足不足であったが、現場で雑木を伐採したり、岩くれを木馬にのせて木馬道を引いていく人足たちの姿を見ていると、諸県君牛諸井の古墳工事が着実に進行しはじめてる実感があった。


 髪長媛の出航は、大原妃の鬼道占いできまった。七月の満月の朝、日の出の刻である。

 近郷の人々は、前日から妻の一ツ瀬川の川原に集まりはじめていた。男たちは満天の星空の下で火を囲んで酒を酌み交わし、女、子どもたちは、国府からさしいれられた、にぎりめしをほおばりながら、夜明けを待った。



 日付の変わるころには、米良の山中で仕留めた鹿のなめし革を、男たちが舟に積み込みはじめていた。角付きの鹿の皮は、髪長媛を無事、都へ送り届ける男たちの装束である。その数は百枚もある。数が多いのは護衛団をおおく思わせて、海賊たちの目をそらす狙いがあった。櫓こぎの準構船では途中にある浅瀬をのりきれないために、一ツ瀬川の河口までは、有史以来常用されている丸木舟を使う。髪長姫をはじめ護衛団、鹿革、それに朝廷への数々の貢ぎ物類が、夜を徹して運ばれていく。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

短編小説 男狭穂塚古墳物語(上) @nobuo77

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ